伊東恵合子 「フィリピン イロイロ滞在記」
Eriko Ito
秋田県由利本荘市出身
青年海外協力隊
- 職種
- 村落開発普及員
- 配属先
- フィリピン/国家灌漑庁国家灌漑庁第6地域事務所(イロイロ州ハロタカス村)
- 活動概要
- 農家の所得向上を目的とした高付加価値水稲栽培(無農薬栽培、アイガモ農法、日本米等)を進める。栽培面での技術指導と並行して、収穫後管理やマーケティングについての指導を行う。
- 派遣期間
- 2006.3月〜2008.3月
- プロフィール
- 大学卒業後、3年半の企業勤務を経て協力隊に参加。2006年3月よりフィリピン・パナイ島に赴任中。仕事はもちろん、フィリピンでの生活も目一杯楽しむ予定です。フィリピンはとにかくフルーツが美味。おいしいのはバナナだけじゃありません!!
第13回:フィリピンの東北?ツゲガラオ&バナウエ訪問編(2008年1月7日)
フィリピンの協力隊員は、年に2回、総会を開催します。総会とは、隊員が集まって活動報告会をしたり、安全のための講習会を開催したりする集まりのこと。健康診断も行われたりします。
船に乗り込み、向こう岸の洞窟へ。
パンシット・カバガン。汁ありでうずらの卵がのっている。
パンシット・ツゲガラオ。半熟卵がのっている。どちらもカラマンシー(フィリピン版すだち?)を搾って食べると美味。
この総会に、久しぶりの休日をくっつけて、ルソン島を旅行してきました。
フィリピンは大きく分けて、首都のあるルソン島、南にあるミンダナオ島、そしてちょうどその中間にあるビサヤ地域の三つになります。
私の任地はビサヤ地域にあるため、首都にも滅多に上がることがなく、ルソン島を旅する機会は本当に限られているのです。
首都のマニラからバスで半日も進むと、私の同期隊員が住んでいる町、ツゲガラオがあります。
同じフィリピンと言えども、ビサヤとルソンは大違い。バスを降りると、寒い!!
ということで、何枚も重ね着をしてストールをぐるぐるに。
ツゲガラオでは、同期隊員がいろいろともてなしてくれました。
最初は洞窟探検。洞窟にたどり着くまでに、ジープニーで約1時間進み、さらに船で川を横切ります。この川の周辺が、東北の方でご存知の方がいらっしゃると思いますが、どことなく岩手県の猊鼻渓に似ています。フィリピンではおなじみのヤシの木がほとんどなく、松の木が生えてます。洞窟は、予想以上に大きく、そして昼間でも真っ暗で明かりがないと進めません。中には教会までありました。
そして、ご当地グルメと言えば、ツゲガラオでは何といっても、パンシット・ツゲガラオです。
パンシットとは麺のことで、フィリピンならどこでも食べられるメニュー。たまご麺のようなものがあったり、ビーフンを使っていたり、さらに汁あり・なしで様々なタイプがあります。(ちなみに私の任地のご当地麺はバッチョイ、そしてワンタンスープのようなパンシット・モロがあります)パンシット・ツゲガラオは麺がきし麺のようで、汁がありません。上にキャベツと半熟卵、さらに豚の皮を揚げたチップスがトッピングされています。さらにツゲガラオの近隣にある町カバガンが発祥の、パンシット・カバガンはうずらの卵がのっていて、こちらは汁あり。醤油ベースです。
ツゲガラオを出た後、さらに世界遺産にも登録されているバナウエの棚田群も見てきました。
写真で見たことはあったのですが、やはり自分の目で実際に見てみると圧巻で、山の斜面をみごとに全て田んぼにする技術には本当に驚かされます。
棚田を見ると共に、そこを案内してくれる地元のトライシクル(サイドカー付き二輪車)ドライバーのお兄さんが地元のことを知り尽くしていることや、ジープニーの向かいの席に座っている若い女性が、この地区特有のアクセサリーを日常使いしている姿なども、地元を愛する気持ちと生活感が伝わってきて、私にとっては素敵に映りました。私が地元秋田、そして東北地方を愛するように、ここに住んでいる人もバナウエを愛しているのだと思います。
第12回:制服デビュー編(2007年12月12日)
火曜日の制服は水色。農家の巡回などに出かける際は水色のポロシャツを着たりもします。
挙がっていく国旗に向かって、国歌斉唱。みないつも胸に手をあてる。たまに私も国歌の指揮をしています。
結構前の話になりますが、配属先で新しいデザインの制服(ユニフォーム)を作ることになり、この機会に私も同じものを作ることに。男性はバロンタガログという襟付シャツ(フィリピンの正装スタイル。結婚式では純白のバロンを着るのがお決まり)、女性はブラウスにスカートかパンツを着用します。
フィリピンでも、政府機関を始め、学校や企業などで制服を着用するところが多いですが、面白いのは毎日制服の色が違うこと。月曜日は緑色、火曜日は青、水曜日はピンク・・・などと非常にカラフル。最初は私の配属先だけなのかと思っていましたが、フィリピンはどこでもこういう傾向にあるのだとか。
私「どうして毎日制服の色が変わるの?」
同僚「フィリピン人は華やかなのが好き。毎日違う色の制服の方が絶対に楽しいわよ。日本は?」
私「デザインは一つしかないところが多いと思うけど」
