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竹村雅義 「オーパ!ブラジルのニッポンから」

Masayoshi Takemura【写真】竹村雅義

山形県山形市出身
日系社会シニア・ボランティア

職種
日本語教育
配属先
ブラジル/南マットグロッソ州日伯文化連合会ドラードス日本語モデル校(ドラードス市)
活動概要
現地教員への日本語教育、情操教育指導にあたる。特に幼児・低学年児童への発達段階におけるレクリエーション、音楽等の情操教育指導や日本語学校8校の巡回指導なども行う。
派遣期間
2005.6月〜2007.6月
プロフィール
50歳を機に、日系社会シニアボランティアに応募。以前、民間のNGOで日本語教師としてタイの難民キャンプで、日本に定住するインドシナ難民に日本語の指導をしていた。その経験を生かしたいと思い、テレビの制作会社の仕事をやめ、再びボランティアとして活動中。以前から関心のあった日系社会を希望し、日本語教師の育成に取り組んでいる。この4月から、家族をブラジルに呼び寄せ、毎日、奮闘の日々を送っている。

第7回:「夕日が結ぶ家族の絆」(2007年02月05日)

移住地の夕暮れ

移住地の夕暮れ

いまブラジルは夏時間を迎えている。この時期、特に美しいのがでっかい地平線に落ちる夕日だと思う。いつか山形の子供が、日本海に落ちる夕日を見て、「ドラえもんの鈴のようだね。」と私に教えてくれたことがある。子供の想像力は、大人とは違い自由なところがいいと思う。私にはそんな真似ができないが、このドウラードスの夕日も「ドラえもんの鈴」に負けないくらい素晴らしい。澄み切った青い空が刻一刻と茜色に変わり、静かに地平に沈む姿は、いつまで眺めていても見飽きない。ほんとに悠久という言葉がぴったりする。赴任した当時も、なんどこの夕日に心慰められただろう。時代がどんなに変わろうと、きっとこの夕日は昔も今も変わらず、悠久の時を刻んでいるのだろう。

茜色の夕日

茜色の夕日

そして、この夕日の向こうに日本がある。最初、この地にたどり着いた移民の方達の心を慰めてくれたのも、この夕日だったという話を聞いた。不慣れな異国の地で見る夕日に、どんな思いを託したのだろう。夕日の向こうの先に、故郷の日本がある、そのことがきっと心の支えになったのではないだろうか。

地平線に落ちる夕日

地平線に落ちる夕日

いま、約30万人の日系ブラジル人が出稼ぎとして日本に住んでいると聞く。その数字を知ると、少し複雑な気持ちになる。90年代の初め頃からブラジルの不況を反映して、日本に出稼ぎに行く日系ブラジル人が急増した。家族のために、単身で出稼ぎとしていくもの、家族を置いて出稼ぎにいくもの、様々だがいまも出稼ぎは続いている。その問題は、家族に不安な光を投げかけている。家族の離散、帰国子女の問題、この地に住む日系移民の家族も、出稼ぎとして日本に渡っている方が大勢いる。昔も今も、家族を思う気持ちは変わらない。年々、ブラジル社会の景況が、ここに暮らす人たちの生活に大きな影響を与えている。できたら、日本で見る夕日が、家族の絆を結ぶ夕日であってほしいと願わずにはいられない。

第6回:「Feriz Ano Novo! (新年おめでとう!)」(2007年01月24日)

大豆畑のエンマ

大豆畑のエンマ

ブラジルの学校は、12月初旬〜2月初旬まで長い夏休みに入る。といっても社会の不景気を反映してか、商店街は暮れの30日まで営業しているところが多かった。商店街は、日本と同じように歳末商戦をかけているので、毎日、遅くまで賑わっていた。その姿は、日本と少しも変わらない。買い物客で賑わう商店街に繰り出すと、師走なんだなという実感がわく。ほとんどの人は、家族と新年を過ごすために、故郷に帰省する人が多い。テレビのニュースを見ると、帰省客のために渋滞している道路が映しだされていた。そのあたりも日本の暮れの風景と少しも変わらない。

