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歴史

グレートゲームから9.11(米国での同時多発テロ事件)まで

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ダルラマン宮殿

アフガン人の国という意味を持つアフガニスタン。しかし、この国が国家として形成された歴史は古くはありません。特に19世紀以降の歴史は、外国勢力の影響を受けつつイスラーム化と近代化の中で国家そのものが揺れ動いてきた歴史でもあります。本稿では、英国とロシアの勢力争いに巻き込まれた19世紀後半から米国での同時多発テロ事件までのアフガニスタンの歴史を概観します。

アフガニスタンの統一と独立の達成

ロシアの南下政策と英領インドに挟まれたアフガニスタンは、19世紀後半、「グレートゲーム」と呼ばれる両大国の勢力争いの只中に置かれていました。英国(英領インド)は、アフガニスタンへの影響力を強めようと、1839、1878年と二度にわたる対アフガニスタン戦争に挑みましたが、後にソ連が苦しむことになる険しい地形がアフガン側に味方し、軍事的には敗退しました。他方、アフガン側も英国の強い要求に抗し切れず、またロシアの影響力を抑えるため、外交権を英国に譲り渡すなど実質上、英国の支配下(保護国)に置かれることとなりました。

そのような中、1880年に即位したアブドゥル=ラフマン国王は国家の統一を進めました。その例としては、ハザラジャードと呼ばれるバーミャンを中心とするモンゴル系でシーア派のハザラ人の居住地の制圧を行ない彼らの土地の大部分をパシュトゥーンに配分し、ハザラ人を奴隷として売りました。その結果、ハザラ人はアフガン社会の最下層に置かれることともなりました。また、カフィリスタン(異教徒の国)と呼ばれた地域を征服し、ヌーリスタン(光の国)と改名させるなど力による統一を急ぎました。

他方、英国の圧力により1893年に英領インドとの間で決められたドゥランドラインと呼ばれる国境(現在のパキスタンとの国境)問題は、双方にまたがって住むパシュトゥーン人を隔てるもので、今に至るまで「パシュトゥーン問題」としてアフガン=パキスタン関係の最大の懸案となっています。なお現在、両者の国境地帯は政府の統制が及ばない「連邦直轄部族地域(FATA)」となっていますが、当時の英国もこの地域の支配に悩んでいたといいます。さらに国土の北東部に突き出たワハン回廊が、ロシアと英領インドが直接接しないよう緩衝地帯を作るという理由のみで、ほぼ強制的にアフガン側が望まないままにアフガニスタン領土とさせられたのもこの頃です。

ラフマン国王死後、諸外国の事情にも通じたアフガニスタン人(マフームド=タルジーを中心とした「若きアフガン」と呼ばれるグループ)がもたらす情報等からアフガニスタンのナショナリズムは高揚し、第三次対英戦争に発展はしましたが戦線は膠着状態に陥り英国とアフガン側双方の厭戦気分もあり終戦を迎え、アマヌッラー国王のもと1919年8月にラワールピンディ条約により独立を果たしました。

近代化とその反動

アマヌッラー国王は、アフガニスタンの発展のため国内の西洋化を試みました。その端的な例が、女性の地位向上を目指した教育改革です。また1924年にはアフガニスタン初の憲法もロヤ=ジルガで承認されるなど近代化は順調に進むかに見えました。しかし、急激な近代化はイスラーム保守層の反感を買い、結局はアフガンの歴史上はじめてのタジク人のハビブッラーによる政権(その出自から「水運び男の乱(バッチャ=イエ=サカーオ)と呼ばれる」)の樹立を許しました。

その後、王族の一族で海外に逃れていたナディル=シャーが数ヶ月で政権を奪い返し、1929年10月には再びパシュトゥーン人による政権が生まれました。ナディル=シャー国王はアマヌッラー国王時代の急な改革を改め、イスラームを基盤とする国家建設に取り組みました。なお、1930年11月にアフガニスタン=日本修好条約が締結され、1934年11月にはカブールに日本公使館(1955年に大使館)が設置されています。