同僚「なぜ?飽きてしまったりしない?」
私「確かにいろんな色があった方が楽しいけど、何着も買ったらお金がかからない?」
同僚「ユニフォームを作るときに、若干、手当が出るの」
ということらしいです。
私の配属先では、毎週月曜日の朝にフラッグ・セレモニーがあります。「朝の集い」のようなものでしょうか。国旗掲揚に続き、国家斉唱、配属先の理念の唱和が行われます。学校教諭隊員に聞いた話では、毎朝フラッグ・セレモニーをするところもあるそうです。
第11回:交通事情編(2007年9月13日)
現在行っている私の活動は、農家の方たちの収入向上のための高付加価値作物の普及とその販売支援。また農家の組合の運営支援。これらのために、多いときは週に3回ほど、村に出かける日が続きます。交通手段は小型二輪。今回は私の生活の範囲内での、ちょっとした交通事情をお届けしたいと思います。
毎日、JICAから貸与されたバイクをとても便利に活用させてもらっています。日本では車の運転経験しかなかったのですが、こちらに来る前にバイクの免許を取得し、日本&フィリピンで運転講習を受け、今に至っています。慣れるとかなり快適です。
ただ、貸与当初は運転に慣れず、少し運転しただけでヘトヘトに。運転するときも気持ちの余裕がありませんでした。フィリピンの交通事情に慣れていなかったからです。
車両が右側通行である事に慣れるのにも少し時間はかかりましたが、最初の関門は信号のない道路をうまく通過すること。私の任地イロイロは比較的大きな街ではありますが、信号がほとんどありません。同僚に理由を聞いてみると「交通整理をする警察官の仕事がなくなるから」という答え。信号を取り付けることは出来るが、あえてしないという事らしいです。確かに失業率は高く、仕事を探している人の話はよく聞きますが。
信号がなく、さらに運転が豪快でスピード狂(!?)のドライバーたちの間をいかにうまく通り抜けるかと言うことは、徒歩でも難しいのです。最初は道路をうまく横切れずに立ち往生していました(横断歩道もそんなに見かけませんし)。練習の甲斐あり、おかげ様で今ではバイクでもうまくタイミングを計れるようになりました。
それ以外にも、道路を運転するのにはいろいろな障害物があります。以下にざっと挙げてみたいと思います。
フィリピン市民の足、ジプニー。乗客は止まって欲しいところに来ると、ドライバーに声をかけます。乗客に親切な乗り物は、その後ろを走るものには障害物となります。本当にいつ止まるか分からない!!急ブレーキをかけるドライバー多し。車間距離は十分に。
道でくつろぐ牛たち(こちらでは日本の牛小屋の様なものがなく、道に紐で無造作につないであります。)
もうもうと砂埃をあげて走り去る大型車。
道路の中まで堂々と干してある、モミ。
突然飛び出してくる家畜たち。道端につながれているヤギが、首にひもをつけたまま、道路の逆サイドまで、とうせんぼ。相当数存在する野良犬も運転を邪魔します。そしてフィリピンの鶏はすばしこい!!ものすごい速さで道路に飛び出してきます。この間はショッピングモールの前の道路をカラバオ(水牛)が猛突進しているのを目撃(これは珍しいケース)。前方だけでなく、動物の鳴き声などにも注目です。
こちらではかなり多い、道路のひび割れ、陥没。これを避けようと、対向車が大回りによけてくる事があります。対向車と道路の状態をチェック。また自分がそれをよける際の後方チェックも忘れずに。後続車が必要以上に迫っていることがあって驚かされること度々。
ひび割れだけでなく、路上に広げてあるモミ。脱穀したあとのモミを自然乾燥させるために道路上にゴザをひいて、モミを広げてあるのです。ときに道路の半分を覆っていることも。豪快なドライバーは、このモミの上を走り去っていきます。私はこのモミをよけるのに一苦労。S字や8の字運転の練習はこういうときのためにあるんですね。
村へ至るまでの砂利道。特に乾季はこの道を車が走った場合は、砂煙がもうもうと立ち上ります。視野がさえぎられ、ほこりで息が出来ない!!ヘルメット、長袖・長ズボン、スニーカーにグローブ、+マスクも必需品。逆に雨季になると、大きな水溜りとの格闘が始まります。
日没前の時刻。前方から飛んでくる虫に注意。日本の比ではありません。顔面中に虫がぶつかり、痛いわ、前方不注意になるわで大変です。さすが南国の虫の数には参ります。
これらの障害物はほんの一部です。他にもいろんな危険なケースが考えられます。日々、安全運転を心がけて、走っています。また、バイクの定期点検もきちんと行っています。私はバイクについてそれほど詳しくないので、配属先の車両点検の担当者にお願いして点検してもらっています。不具合があれば、きちんと整備し、対処法などについても聞いておきます。
活動をよりスムーズに、便利に進めるための手段であるバイク。交通事情を通してフィリピンを知ることが出来るのも、バイク貸与の醍醐味です。何はともあれ、安全第一で活動しなくてはと自分に言い聞かせながら、走り回る毎日です。
以上
第10回:戦争の傷跡編(2007年8月19日)
