小倉琴恵 「現職派遣への道 フィリピンイロイロ報告」
Kotoe Ogura
宮城県仙台市出身
青年海外協力隊
- 職種
- 小学校教諭(現職教員特別参加/仙台市教育委員会所属)
※現職教員特別参加:国立および公立学校の教員が身分を保持したまま協力隊に参加するための制度で、毎年春募集のみに募集します。 - 配属先
- フィリピン/教育省イロイロ地域教育事務所(イロイロ市)
- 活動概要
- 小学校教員の指導技術向上のため、研究授業を通じ主に算数について取り組む。また、教員対象の教科内容・教材に関する講習や、通常授業の参観なども行う。
- 派遣期間
- 2007年6月〜2009年3月
- プロフィール
- 教職経験5年目になる年、思い立って青年海外協力隊現職教員派遣制度に応募。無事合格。2007年4月から2ヶ月間の二本松訓練所での研修を経てフィリピンへ。マニラで1ヶ月の現地語学研修を経て、7月末に任地イロイロ市に赴任。
主な仕事は模擬授業を見合う教員研修会への出席、アドバイスだが、日常授業を参観、アドバイスのために毎日村の小学校を巡回している。先生達への研修会では同僚の指導主事とともに、日本の教育を紹介。教材作りのワークショップをしながら視覚教材の操作を取り入れた授業の定着に協力している。
第5回:活動開始 ―フィリピン教育の現実―(2008年7月27日)
ノートを出さず聞いているだけの子どもたち。
私の要請内容は、教育省の指導主事さんたちと一緒にこの州の教育の質向上をサポートすることですが、SBTP(授業研究会のようなもの)に参加して授業参観、研究討議での意見交換などもその仕事のひとつです。開催地区の、サンタバーバラとニュールセナで活動を開始しました。SBTPは月1回、どちらかの町で開催されます。それ以外の日は、さて、何をするか。
現状把握です。それしかありませんでした。現状をしっかりと見極めること。こちらの先生と生徒の関係、典型的な授業スタイル、先生たちの愚痴、教材教具のそろい具合などをじっくり観察しよう。そこから具体的な私なりのサポートの仕方が見えてくるかもしれない。SBTP以外の日はとにかく通常授業観察のため学校巡りをすることにしました。
馴れないジープニーとトライシクルを乗り継ぎ、毎日どうにか学校にたどり着いていました。とりあえずサンタバーバラの29校とニュールセナの13校を訪れよう。これが最初の目的になりました。
学校訪問を繰り返し、通常授業を見ているうちに、いろいろなことに気がつきました。
教科書が足りない、教材がない、授業が先生主導、子どもたちは座って聞いているだけ。
「つまらない授業だ…。」
どの授業を見ても、先生は既成の指導案を読んでそのとおりに進めているだけでした。子どもたちの理解度に合わせるとか、間違いを他の子供にフィードバックするとか、子供たち自身に発見させるという過程がほとんどなく、先生がひたすら1時間しゃべり続ける。答えを言ってしまう。間違えた解答が出てきてもそれを無視して他の子に当て、正解が出るまでそれを繰り返していました。間違いの原因を探るとか、間違えた子どもへのフォローはまったくありませんでした。わからない子はわからないまま取り残されてしまっていました。
(さて、どうしよう。どこから手をつけよう。)
第4回:任地に着いた。(2008年7月27日)
3階建ての立派な事務所
自分のオフィスで、同僚とお昼
研修、研修で、なれない部分の脳みそを使いきって、とうとう任地イロイロに着きました。さて、ホームステイ時に決めてきた家に入り、新生活の準備をしようと思っていたところ…。毎日、あいさつ回りにつれまわされました。誰が誰かもわからないまま、たくさんの人に紹介され、たくさんの人の前で挨拶させられ、週末もセミナー見学に誘われて。最初の1ヶ月間、家にいたのは2日だったでしょうか。
今考えるとこの忙しいスタートが気持ちを引き締めてくれて、できることを必死で探す一歩になったのだと思います。ここで何をするか。何が求められているのか。を見極める時期でした。
私が所属したのは幸か不幸か日本で言うなら県の教育委員会に当たる「イロイロ州教育省」です。仙台市教育事務所に当たる「イロイロ市教育省」は別に分かれているので、この事務所は、市内以外の地区すべてを管轄しています。エリア内には小学校が900校以上、高校が160校あります。5地区に分かれていて遠いところは片道3時間〜4時間掛かります。私の立場はその教育省の指導主事さんたちと一緒にこの州の教育の質向上をサポートすることでした。
最初にその要請を見たときに
(5年しか教員経験がない私には少し重い仕事ないようだなぁ。)
と思いました。日本で言うなら、各教科の精鋭が選ばれる立場。私で大丈夫だろうか。