中立政策と米ソの援助競争

しかしそのナディル=シャーも1933年11月に暗殺され、その息子のザヒル=シャーが19歳で国王に即位することとなります。その後40年間にわたるザヒル=シャー国王時代は、第二次世界大戦、米ソ冷戦の中で基本的には中立路線を模索した時代でもあります。

まず戦前、ナチスドイツは対英、対ソ連という観点からアフガニスタンを戦略的要地とみなし、1930年代から積極的な支援や投資を行っていました。この時期、ルフトハンザ航空によるドイツとの定期便も就航していました。しかし第二次世界大戦が始まると、アフガン政府は連合国側の要求に応じドイツや日本といった枢軸国側の技術者の国外退去を迫りました。

戦後は中立政策を標榜しながらも、隣国であるソ連と米国との間での駆け引きの中で舵取りを行なってきました。1950年〜60年代にかけて両大国によって実施された援助は「冷戦の中での熱い援助戦争」と呼ばれる程でした。そのようなプロジェクトに、サラン峠トンネル(ロシア)、ヘルマンド渓谷開発計画等(米国)があります。

1953年に首相となった国王の従兄弟であるムハマド=ダウード=ハーンは、アフガニスタンを近代国家とするために積極的な改革を進めました。他方、パシュトゥーン人重視の姿勢からドュアランドラインを否定する言動でパキスタン政府と対立し、陸上輸送が生命線であるアフガン経済の生死を決する国境封鎖、さらには国交断絶の事態が生じるまでになった末、その打開のために辞任に追い込まれました。

共和制クーデタと4月革命

その後も王制のもと改革は進められましたが、カブール大学の教師、学生を中心とした中産知識階級はそれには満足せず、新たな動きが出始めました。1965年には社会主義を目指すアフガン人民民主党(PDPA:People's Democratic Party of Afghanistan)結成され、他方、1990年代以降のムジャヒディン各派の中心となる、カブール大学の教官、学生であったラバニ、マスード、へクマティアルらがイスラームに基づく国家建設を目指す運動を開始しました。

1973年PDPAの助けも借りてダウード元首相によるクーデタが起こり、「アフガニスタン共和国」が誕生し王制は廃止されました。

大統領に就任したダウードは、しかし、ソ連と米国との距離にも配慮しPDPAを排除する動きを見せたため、1978年4月には社会主義革命(4月革命)が起こり、ダウードをはじめとする一族は殺害され、PDPAをその設立当初から率いてきたヌール=ムハマド=タラキを大統領とする「アフガニスタン民主共和国」が成立しました。それはPDPAの勝利でした。しかし従来から知識層に基盤を持つパルチャム(旗)派と民衆に支持されていたハルク(人民)派の連合体であるPDPAは、権力掌握という目的が達成されるとすぐに内部抗争を引き起こすことになります。また社会主義政権の一方的な教育制度改革(強制的な識字教育)や女性の社会進出の促進、土地改革はイスラーム保守層のみならず農村部の地主、一般国民の不満を高めることとなりました。このような混乱の末、タラキ政権はハフィズッラー=アミン外相によるクーデタで殺害され、アミンが大統領の座につきました。

なお1747年にアフマド=シャーがカンダハールで即位して以降、1973年のクーデタまでのほぼ200年間、アフガニスタンの国王はパシュトゥーン人ドゥラッニー連合部族からから輩出されてきました。ダウードもその部族出身であり、この4月革命をもってはじめてドゥラッニー連合部族王朝支配が終焉しました。

ソ連侵攻と内戦

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ソ連軍の戦車

1979年12月のソ連による侵攻は、ソ連首脳部も予想外な程のアミン大統領の急激な社会主義化政策に対する懸念、その一方で米国への接近を図っているとの疑念、さらに国内のイスラーム勢力への接近とそれに応じて隣国イランのイスラーム革命がソ連領内のイスラーム勢力を勢いづかせることへの恐れ、といった危機感を抱いたソ連首脳部の決断でした。しかし他方、アミンの強権的な国家運営に反発し暴動等を引き起こしていたアフガン国内の反政府勢力の動きを抑え、さらには自らの政権の保身のために、アミン自身がソ連の軍事的支援を求めていたという背景もあります。