フィリピンは多様な文化を抱える国家である。スペイン、アメリカ統治の時代の産物も様々なところに残っている。それは言語であったり、食生活であったり、現代のフィリピン人の生活に深く根付いている。
一方、長いフィリピンの歴史の中で、日本の統治の時代があったことも、忘れてはならない事実である。過去に派遣されていた隊員の中には、統治時代の記憶さめやらない現地住民から非難の言葉を浴びせられたり、信頼関係を築くのに非常に苦労した経験を持つ人もいたらしいということは聞いていた。
私の場合も、身近な人との会話の中で、ときおり先の大戦時の話が話題に登場することはあっても、深いところまで話は及ばないし、身近なフィリピン人からは「それは過去のことで、私たちには私たちなりの関係の築き方がある」というスタンスの発言が多かった。そんなことから、私は自分の任地に残る戦争の傷跡に触れることをしていなかった。
そんな中、交流のある日本のNGOの方が、大戦中に起こった日本人住民の集団自決の場所に見学に行くという話を聞き、同行させてもらった。場所は、任地イロイロから車を約40分ほど北東に走らせたマアシンという町だった。地元の大学の教授で、戦前の日本人コミュニティに詳しい方がガイドしてくださった。以下はその際の説明といただいた資料によるものである。
夏の首都と呼ばれる高原都市バギオへ至るまでの、山中の道のり。この道路建設の裏に、日本人の労働力もあったことを知る。
パナイ島にいた日本人住民や日本軍が逃げ込んだとされるレオン町の山の中。
集団自決の現場にひっそりとたたずむ慰霊碑。
1900年頃、首都マニラから車で6時間ほど北のバギオを避暑地にするために道路建設が必要となり、日本から労働者を募った。この道路を私も通ったことがあるのだが、山中の九十九折の道で、山の斜面の大変険しいところにある。展望台には、日本人労働者も建設に一役買った旨、記されている。
この工事が終わった後、日本人移民たちは新たな職を求めて、フィリピン南部のミンダナオ島に移った。ここでは、マニラ麻を生産する事業を興し、特に第一次世界大戦中には軍艦のロープとしての需要があったために財を築くことが出来た。その後、移民たちはミンダナオから、マニラやセブ島、ネグロス島、そして私の任地であるパナイ島へ移る者もいた。イロイロにはこういった日本人たちのために小学校が建設され、コミュニティの活動の中心として利用されていた。移民たちは漁業組合などを設立し、事業も軌道に乗っていた。
日本軍は真珠湾攻撃と同日(1941年12月8日)、フィリピン数ヶ所を攻撃(当時のフィリピンはアメリカ領)。フィリピンも戦場となった。パナイ島にいた日本人は強制収容され、その生活は日本軍が島に上陸するまで約4ヶ月間続いた。日本軍が上陸した後は、フィリピン人住民が逃げ去った後の空き地に共同生活をしていたが、フィリピン人によって結成された抗日ゲリラに襲われ、命を落とす者もいたという。
日本軍の戦況が悪しくなり、ついにパナイ島にもアメリカ軍が上陸(1945年3月)。その頃には、日本人移民は軍と共に山中に逃げる計画を立てた。昼は休息をとりつつ身を潜め、夜中になると目的地に向かって移動するという日々を続けた。
もちろん、空腹や病気で脱落するものもいたし、女性や子どもには厳しい行程であり、途中の町マアシンでこれ以上足手まといになるのはやめたいという者が集まり、集団自決した。逃避行4日目のことだったという。
40名以上が犠牲になったとされている。現在、その場所にはひっそりと慰霊碑が建っている。本当に山中の小さなスペースで、ここに至るまでの山道も険しく、当時の状況を想像すると、何とも言えない気持ちになった。

その後、集団自決に加わらなかった者たちは目的地であるレオンという山中の町まで逃げ、終戦までの約半年を空腹と闘いながら過ごした。終戦を知って山を降り、レイテ島のタクロバンから日本へ強制送還された。
ガイドをしてくれた教授が関心を持って研究されている戦後の問題は、残留孤児の問題である。この集団自決から奇跡的に救い出されたものの、孤児として現地に残された人もいる。近年、再開を果たした家族もいるが数は少ない。また彼らが日本国籍を取得することも難しいという。
見学で初めて知った事が多く、特に自分の知っている施設が当時の強制収容所だったり、アメリカ軍が上陸した浜だったりと、身近な戦争の形跡に驚かされた。日本による統治は3年。言葉でいう3年は短いが、フィリピンに与えた影響は大きい。
今私に出来ることは何か。まずは知ることから始めなくてはならない。
第9回:イロイロから船で15分、ギマラス到着(2007年7月25日)
私の任地があるパナイ島の南東にあるイロイロから、一番近いところで4キロほどのところに浮かぶ島が、ギマラス島。もしかしたら、パナイ島から泳いでいけるかな?なんて考えてしまいそうな場所にあります。赴任後、時間があるたびに訪れていますが、イロイロ市にも増して時間の流れが穏やかな場所。素敵な名物もたくさんあります。今回はギマラスをご紹介。
何個食べられるかな?
昨年の優勝者は6キロ食べた!!