最初はとにかく現状把握をするために、学校訪問をするようにと先輩隊員からアドバイスをもらいました。協力隊は、待っていても仕事は着ません。自分で見つけて行かなければなりません。自分で地域の教育長や校長先生と連絡を取り、一人で学校巡りをはじめました。
第3回:やっと活動開始と思ったら…。(2007年11月29日)
1階のキッチン
2階のベッドルーム
詰め込まれた授業風景
部屋からの夕日
マニラについてもまだ研修が残っていました。マニラ1ヶ月の滞在の中には現地視察をかねての5日間のホームステイ。3週間の現地語研修。保健予防についての講義などが含まれていました。
5日間のホームステイの間に、職場の人に手伝ってもらいながら、こちらで住むアパートを探しました。幸い安全で、居心地が良さそうなアパートが予算通りに見つかり、即決。 (2階建てで1階にはバストイレ、キッチン、リビング、2階にはベッドルームが2つ。一人には広すぎるくらいですが…。)
各種講義では、まだ耳慣れないこっちの英語でフィリピンのボランティア概要を聞いたり、病気にかかった前例を聞いたりして身が引き締まりました。
辛かったのは3週間の現地語学訓練です。私が行く地域はイロンゴ語が話されています。ホテルに缶詰にされ、先生一人に生徒二人という、贅沢な環境(過酷な環境)での詰め込み授業でした。外に出てもそこはタガログ語圏なので、実際使ってみることもできず、ストレスがたまる毎日でした。
4月から始めた各種訓練と各種予防接種でそろそろストレスも限界でした。Inputはもうたくさん!outputがしたい!と思い始めた7月30日。ようやく現地イロイロへ本赴任することができました。
第2回:派遣への道のり(2007年10月29日)
協力隊訓練所で同じ語学クラスのみんなと
訓練所の教室で自習(レッスンプラン作り)
80分の模擬授業を終えて(訓練所で)
訓練中の自主企画。音楽と踊りの祭典にて、ソーラン節仲間と
現在、任地に来て3ヶ月ですが、それまでの道のりは非常に長いものでした。
平成18年5月に願書を出してから、9年前のオーストラリアワーキングホリデー以来、すっかりさび付いていた語学力を語学学校に通いながら鍛え直しました。その年の8月に合格と派遣国(フィリピン)を知ります。それからは仕事の後に急いで英会話に向かい、その後は家で単語を覚え直し、フィリピンについての情報を検索する毎日でした。
平成19年1月。毎年していた一人旅は諦めてしばらくご無沙汰するであろう日本のお正月をゆっくり満喫しました。(この冬は3月の忙しさに備え、いつもより早く通信表の所見を書き始めていました。)
そして3月。終業式には,まだ異動の新聞発表はされておらず子どもたちに何も言わぬまま、学校からの荷物の運び出しを秘密に進めていました。学校から運び出した荷物の整理、近所への挨拶回り、4月からの協力隊訓練所入所準備、6月からのフィリピン入国準備、送別会と目が回るほどの忙しさを乗り越え、4月4日に無事訓練所へ入所。
訓練所では2ヶ月間、英語で算数の授業をする訓練を毎日毎日繰り返しました。現職派遣という立場上、大卒すぐの訓練生に向けて、自主講座で授業の作り方をレクチャーしたこともありました。寝る暇を惜しんで英語で算数のレッスンプランを作る日々が続きました。それに加えて毎週、各種の予防接種を受け合計10本以上受けました。6月7日。無事、語学試験と健康診断を切り抜け修了証書を手にします。訓練生から隊員へ昇格した瞬間でした。
6月19日の出国に向けてわずか12日間で準備をしました。昼も夜もばたばたの日々を何とか切り抜け、成田へ。そしてマニラへ。とうとうここまでやってきました。忙しすぎる毎日で、最初の動機も志望理由も忘れそうになるほどでした。
第1回:小さな疑問(2007年10月29日)
今振り返るとこの小さな疑問が、私が協力隊に応募するきっかけだったかも知れません。
教員5年目を迎え、毎日の生活に何の不便もなく、仕事にも慣れ順調でお金にも不自由する事がなくなっていました。
「私はこの生活を,定年まで繰り返していて良いのだろうか。」
いつからかそう思い始めていました。
また、毎年向き合う子どもたちを見ていると、精神的な弱さが気になり、親の愛情の注ぎ方にも疑問を持ち始めました。(徒競走で1等だったらゲームソフト???ただ、頑張ったねってぎゅっと抱きしめてあげるだけで最高にうれしいんじゃないかな。)お金と物があふれ、核家族化で人のつながりや愛情が不足な日本。毎年、一人旅に出る度に出会う、貧しくても目がきらきらした子どもたちの姿、大家族で助け合って暮らしている人たちの姿が何度もフラッシュバックしていました。
「これでいいのか?日本の家族、子どもたち?」
この二つの疑問から、協力隊に申し込むことがいつしか必然のような気がしてきていました。(教員5年間の知識と技術を開発途上国の子どもたちのために役立てたい。)小さな疑問から始まった協力隊参加への道は、前向きな動機へと変わっていきました。