餅つき

餅つき

去年は、単身でブラジルに来ていたが、今年は家族全員で新年を迎えることができる。さて、どうやって過ごそうと考えていたら、日系の友人から「僕のファゼンダ(農場)でいっしょに過ごしませんか」という誘いがあった。ちょうど私の子供達と同年代の子供たちもいるので、きっと楽しく過ごせるんじゃないか、そう思いすぐ即答しファゼンダで新年を迎えることになった。

友人のファゼンダは、私がいるドウラードスから東に10kmほど離れた日系移住地にある。ファゼンダに向かう道の両側には、青々とした大豆畑がどこまでも広がっている。まるで、緑のじゅうたんを敷きつめたみたいで、風にそよぐ姿が目に気持ちがいい。その大豆畑にエンマ(ダチョウの小さいもの)が群れて、こちらを見ている。最初、その姿に驚いたが今は見慣れた一風景になっている。子供達は群れを見るのは、初めてなので大はしゃぎだ。

イルミネーションで飾った幻想的な広場

イルミネーションで飾った幻想的な広場

日系の移住地では、多少過ごし方は違っても、今も日本の習慣を大切にし、大晦日は年越しそばを食べ、正月はお雑煮で祝う、というところが多い。季節感の少ないブラジルで移民の方達は、日本の行事や習慣を大切に守り、育ててきた。

笑い話になってしまうが、今でもここブラジルで日系の方達は「餅つき」をしていた。私は子供の頃に「餅つき」を見たことはあったが、したことはもちろんない。まさか、ブラジルに来て餅つきをしようとは夢にも思わなかった。最初は、1世が中心になってついていたが、そのうち3世・4世の若い男性たちが変わってつき始めた。その楽しそうな姿は、昔祖父の家で見た餅つき風景と変わらない。でも、かなりの重労働。特に手返し(餅をひっくり返す役)は、熱い餅に直接触れるため、手は火傷で水ぶくれになってしまう。私の手も1時間ばかりしていたら、火傷だらけで真っ赤になってしまった。見るとやるのとでは、大違い。けっこう「餅つき」はハードなのだ。昔は、女性が手返しをしていたが、いまはきついので男性がしている。そんなきつい「餅つき」だが、毎年大勢の人が集まる。「餅」は、1キロ10レアル(約500円)で売り、日本人会が運営する活動資金となる。中には、10キロも買う人がいて、好評のようだ。

夜空の花火

夜空の花火

当日は、地元のテレビ局も取材に来ていた。ブラジル人も、こういう賑やかな行事や祭りが好きだ。どんな風に、この「餅つき」が紹介されるのだろう。とても、興味が引かれた。 残念ながら、放送を見ることはできなかったが、日系人の熱さは充分に伝わったのではないだろうか。

話がそれてしまった。

「Feriz Ano Novo!」抱き合って新年を祝う!

「Feriz Ano Novo!」抱き合って新年を祝う!

ブラジルでは、新年を花火を上げて祝う。夜の11時を過ぎ、友人のファゼンダから約5km離れたファチマ・ド・スールという町にでかけた。その町の中心地にある公園広場で、花火の打ち上げが行われる。町は、家族連れや友人、老若男女あらゆる人々が集まっていた。広場は、イルミーネーションで飾られ、とても幻想的だ。公園の隣には、仮設の会場が作られ、コンサートが開かれていた。ロックからサンバなど様々な音楽が演奏され、大勢の人たちが踊っていた。広場は人、人、人で埋め尽くされ、すごい熱気だ。人と人がぶつかりあいながら、音楽に身をまかせる姿はとても開放的で情熱的だ。恋人同士だろうか、しっかりと抱き合い、音楽に合わせダンスを踊る姿が、あちらこちらで見られる。さすが、ラテンの国だな、と改めて思った。何しろ熱い、子供達もそんな大人達の姿を見ながら音楽に体をあわせ、踊っている。白いドレスを着飾った女性が多い。白は平和を意味するということで、その願いがこめられているそうだ。

新年を迎える期待感が大きくふくらんだ時、コンサート会場からカウントダウンが始まった。
「3・・2・・1・・Feriz Ano Novo!(新年おめでとう!)」
夜空に色とりどりの花火が打ちあがった。人々は抱き合って、新年を迎えた喜びを表現する。「Feriz Ano Novo!」口々に、言い合い抱き合う姿は感動的でもある。そんな表現に慣れていない私たちは、ちょっと気恥ずかしい。でも、思い切っていっしょにやってみると、なんか幸せな気持ちに包まれる。ほんとに、新年を迎えて嬉しい、という気持ちが直接伝わる。 このように、みんなで共有しあって喜びあう、というのはやはり文化の違いだろうか。知らない人同士でも、すぐそんな言葉で友達になれるのが、ブラジルのいいところかも知れない。

新年に乾杯!