何が有名かというと、何といってもマンゴーです!毎年4月または5月に、マンゴー祭りが開催されます。いろいろな企画が行われるのですが、マンゴーの食べ放題は恒例行事。
お土産もマンゴーを。
品質維持のために、マンゴーの実や苗などの外部からの持ち込みは禁止です(港で荷物検査あり)。
おおぶりのマンゴーだと、一皿4つで大体1キロ。私や友達は1キロ食べるのも難しかったのに、チャンピオンは6キロ制覇。しかも去年は10キロ食べたそうです。信じられない・・・。さてお味の方ですが、文句なく甘い!!本当に病みつきになります。ギマラスからは多くが輸出されています。 ドライマンゴーやピクルスなどの加工品もよく販売されています。
大胆な柄が青空に映える
また、毎年2月にイロイロ側の浜からのヨットレース「パラウ・レガッタ」も行われます。これはイロイロ側からギマラスまでをヨットで競争するという行事。速さだけでなく、ヨットの帆のデザインも得点に加算されるそう。独創的な柄をたくさん発見!!
教会に続く木陰がまたリラックスさせてくれます。
本当に時間の流れがゆっくり。
特にのんびりしたいときは、教会に行きます。トラピスト修道院の教会と、そこに続く木陰はとてもリラックスさせてくれます。ここで加工したドライマンゴーや、アクセサリーなども購入することができます。
美しいビーチも。近所に住んでいる人たち、休日を過ごしに来た人たちが、このビーチでのんびり過ごしています。また島の南側はマングローブ林で覆われ、海洋研究所なども設置されています。
島の移動手段は、ジプニー・トライシクル・モーターサイクル。ジプニーはほとんど通りません。トライシクルから眺めるギマラスの風景はとても素朴で、見渡す限りマンゴーの木が広がっている場所もあり、ヤシの木に登って実を収穫している姿もあれば、林の合間に養殖池も。港の風景とイロイロ市まで見える絶景ポイントもあって、何か新鮮な感動がありました。(別に展望台があるわけではなく、一般道から見えるんです)
この島も、昨年はタンカー沈没による重油流出で大変な被害を受け、漁を生業としていた人たちは収入を断ち切られたし、ビーチリゾートからは人が消えました。今でもその影響は続いているといいます。昨年訪問したマングローブ林は、根元が重油に漬かった跡があり、そのダメージで枯れてしまったものもあるとのこと。海岸の研究所そばには、海辺のクリーンナップを行った際の重油の処理物がまだ若干残っていました。
農業、漁業を中心に、近年は観光をさらなる収入源にしていこうとしているギマラス。その中でのこの事件は大きなダメージだったけれど、それに負けず、この島の自然の魅力を住民たち自身でもっとアピールしてほしいと思います。
第8回:漁村の奨学生訪問編(2007年4月20日)
同期隊員による折り紙教室。
ちょっと大きすぎたかな?
海で遊ぶ子どもたち。
台風で壊れた、島の桟橋。
フィリピンには協力隊員独自の奨学金制度があり、隊員有志で委員会を組織してフィリピンの貧しい家庭の子どもたちが学校へ通うためのサポートをしています。(JICA職員や専門家、隊員やOB・OGからの寄付などで運営されています)対象は高校−大学生で、隊員が日々生活していく中で出会った、成績は優秀ながら 資金面の問題で学校に通えない人で、申請が通ると、基本的に卒業まで支援は続きます。
しかし隊員の任期は2年。自分の奨学生の卒業を待たずに帰国しなければいけない隊員がいるのも当然で、そういった場合は後任隊員や近隣の隊員が後を引き継ぎます。
先日帰国した先輩隊員が受け持っていた奨学生を、私の同期隊員が引き継いで支援することになり、委員会メンバーである私も定期的にその同期隊員と一緒に、奨学生の住む地区へ出かけています。そこは現金収入を得ることが難しい小さな島。
この島へ行くには、港からボートに乗って30−40分。(その形から、私は「ひょっこりひょうたん島」と呼んでいます。)住民は100人弱くらいでしょうか。浜にボートをつけると、すぐ目の前に住民の家がならんでいます。竹でできた小さな家で、漁をしたり、貝の養殖をしたりして生計を立てています。しかしその養殖も、昨年起こったギマラス島沖タンカー座礁によるオイル流出により、継続が困難になり、現金収入を得るために遠く離れたところまで出稼ぎに行く人もいます。(こんな遠い場所にまでオイル流出の影響が及んでいることを知って、悲しくなりました)奨学生のお父さんは、漁で生計を立てているのですが、収入がわずかで更に一定せず、学資を出すことは難しいのです。
この島の人たちは、私たちが訪問するたびに温かく迎え入れてくれて、おいしいご飯をご馳走してくれて、家に泊めてくれます。一つのコップで皆で酒を回しのみすることで何だか家族になったような感じがします。
この島の学校には先生が一人しかいないので、小学校3年生以上になると、島の外にある学校に移ります。奨学生の彼女は島の外にある大学に進学してからは、大学のそばの知り合いの家に下宿しながら勉強を続けています。若いながらもしっかりしていて、島に戻ってくると小さな子どもの面倒を見たり、家事の手伝いをしたり、訪問者である私たちの世話もしてくれます。彼女は卒業したら、今勉強していることを生かした職業について、家族を助けたいといいます。
