私たちにできること−東日本大震災支援−[前編]

【写真】JICA四国 国内協力員 渡辺 香里さん(香川県出身)H15年度1次隊 ヨルダン 音楽
JICA四国 国内協力員 渡辺 香里さん(香川県出身)

【画像】東日本大震災後、何かしたいという気持ちと、何をしたらいいのか、自分に何ができるのか分からないという気持ちで、テレビを見て泣くだけの日々が何日も続き、悔しさともどかしさていっぱいだったという渡辺さん。震災後の2011年4月・7月の2回、被災地にボランティアに入り、活動してきました。2012年1月には、香川県協力隊OB会の活動として、被災した子どもたちを東北各地から香川に呼び寄せ、絆を深めてきました。この7月には、再度東北へ向かい、震災復興ボランティアを通じて生まれた人と人とのつながりを再確認することができました。
いま、私たちにできること−前編では、渡辺さんのこれまでの活動を振り返ります。

1年ぶりに訪れた東北−これまでを振り返って

2012年7月、一年ぶりに東北を訪れました。
東日本大震災後、2011年4月に訪れた石巻、7月に訪れた気仙沼大島と、今年1月に四国へ中学生を呼び寄せた釜石を周ってきました。東日本大震災から1年4ヶ月、あの時お世話になった人たちとのつながりを再確認する機会となりました。

2011年3月11日−その時、私は・・・

2011年3月11日、東日本大震災発生。
その頃私は高松市役所に勤めていました。夜9時を過ぎて帰宅し、テレビを見るまで震災が起きたことを知りませんでした。どのチャンネルでも、見るも無残な映像が映し出され、しばらく呆然とした後、知る限りの知人に安否確認の連絡を取りました。いけないとは思いながらもそうするしか思いつかず、慌てて連絡をしたけれど、仙台と二本松に住む友人の電話はつながりません。とにかくテレビとパソコンの前から離れることが出来ず、連絡がとれない友人への不安と、どうしようも出来ない自分に対する情けなさとで涙が止まらず、そんなことで泣いている自分にまた腹が立った記憶があります。

震災から1ヶ月−2011年4月、石巻へ

石巻市内の被災状況

うどんの炊き出しに並ぶ人たち

石巻市立渡波小学校

何枚もの安否確認の紙が貼られた体育館入口

震災1ヶ月後、4月に入って私は石巻を訪れました。香川県で弁護士をしている立野先生の呼びかけのもと、14名の有志が集まり、4トントラック2台にたくさんの団体・企業から贈られた支援物資と3000食の炊き出し用のうどんを積み、必要な水や発電機、ガソリンなどは全て持ち込みました。

専修大学を拠点にボランティアセンターが整備されており、ボランティアが入りやすい状況となっていたこの街ですら、車がやっと通れるだけの道路の脇には道が続く限りのガレキの山。まだまだ冷え込みの厳しい寒さの中に立ち込める潮の臭い。あの日、この場所で起きたことを想像することも恐ろしかったです。3日間に渡り、市内各地での物資の配布と炊き出しを行いましたが、1000食のうどんが3時間で売り切れ。配布物資に2回並ぶ人たちを見て誰が拒むことができるでしょうか。

石巻市立渡波(わたのは)小学校も1階部分はほとんど津波の被害に遭いながらも避難所として使われていました。それまで何度もテレビで見ていた避難所の光景。何枚もの安否確認の紙が貼られた体育館のドアを開けると、たくさんの家族が小さなスペースを作り、目隠しにもならない高さにダンボール箱を積み上げていました。中央には、コンビニのおにぎりとパン。テレビでよく映されたこの光景を目の当たりにした時、とても中に入ることが出来ませんでした。

子どもは夜泣きもするでしょう。お年寄りには底冷えが体に厳しいでしょう。年頃の女の子の着替えは?愛する男女の営みは?私には帰る場所がある。この1週間頑張れば、香川に帰って好きな食事をとり、暖かい布団でゆっくりと眠ることができます。この状況の中「頑張ってください」という言葉をかけることはとても出来ませんでした。

震災から4ヶ月−2011年7月、気仙沼大島へ

気仙沼大島

津波で陸に乗り上げた船

「おばか隊」のみなさん

2011年7月、気仙沼大島にボランティアに入りました。大島は気仙沼湾から7.5kmの距離にあることから、支援の手がなかなか入らず、復興作業が進んでいないという状況を知った協力隊OBが、長期的に滞在支援を行っているところに、私も手伝いに参加させてもらいました。

前述の理由もあり、大島では地元住民が一丸となり復興作業に取り組んでいました。震災から4ヶ月たったこの時期に、やっとその仕組みが確立されはじめ、ボランティアを受け入れる体制が整ったという話を聞きました。震災まで、島の収入は水産と観光でまかなわれており、それに携わっていたほとんどの人は、津波で職を失っていました。そんな中で失業した若者たちが集まり、「島の復興は自らの手で」と結成されたチームは、辛いことがあってもバカなことを言って笑えるようにと「おばか隊」と名づけられていました。彼らは自らの家の片付けも後回しに、住民から作業依頼を受け、ボランティアを割り振り、自らもガレキ撤去作業を行う。震災後、休むことも忘れて動いていました。

「私が見たあの光景こそが津波だ」−あの日、あの時の真実

ガレキ撤去作業

家主の方と一緒に

7日間、ガレキ撤去作業を手伝いましたが、毎日どんなに頑張っても私一人が運べるガレキの量なんて、ほんのわずかです。そんな中、家主の方が一日2回、お茶やお菓子の差し入れを持ってきてくれました。申し訳ないと思い、遠慮しても毎回必ず持ってきてくれ、少しずつ休憩時間をとるようになり、一緒に話をするようになりました。そこで聞いたあの日あの時の真実。
「私にとっては、テレビで見るのも写真で見るのも津波ではない。私が見たあの光景こそが津波だ」と。

2012年1月、被災地から中学生を香川に呼び寄せ

香川でうどん打ち体験

大平ソーランを披露

マラソン大会に参加

年が明けた2012年1月、香川県協力隊OB会に協力してもらい、釜石、岩沼から中学生19名を香川に呼び寄せました。子どもたちを呼んだ理由は、「被災した辛い思いを少しでも忘れて、とにかく楽しんでもらいたい」ということ。香川ならではの讃岐うどん作りやみかん狩り体験の他に、参加したメンバー全員でリレーマラソン大会にも出場しました。
子どもたちはとても元気で明るくよく笑い、一生懸命でした。釜石から参加した大平中学校の生徒は校内のソーラン実行委員会を務めているメンバーで、香川でも何度か独自のソーラン節を披露してくれました。その踊りは何とも力強く、見ている私たちに元気と希望を与えてくれました。

「被災した子どもたちに楽しい思い出を」という思いで実施したこの企画は、結果私たちが元気をもらう形となりました。私たちには想像することしか出来ない辛い思いもたくさんあるでしょう。私には、その思いを慰めることもできません。震災が起こったことは本当に悲しいし、二度とないようにと願います。でもこの震災をきっかけに、出会うはずのなかった人たちが出会い、思い合っていること。みんなが力を合わせ、東北復興のために、これからの日本のためにと支え合う姿はこれからも継続し続けたいと願います。



>>香川からもできる応援、私にもできること。
  次回は、この7月に再訪した東北での報告です。
  (9月下旬更新予定)