新年に乾杯!

花火を見た後、友人の家にもどり、再びシャンペンで新年を家族とともに祝う!Sauge!(乾杯!*「健康」という意味がある)みんなでまた抱き合い、新年を祝福する。任期も残り半年になったので、ブラジルで迎える新年は、もしかしたらこれが最後となる。でも、家族といっしょに、ブラジルで新年を迎えたことは、きっと忘れないだろう。子供達も、肌で異国の文化を学ぶことができた。その思い出は、いつか子供達の中で、生かされ育っていくのかも知れない。

第5回:「戦後初めての移民」(2006年11月17日)

移民が到着した現在のサントス港

移民が到着した現在のサントス港

突然ですが、皆さんは50年という時間を長いと感じられますか、短いと感じられますか。今から50年ほど前、昭和28年(1953)7月、私の赴任先である南マットグロッソ州、ドウラードス市に戦後初めての日本人移民64家族が、この地に足跡を印しました。戦争という不幸な時代をはさんで13年ぶりに再開された移民の渡伯でした。当時の日本は、まだ戦後の復興からやっと立ち直りかけていた時代でしたが、まだ焼け野原がところどころに残り、アメリカからの救援物資に頼って生活をしているような状態でした。いまや移民という言葉は、死語になりつつありますが、当時の日本人にとって南米への移民は、生活を救済するための手段のひとつでしたが、同時に南米という新天地に家族の夢を託そうとしたそれぞれの思いがその歴史には刻まれています。

ノロエステ線イタウン駅

ノロエステ線イタウン駅

当時、移民船に乗りブラジルのサントス港に着くまで、約45日の船旅でした。そして、ノロエステ鉄道の汽車に乗り、ドウラードスまではまる5日間かかりました。約1,200kmの旅です。彼らは戦後初めての移民から「新移民」と呼ばれましたが、ノロエステ沿線の各駅には、戦前からの移民がおにぎりや漬物、自家製のおまんじゅうなどを用意し、彼ら新移民を熱狂的に歓迎した、といいます。日の丸の国旗を汽車の窓から振ると、涙ぐみながら日の丸に手をあわせ、万歳をとなえる旧移民の方達もいたそうです。いまでは、遠い昔の話になってしまいましたが、その当時の移民の皆さんの気持ちを伝えるエピソードのひとつだと思います。彼らにとっても、新移民の到来は大きな励みだったと思います。5日の汽車の旅を終え、やっと着いた当時のドウラードス市(イタウン駅)は、板張りの家が数十軒くらい点在する小さな町だったそうです。

現在の松原植民地遠景

現在の松原植民地遠景

彼ら64家族(3次にわたって入植)が入植した地が、ドウラードス市から約65km東に離れた「松原植民地」と呼ばれるところです。当時、マリリア市に在住していた故・松原安太郎氏(和歌山県出身)が、日頃から知遇を得ていたゼツリオ・バルガス大統領から4,500家族の移民枠を取得したことから、その名がつけられました。そして、日本政府に移民送り出しを要請し、実現したのが戦後初めての移民「松原移民」だったわけです。

松原移民が築いた道

松原移民が築いた道

今回、私はその「松原植民地」の慰霊祭に同行させて頂く機会を得ました。 当時の面影は、すでにありませんが現在も3家族の移民の方達が、この地に住み続けています。ドウラードス市からカミヨン(トラック)に揺られ、移住地に向かったそうです。当時は、舗装されている道ではありませんでしたから、赤土の砂埃が舞う道を、顔中真っ黒になって「松原植民地」を目指しました。しかし、途中50km進んだ地点までは、道がありましたが、その先の残り15kmはまったくの原始林で、まず道路を切り開くことが彼らの最初の仕事になりました。15歳以上の男子は、すべて道路建設に参加し約1ヶ月をかけて、完成することができました。入植した土地を公平にくじ引きで決め、その年の10月、念願の移住地建設が始まりました。