限られた資金の中でも、このような奨学生を支援できることを誇りに思って、私もこの委員会のメンバーとして活動を続けたいと思います。
第7回:ディナギャン!!編(2007年3月28日)
白黒の、ディナギャン特有の格好で踊るダンサーたち。
こちらは若干カラフル。各グループの趣向を凝らしたダンスが続く。
お揃いの衣装で通りをねり歩く少女たち。
エメラルドグリーンに光る海を背景に、闘牛を一心に見守る観客たち。
壁に彫られたレリーフの美しさは、本当に見事。
「ディナギャン」とは?? それは私の任地イロイロ市最大のお祭りです。毎年一月第四週の週末がそのお祭りの開催日となっていて、イロイロ市内のホテルは どこも満室になるくらい、フィリピン各地から観光客が押し寄せます。私も赴任当初から、このお祭りをとても楽しみにしていました。土曜日には、市内の学校や自治体の代表者たちがお揃いの衣装やTシャツで通りをねり歩きます。炎天下の中では、練り歩く人たちも観客も、はっきり言って大変です・・・。ドラムの軽快なリズムと共に、お祭りの雰囲気がどんどん盛り上がっていき、ついに日曜日に。
このダンスがとにかく素晴らしかったんです。男性ダンサーたちのダイナミックな動き! ダンサーが動くたびに揺れる、衣装の羽の飾りが、動きを一層大きなものに感じさせます。そしてその合間を飾る女性たちの繊細な踊りとのコントラストが印象に残りました。大道具や演出にも工夫がなされていて、とにかく観客を飽きさせず、さすがフィリピンだなと尊敬してしまいました。
中でも興味をそそられたのは、黒塗りの体にシンプルなショートパンツで登場したグループ。華美な衣装で登場するグループがほとんどだったので、ちょっと拍子抜けしていたところ、ドラムに合わせてどんどん衣装をつけ、立派な格好に変わっていく過程を観客に見せてくれるのです。私たちはその一連の流れに目が釘付け。最初はバンダナを頭にまき、次はよろいのようなものを身につけ、帽子をかぶって 槍を持ち・・・。どんどん変わっていくダンサーの姿に、拍手と歓声が絶えませんでした。
ダンスだけでなく、ドラムの演奏もとにかくすごい。どうやったらあんなに早くビートを刻めるのか私にとってはとっても不思議なリズムでした。もう何ヶ月も前から、夜遅くまで練習している音が私の家まで聞こえてきていたので、今日の本番を見て、納得!!そして感動!!
そんなこんなで、ディナギャンが終わってしまったイロイロ市が少し寂しく見えるのは私だけでしょうか。
一月は、イロイロ市だけでなく、周辺の町でもお祭りが多いんです。今年はサン・ホアキンという町の闘牛祭りも見学してきました。
この闘牛祭りはこの町の名物になっていて、広場の周りを地元の人たちがぐるっと取り囲み、闘牛を見つめています。町役場職員の実況中継がまた面白く、観客席からは大きな笑い声。中には戦意を喪失した牛が走り去ったり、柵を越えて観客席へ逃げ込んだりと、牛レースやハードル競走のような状況と化す場面もあり、そこがまた面白いポイントです。牛だけでなく、カラバオ(水牛)や馬の闘いも見ることが出来ました。
闘牛の開催された広場のすぐ裏手には、珊瑚礁で作られたサン・ホアキン教会もあります。世界遺産のミアガオ教会(「第3回:ちょっとお出かけ編」参照)に負けず劣らず美しいレリーフに、見入ってしまいました。
第6回:グルメ編〜その2〜(2007年2月27日)
前回に続き、フィリピングルメをご紹介。
ハロハロ
★ハロハロ★ご存知ハロハロ。フィリピンの田舎では、豪快に丼で振舞われます。お店の人が目の前で氷を削って作ってくれます。色とりどりのゼリーにウベ(紫イモ)のペースト、シリアルなどを盛り、上からコンデンスミルクをかけて、さらにグラニュー糖をかける店も。こんなに山盛り食べて、この間は10ペソ(約20円)のところもありました。名前の通り、かき混ぜて(ハロ=混ぜる)食べましょう。
タホ
★タホ★フィリピンのよせ豆腐。ただ日本とは違って、こちらでは甘い食べ物です。この写真は、中華系のお店で食べたので特別に小豆がのっていますが、普段は街角に大きな缶を肩にぶら下げて売りにくるおじちゃんから買います。よせ豆腐をヘラですくって紙コップに入れ、その上にタピオカをトッピング、さらに黒蜜をかけていただきます。本当に大豆の味がして、Namit!!(私の任地の言葉イロンゴ語で“おいしい”)ある隊員はシロップ無しで購入し、自宅で醤油をかけて食べたとか。冷奴のようで、日本を懐かしく思ったそうです。
パパイヤ
★パパイヤ★私の朝ごはんの定番。甘すぎず、私は何個でもいけます。うちで食べるときは、ナイフで半分に切り、種を取り除いてスプーンですくって食べています。ちなみに私の家の裏にも、マンゴーの木があって、たくさんパパイヤが生っています。
バナナとランブータン