ソ連侵攻時にアミンは殺害され、その後を継いだカルマルはソ連の影響力もあり権力を維持してはいましたが、パキスタン経由で米国の支援を受けたムジャヒディン(異教徒からの攻撃に対しイスラーム共同体を守るイスラーム戦士)各派がソ連への攻撃を活発化させました。それによりソ連軍の駐留は予想外の長期化し、それに伴いに多くの犠牲者と財政支出を強いることとなり、当時の大統領ゴルバチョフはソ連軍の撤退を決断するに至りました。

またこの頃、ムジャヒディン各派への資金、武器の支援を取り仕切ったパキスタンのISI(Inter-Service Intelligence: 軍統合情報部)は、アフガンを親パキスタン政権国家にするため、その後も影響力を保持することとなります。その目的は、対インド戦略上、南北に細長いパキスタン領土を補完するための「戦略的深み(Strategic Depth)」と呼ばれる地理的な厚みをアフガニスタンに求めたことにあります。

1989年のジュネーブ協定締結後のソ連軍の撤退は同時に米国の関心の低下ももたらし、力の空白の中でのパキスタン、イランといった近隣諸国の助けを受けた国内諸勢力の対立と内戦を招くことになりました。カブールではナジブラ政権がまだ権力の座にありましたが、ソ連の支援がなくなったことで1992年4月には大統領を辞任し、ムジャヒディン各派による連立政権が生まれました。

しかし、民族も思想的背景も異なるラバニ派、ヘクマティアル派、ドストム派、イスマイルハーン派といった各派は、それぞれの政治的思惑により、そして各派が深く関係する周辺諸国(パキスタン、イラン、タジキスタン、ウズベキスタン等)の影響により、機会主義的な合従連衡を繰り返しました。その結果は、首都カブールでもロケット弾が一日に数百発も発射されるという内戦に発展し、数百万人に及ぶ難民が発生しました。

タリバンの登場と崩壊

1994年頃から急激に勢力を伸ばした「タリバン」は、次々に主要都市を攻略し、1996年にはカブールを制圧し国土の9割を支配するに至りました。後に人権侵害やバーミヤンの仏像破壊等で国際社会から批判を浴びるタリバンですが、当初はアフガニスタンの中でももっとも保守的な南部カンダハールから発生した「世直し」の集団と見なされ、ムジャヒディン各派の国民を無視した戦いに倦んだアフガン人にとっては希望でした。

タリバンの関係者は、アフガン=パキスタン国境の部族地域においてマドラサと呼ばれるイスラーム神学校で過激な思想の教えを受けた人々であるという由来もあり、当初からパキスタンISIの影響下にあったとされ、パキスタンの望むアフガニスタンの建設の担い手としてもパキスタンから期待されました。

しかしタリバン政権は、国際社会の中で自らの主張を述べる機会も少なく、また国家を運営する行政的能力も持たず、次第に国際社会からの孤立を深めることとなります。政権を国家として承認したのは、産みの親であるパキスタンのほかサウジアラビア、UAEに留まりました。またソ連侵攻時代に「ジハード」を戦うためにアラブ諸国から送り込まれた「アラブ=アフガン」と呼ばれるアラブ諸国を中心としたイスラーム教徒が、理想のイスラーム国家建設を目指しタリバンと連携しました。その最たる例がウサマ=ビン=ラディンとアル=カイーダのネットワークであり、それが9.11(米国での同時多発テロ事件)、さらに米英によるアフガニスタンへの報復攻撃へと繋がっていくこととなります。

【アフガニスタン事務所 嶋田晴行】

主な参考文献

前田耕作、山根聡〔2002〕『アフガニスタン史』河出書房新社
鈴木均 編〔2007〕『アフガニスタン国家再建への展望』明石書店
鈴木均 編〔2005〕『ハンドブック 現代アフガニスタン 』明石書店
Burnett,R.Rubin〔2004〕The Fragmentation of Afghanistan, Yell University Press.