移民の方が説明してくれた

移民の方が説明してくれた

当時、カフェーは「黒いダイヤ」と呼ばれていましたが、カフェーが収穫できるようになるまでには4年かかるそうです。道づくりが終わって、次にした仕事が、家(サッパ小屋:茅葺)作り、井戸堀り、陸稲・間作の野菜作りでした。あたりまえのことですが、電気も水道もありません。すべて、彼らの手で生活の基盤を作らなければなりませんでした。井戸掘りは、野天堀りですので、地下水にあたるまで、腰にロープを巻き、命がけで井戸を掘ったそうです。

黒いダイヤ カフェーの実

黒いダイヤ カフェーの実

当時、13歳だった移民の方は、体中泥だらけになりながら25mの井戸を掘ったと話してくれました。毎日、原始林を切り開き、カフェーの栽培に夢を託し、彼らの生活が始まりました。夜は石油ランプのもとで、家族が寄り添い、暗闇から聞こえるオンサ(豹)の鳴き声におびえながら、日本にいつか帰ることを夢見ていたそうです。そういうときは、日本から持ってきたハーモニカを吹いて寂しさをまぎらわしました、とその方は話してくれました。

移民の道

移民の道

60年代になって、やっとカフェー作りが順調になった頃、移住地を毎年のように襲ったのが「降霜」でした。松原植民地は、標高50mのところに移住地が作られていましたので、霜が降りるとカフェーに大きな損害をもたらしました。また、カフェーの国際相場の暴落が重なり、この地のカフェー作りをあきらめ、他の地に移るものが少しずつ増えていきました。

慰霊祭

慰霊祭

70年代に入ると、カフェー作りから大豆に切り替え、機械化による大規模農業が始まり、南マットグロッソ州は一大穀倉地帯として注目され発展をとげますが、その後、松原植民地は歴史の中に忘れられていきました。当時の面影を伝えるように、移住地の片隅に、今も日本人会館がその当時の姿で残っています。のどかな風景が広がる中に、静謐にひっそりと包まれて建っていますが、いまはもうそこを訪れる人はいません。50年も昔の話になってしまいましたが、その50年という時間は、移民のその後の人生に、計り知れない年輪を刻み、今もこの地に生きています。

松原植民地の家

松原植民地の家

日本人会館跡

日本人会館跡

第4回:「ブラジルの日本語教育」(2006年11月06日)

私が赴任しているブラジルには、約130万人の日系人がいます。そして、2年後にブラジルは移民百周年を迎えようとしています。日本にいる時、私は移民のことについてほとんど知りませんでした。いま国際化という言葉が普通に使われていますが、ある意味で日本人移民はその先駆けだったのでは、と私は思っています。

日本語教師を対象にした研修会

日本語教師を対象にした研修会

よく聞かれる質問ですが、どうしてブラジルに日本語の指導に行くのですか、ということを聞かれます。また、ブラジルの日系人(日本人移民の子弟)に日本語を教える必要があるのですか、とも聞かれます。彼らはブラジルで生まれ育ち、ブラジル社会にその生活の場を築いているのに、わざわざ日本語を学ぶ必要はないのでは、という素朴な疑問です。

移住地の日本語学校 卒業式

移住地の日本語学校 卒業式

現在、ブラジルの日本語教育は、大きく二つの潮流があります。日本人移民の子弟を対象にした継承語としての日本語教育と非日系人を対象にした日本語教育です。後者の場合は、主に学生をはじめとした成人が多く、日本語を学ぶ目的も日本文化への憧れや留学したい、という希望を持つ学習者が多いです。私が活動する日系社会は、日系子弟(3歳〜15歳ぐらいまで)を対象にした日本語教育で日本語の普及、そして日本語教師の育成に協力しています。*現在、ブラジルにある日本語学校の総数は約400校

継承語としての日本語教育の大きな目的は、日本語の学習を通じて、日本人、日本文化を理解し、それを伝えていこう、というところにあります。このことを理解することはとても難しいと思います。それは、先ほどの疑問にもあるように彼らのアイデンティティーは、ブラジル人であり日本人ではないからです。そこにここでの日本語教育の難しさがあります。