★バナナとランブータン★近所のマーケットでは、写真のような小ぶりなタイプのバナナが多いです。食べてみると日本で売られているものより酸味があります。一房で大体20ペソ(約40円)くらい。生で食べる種類以外に、加工用バナナもあります。もっとがっしりした種類で茹でて食べると甘酸っぱさが何とも言えません。春巻きの皮でまいて揚げてあるおやつも美味しいです。ランブータンは赤く、毛の生えたような外観が面白いですが、はじめは食べ方が分からず、マーケットで聞きました。ただ皮をむくだけで、中からマンゴスチンやライチのような白いプルンとした果肉が現れます。もう病み付きです。
タンデュアイとエンペラドール
★タンデュアイとエンペラドール★番外編でフィリピンのお酒もご紹介。農家のミーティングに出たり、田んぼを見に行ったりした帰りに、時折彼らの飲み会に誘われるのですが、一番ポピュラーなのが左の「タンデュアイ」。ラム酒で、炭酸飲料で割ったりロックで飲んだりしています。1ボトル20ペソ(約40円)と安価なのが、人気の理由。ただ、アルコールが強いので、私は本当にたまにしか飲みませんが・・・。右のエンペラドールも、農家の人たちの間では人気です。
フィリピンに来て、本当に食べ物の摂取量が増えているのは、食べ物が美味しいというだけでなく、食べている時間が大切なコミュニケーションの時間だから。ミリエンダ(タガログ語。イロンゴ語では「パマハウ」。おやつの時間)の時間に、みんなでおしゃべりを楽しみます。このミリエンダが一日に2〜3回あることも。・・・太るわけですよね。 ただ、1回に食べる量はそれほど多くはありません。
農家の人との飲み会も大切な時間です。お酒はそんなに飲めなくても、みんなで話している時に新しい知識や情報を得たりすることもあります。お酒が入ると、歌や踊りが始まり、知らぬ間に外は真っ暗。「先に帰るよ〜、みんなはいつ帰るの?」「もう少し飲んで行くよ〜」という感じで、農家の人たちは仲間同士で遅くまで飲むらしいのですが、もちろん次の日はしっかり朝早くから働いてます。本当に尊敬ですね。
今、私はここで彼らと一緒に何ができるだろう。まだまだ悩むこともありますが、とりあえず毎日を楽しめ、というのが彼らからのアドバイスです。
第5回:グルメ編〜その1〜(2007年2月13日)
フィリピンの食生活を十分に満喫し、確実に体重を増やしつつある最近の私・・・。今回は、その食生活の一部を紹介したいと思います。
レチョン
★レチョン★子豚の丸焼き!! お腹に香草を詰めてこんがり焼いてあります。お祭りやパーティーでは必ずと言っていいほど準備されます。パリパリの皮が特に美味。ゴマだれのようなものをつけていただきます。
バレンシアナ
★バレンシアナ★カレーピラフのような色をしたご飯。こちらもよくパーティーで振舞われます。甘い味付けで、レバーやレーズンなどが入っています。日本のお赤飯のような存在。
シニガン
★シニガン(私の任地ではシナバワン)★フィリピンの家庭料理、シニガン。木の実を使ったすっぱい味付けのスープで、日本人のお味噌汁のような感覚で、フィリピンでは、普段の食卓に並ぶ料理です。スーパーなどでは、簡単シニガンの素なども売られています。魚・エビ、鶏、豚、牛肉などいろんなバージョンがあり、大根、さやいんげん、トマトなどの野菜が入っています。私もよく自炊のときに作ります。
バッチョイ
★バッチョイ★私の任地イロイロのラパス地区の名物麺。豚肉とレバーが入っていて、ガーリック風味のスープとの組み合わせが絶妙。カップ麺でもバッチョイ味というのがあって、まさに私の任地のご当地麺です。
キニラウ
★キニラウ★フィリピン風刺身。白身魚を一口大に切り、酢でしめてあります。ショウガ、唐辛子が多く使われているのに食べやすいのは、ココナッツミルクであえてあるから。普段の食卓というよりは、居酒屋で出てくるメニューという感じです。
ロンガニーサ
★ロンガニーサ★フィリピンのソーセージ。フィリピンの味付けは基本的に「甘め」。マヨネーズも甘い、スパゲティーソースも甘い、そしてソーセージも例に漏れず甘いのです。ただ、外国人観光客用に甘くないものもあるらしく(フィリピン北部を中心に)、私はそれを試してみたいと常日頃から思っております。マーケットに行くと、こんな風にダイナミックにぶら下げてあります。ゆでるか、炒めて食卓へ。ホテルなどのフィリピン風朝食を頼むと、ライス(プレーンライスかガーリックライス)+目玉焼き+ロンガニーサというパターンが多いです。
フィリピンの食べ物は、基本的に辛くないので、日本人の口に合うと思います。ただ、少し脂っこいとかコッテリしていると感じることが多く、一番気になるのは、野菜を使った料理が少ないこと。朝からお肉がバーンと出てくることもあって、日本人の感覚からすると驚きです。フィリピンの人が野菜を食べる機会を増やしたいのですが、これからそれを活動にも結びつけて行きたいと考えています。
第4回:添乗員?編(2007年1月19日)
講師の説明に真剣に聞き入る農家のみなさん。
配属からすでに7ヶ月半。私にとっては、本当にあっという間に過ぎ去りました。ここで、私の配属先でのお仕事を紹介します。
私の配属先は、フィリピン農業省の一部である国家灌漑庁というところで、ここでは主に、農業用水の供給と水路の補修・維持管理、農家からの水利費の徴収、農家が作っている組合(水利組合)の活動のサポートなどをしています。私はこの水利組合のサポートをする部署に配属され、同僚たちと共に彼らの行う活動に参加したり手伝ったりと、日々いろんな事を体験させてもらっています。現地語がなかなか上達せず(英語が通じない事も多い)本当に農家の方には迷惑をかけているのですが、それでも温かく受け入れてくれるフィリピンのみんなには本当に感謝です。
先日は、私の同僚が企画した、農家のフィールドトリップに同行しました。配属先所有のバスを借り、船も一番安い席。そして当日はお弁当を持参するなど、つつましやかな旅でした。それでも、農家の人たちは本当に楽しそう。
今回は、フィリピンの稲作研究所や農業を普及している日本のNGOなどを訪問し、稲作だけでなく養蚕などのお話も聞けました。やはり、こちらの農家の人たちが一番興味があるのは、稲作に関する情報。(パナイ島イロイロはフィリピンの中でも、最も稲作が盛んな地域の一つ)訪問先のミニ講習会では我先にと前の席を確保し、手を挙げて質問する農家や後ろの人は立ち上がって身を乗り出したりと、本当に真剣。私もちょっと驚きでした。
船に乗って、隣の島までGO。
夜は、近くの温泉リゾートの大部屋を安く借りて、プールで泳いだり、朝はジョギングをしてみたりと疲れ知らずの農家たち。
それもそのはず、自分の住んでいる地域以外の農業を見ることも、ましてやこんな船に乗って移動する旅行なんて、1年に1回あるかないかぐらいとのこと。船に乗って移動する旅行なんて、1年に1回あるかないかぐらいとのこと。新しい知識を仕入れるだけでなく、農家の人たちのリフレッシュの時間にもなっているんですね。私もこの旅に来て、いろいろ教えられました。
同僚によると、農家の人たちからは早くも次の旅行のリクエストがあるそうです。ある農家さんによると、一緒に旅行した仲間たちとは思い出話に花が咲くらしく、また他の農家さんは、次の旅行に行くまで仕事頑張ろう、と思えるんだと語りました。
こういう機会を準備するのも、私の同僚たちの大切な仕事。デモ・ファームを見てまわったりミーティングに参加したりするのも本当に大切ですが、視察旅行に同行するのも楽しいし、勉強になりますね。農家さんだけでなく、私にとっても実り多き旅でした。
第3回:ちょっとお出かけ編(2006年9月26日)
平日は、配属先で資料を読んだり、田んぼを見に行ったり、ミーティングに出てみたりと いろいろなところを回って活動していますが、週末も大抵は外に出かけちゃいます。 今回は近所に住む同期隊員と一緒に、ジプニーに乗って(その一、ジプニー編参照) イロイロ市から1時間半ほど離れたミアガオという町まで出かけてみました。
サント・トマス・デ・ビリャヌエバ教会
この町には、世界遺産にも登録されている有名な教会があるのです。ジプニーを下りると、目の前にはもう教会!! ミアガオにあるこの教会は、サント・トマス・デ・ビリャヌエバ教会という名が正式名称です。イスラム教徒の海賊に対する砦として1797年に建設され、火事や地震の被害を受けながらもそのつど修復され、現在に至っています。 世界遺産にも登録されている教会ですが、ここミアガオで暮らす人たちにとっては日常の一風景。恋人たちがデートしていたり、若い人たちのグループがギターを弾きながら歌を歌っていたり、ゆっくりした時間が流れていて、とても素敵なところです。道路を挟んで向かいのホールでは、テコンドーの試合も行われており、たくさんの人たちが観戦していました。大学対抗の試合のようでしたが、テコンドーをやっている人たちは フィリピンでしばしば見かけます。
「写真撮って〜」と写真好きな子供たち
今回の小旅行は、私の任地のイロイロ市から海岸沿いにやってきたわけですが、せっかくなので帰りは途中下車して海も見てきました。青から緑へのきれいなグラデーション。海に近いところに住んでいるのに、海を久しぶりに見た気がします。 日本人観光客はめったに来ない地方の小さな町。最初こそ警戒心を露にしていた住民たちも 現地語で挨拶すると、にっこり笑ってくれます。カメラを向けると、子供たちは大騒ぎ。「写真撮って〜」と走り寄ってきます。その笑顔といったら!!こちらまで嬉しくなっちゃいました。写真好きなのは子供だけかと思っていたら、大人たちまで「ピクチャー、ピクチャー!!」の リクエスト。みんな写真大好きです。
子供たちと一緒に海岸で写真を撮っていたら、おじさんが笑顔で寄ってきました。現地語でいろいろ尋ねて来るのですが、まだまだ理解できないのが悲しいところ。知っている単語を駆使して聞いたところによると、彼のおじいさんは日本人だとのこと。「こんにちは」「さよなら」「しあわせー」の3語しか日本語は知らないとおじさんは言うけれど、それだけで十分コミュニケーションとれました。じゃあ、今日はもうさようなら。また、遊びにきます。次にくるときまでに現地語、もう一度勉強してくるね。
というわけで、明日からまた、配属先でのお仕事頑張ります。
第2回:任地の「イロイロ」紹介します(2006年9月26日)
イロイロ市内の海岸から
みなさん、こんにちは。今回は私の任地である、フィリピンはパナイ島のイロイロ市 を紹介したいと思います。