第1回移民船「笠戸丸」

第1回移民船「笠戸丸」

ブラジルの日本語教育は、移民の歴史という大きな背景を理解しないとわかりにくいと私は思います。それは望郷という言葉にもつながります。ブラジルに最初の移民が到着したのは、明治41年(1908)6月18日のことです。781名の契約移民が、第1回移民船「笠戸丸」に乗ってその足跡をブラジルの大地に刻みました。

移民の生活 コーヒー園での仕事

移民の生活 コーヒー園での仕事

そして、戦前、戦後を通じて多くの方が移民として渡ったわけですが、その目的は主に出稼ぎにありました。ブラジルに生活の場を求め、家族とともに異国の地で生活することは、生易しいことではなかったと推察します。言葉もわからず、またブラジルの生活習慣や文化も違うなかで、生活することは多くの困難を伴います。NHKで放送された「ハルとナツ」を見ると、その事情を理解することができます。移民として渡った背景は、戦前、戦後の事情が異なりますが、生活の場を日本国内でなく海外に求めざるを得ないという事情が、その当時の日本にはありました。

原生林を切り開く

原生林を切り開く

移住した時期や場所によって状況は異なりますが、この広大なブラジルに生活の場を求め、苦労しながらいまの地に希望の芽を紡いでいきました。水も電気もなく、また食べるものも十分でない状況の中で今日の糧を得ながら生活することは、多くの苦労を伴ったと思います。毎日、原生林に分け入り斧をふるい、道を作り家を建て、畑を耕すことは、よほどの覚悟がないとできないと思います。もちろん、学校や病院もありません。そういう明日が見えない不安の中で、移民の方達を支えたのが日本人としての矜持と日本にいつか帰ろう、という希望だったと移民の方からお話を聞きました。

移住地の子供たちと

移住地の子供たちと

子供達に日本語を伝えていこう、と考えたのもその理由からです。ブラジル社会に同化していく中で、日本人としての誇りや、日本語を忘れないでほしい、という願いが子供達への日本語教育(当時は国語教育)として始まりました。主に子供達の父兄が、農作業の合間の時間を利用し、家の庭などに子供達を集めて日本語を教え始めました。それが今も脈々と大きな水流としてブラジルの継承語としての日本語教育の背景にあります。出稼ぎから定住へと、時代がたつとともに変わり、ブラジル社会における日系人の役割も変わってきました。

日本語指導風景

日本語指導風景

私が活動する南北マットグロッソ州には、そういった戦後移住地があり、いまも子供達の親が教師として、日本語の指導にあたっています。ブラジルで生まれ育った日系の子供達も、中には3世・4世という子達がいます。以前とは違い、家庭の中で日本語を話すという環境は、ほとんどありません。日本語を話す環境がないということは、学習目的にも結びつかず、そのことで苦労する教師達と日夜、奮闘しています。親たちの願いも漠然としたもので、いつか日本語を学ぶことが子供たちの将来の可能性に結びつくのでは、と考える親は少なく、子供達の進学の時期になると日本語の学習をやめてしまう、という子供達が多いのが実情です。

私は外国語として日本語を学ぶことは、外の世界を開く窓だと考えています。言葉を通じ、その国の人や文化を知ることは、子供達に大きな可能性を与えることにつながると私は信じています。それは、今まで見たことのない豊かな風景であったり、こことは違う異なる風景を見せてくれます。ちょうど私が子供の頃、テレビにかじりついて茶の間にいながら世界の出来事を知ることができたように、未知のことを知ることは、きっと子供たちの世界を大きく広げてくれると思います。その窓が日本語を学ぶということだと私は思います。多様な文化や価値観の違いを、おもしろいと感じられるような大人に子供たちが育ってくれたら、そんな願いを抱きながら、今日も日本語学校に通っています。

第3回:「わが町、ドウラードス」(2006年10月17日)

こちらに赴任してから1年がたち、今年の4月から家族もいっしょにブラジルでの生活を楽しんでいる 。まだ、こちらの生活には慣れないが、不便を感じることは少ない。言葉がわからなくても、何とかなるせいか、たどたどしいポルトガル語を話しながらも、そのコミュニケーションを楽しむ余裕が少しでてきたようだ。