フィリピンは7千を超える島からなる国。おおまかに分類すると、首都マニラがある ルソン島、2番目に大きな島ミンダナオ、そしてフィリピンのちょうど中部に位置する ビサヤ地区の3つの地区があります。
私が赴任しているイロイロは、そのビサヤ地区の 西、フィリピンでは6番目に大きな島であるパナイ島にあります。東隣には砂糖の島で 有名なネグロス島や、日本でも比較的名前の知られたリゾート、セブ島などがあります。パナイ島は4つの州から構成されており、その中心都市がイロイロ市。 イロイロ(Iloilo)の語源は、「鼻のような」という意味の単語から来ています。イロイロ市内を2つの川が流れており、上空から見るとその形がちょうど鼻(の穴?)のように見えたことから、こう呼ばれるようになったとのこと。イロイロの主要産業は農業で、フィリピンの中でも代表的な稲作地の一つ。 そして海沿いにあることから、シーフードもとてもおいしいのです。
さらにイロイロから近いギマラス島から、おいしいマンゴーも運ばれてきます。このマンゴー、本当に甘くて病み付きになります。 (本当に、ここはおいしい食べ物がたくさんあり、とても伝えきれないので、おいおい紹介していきたいと思います。)
私が住むハロ地区の教会
イロイロ市はいくつかの地区に分かれていますが、それぞれの地区に公園があり、教会もあります。私が住んでいるハロという地区にも教会があります。他の教会と異なり、鐘楼が道路を隔てて建てられているのが特徴です。以前散歩に来たときは、ちょうど結婚式が行われていて、見学させてもらっちゃいました。そしてここは多くのジプニーの通り道になっているので、常に人であふれています。
イロイロは今、雨季です。6月〜11月が雨季、12月〜5月が乾季。 雨季には朝と夜に、スコールのような雨が降ります。それでも最近では 雨季の後期になり、またすこしずつ暑くなりつつあります。イロイロでは米は2期作。今の時期はちょうど1回目の収穫が終わり、2回目の田植えをする時期で、農家の人たちは大忙しです。
それと、おそらくイロイロ特有だと思うのは、韓国人の数がものすごく 多いこと。英語を学びに来ている学生が多いそうです。韓国ボランティアも この島にはたくさん派遣されているので、今後少しずつそちらの交流も深めていけたらと考えています。
第1回:「ジプニー編」 (2006年6月9日)
皆さん、こんにちは。17年度3次隊、村落開発普及員として3月末にフィリピンに派遣になりました伊東です。このページを見て、皆さんが少しでも私の任地の文化や習慣に興味をもってくださるとうれしいです。実は自分の任地に赴任して、約2週間しか経っていません。
というのも、隊員は任国に到着してから、それぞれの任地に赴任になる前に現地語学訓練を受けるからです。フィリピンの公用語は英語で、首都などではとてもよく通じますが、それと同時に、地域特有の言語も使われています。私の任地では「イロンゴ語」という言葉が話されていて、現地語学訓練終了後も自己学習を続けています。(ちなみに首都マニラでは、タガログ語という言語が話されていて、フィリピンのテレビ番組もほとんどがタガログ語で放送されています。)
フィリピンの人々にとってメインの交通手段である「ジプニー」
まだまだ任地で過ごすことに慣れていない私ですが、ここフィリピンに来て気に入っているのが、人々のメインの交通手段となっている「ジプニー」です。乗り合いタクシーのようなもので、私も外出するときはほぼ毎回利用しています。
外観はとても派手で、それぞれのドライバーの好みで飾りつけしてある様です。日本の"デコトラ"みたいですね。
ジプニーには様々なルートがあり、街のほとんどの地域を網羅しています。運行ルートが車体の脇に書いてあるので、自分の目的地によって乗り分けます。運転席の後ろには、2列向かい合わせで長いシートがついていて、だいたい15人くらいは乗ることが出来るでしょうか。
私が便利だなと思う理由のひとつは、料金がとても安いことです。だいたい4キロまでの移動であれば、私の任地では7ペソ(約14円)で乗ることができます。
料金は、「Bayad.(料金です)」と言って渡せば、他の乗客が次々と手渡しでドライバー(料金徴収係を兼ねる)まで運んでくれます。
もうひとつの理由は、どこでも自由に乗り降りできることです。バスの様な停留所があるわけではないので、ドライバーに止めてくれるように頼むと、どこででも止めてくれます。乗るときも手を挙げて合図をすれば、すぐに止まってくれます。私の地区では、ひっきりなしにジプニーがやってくるので、ほとんど待ち時間もありません(ただ、小さな町のジプニーは、席が乗客で埋まるまで時間がかかるため、待ち時間が発生することも多いようです)。
フィリピンでは、夏の間は気温が40度以上まで上がることがあり、長距離を歩いて移動することはかなり大変です。乗車料金が安いことも手伝ってか、ジプニーはいつもすぐに満員になります。日本にもこんなジプニーの文化があったら便利だろうなと思いながら毎日乗っています。
ジプニーの運行ルートを覚えることから任地に慣れ親しんでいる、今日この頃です。次回から、私の任地フィリピンはパナイ島のイロイロ市について少しずつお伝えしたいと思います。