地平線に落ちる夕日

地平線に落ちる夕日

ドウラードス市は、南マットグロッソ州の州都カンポ・グランデから南に250kmほど下ったところに位置する。ブラジルを代表する穀倉地帯で、周りは大豆畑やとうもろこし畑がどこまでも続く。その景色は、この地方が豊かな土地であることを私達に想像させてくれる。特に美しいのが夕日だと思う。いまの時期は空が澄み切り、地平線に落ちる夕陽は、雄大で空が刻一刻と茜色に変わる景色は、いつまで眺めていても見飽きない。「夕日の美しい町」それが、ここに赴任したときに、最初に感じた印象だった。その夕日の向こうに日本がある。最初、この地にたどり着いた日系移民の心を慰めてくれたのも、この夕日だったという話を後で聞いた。不慣れな異国の地で見る夕日に、どんな思いを託したのだろ うか。雄大な夕日を眺めていると、人間って小さいなあ、と感じる。それぐらいここの自然は大きく、自然の営みが人の暮らしをずっと支えてきた。

ドウラードスの町並み1

ドウラードスの町並み1

ドウラードスは、人口18万人ほどの小さな町だ。スペイン、イタリア、ドイツなどのヨーロッパ移民が多く住んでいる。多民族が共存して暮らしているのが、ブラジルの町の大きな特徴だろう。町の端から端まで歩いても40分くらいだろうか。中心街には、教会が建ち、そのまわりには公園や商店街が整備されている。小さな町だが、ごみなどが落ちている姿が少ないのが自慢だ。最近、大きなスーパーが進出し、中央の商店街をおびやかしている。日本の地方都市でも問題になっていることが、ブラジルの地方都市でも起こりつつある。いずれ、都市化の波がこの町にも押し寄せるときがくるのかもしれない、そんなことを考えると少し複雑な気持ちになる。目先の便利さだけを追い求め、本来あるこの町の良さを失ってほしくないと思う。

ドウラードスの町並み2

ドウラードスの町並み2

町の近くには、先住民であるインジオのガラ二ーの保護区もある。彼らは主に農業をしながら、保護区で生活しているが、買い物や用事があると馬車で町にでてくる。「ポカポカ」とコンクリートの舗道に響く馬のひづめの音は、のんびりして気持ちよさそうだが、その横をオートバイや車が通る姿は、いま のドウラードスの町を象徴しているようだ。古くからあるものと新しいものが共存しながらある姿は、どこかほっとするものがあるが、相容れないというのも事実のようだ。

ブラジルに来て驚いたことのひとつに週末の過ごし方がある。日本だと週末のスーパーやデパートは買い物客や家族連れでいっぱいになるが、ここブラジルの私の町では、人の姿を町から見かけなくなる。週末は、教会に行ったり家族や友人と家で過ごすというのが一般的な過ごし方のようだ。だから、最初 ここに来たときは、どうして?とつい思ってしまった。遊びに行くにしても、車がないと何もできない。娯楽施設といえるものが少ないのだ。

フェイラ(市場)の風景2

フェイラ(市場)の風景2

フェイラ(市場)の風景1

フェイラ(市場)の風景1

そんなとき、週末フェイラ(市場)がたつということを知った 。いまは、毎週フェイラに行く事がわが家の週末の過ごし方になっている。私のアパートからも歩いて10分ぐらい、ちょうどいい散歩コースでもある。このフェイラには肉や野菜、雑貨類、日常品など生活に必要なものがなんでもある。

馬車が通る町並み

馬車が通る町並み

また、スーパーで買うより新鮮だし、安いのがいい。シュラスコ (焼肉)の屋台やさとうきびのジュースを売る屋台、アイスクリーム屋、などがあり時間をつぶすにもいい。特に、ここのフェイラの炭火で焼く串焼きシュラスコは安くておいしい。 キャッサバ(山芋、ご飯に代わるこちらの主食)が約350円ぐらいだろうか。けっこう、お腹もいっぱいになる。

シュラスコの屋台

シュラスコの屋台

この市場に来ると、以前住んでいたタイの市場を思い出す。見ていて飽きないし、値段はあってないものなので、店主とやりとりするのも楽しい。 このフェイラには、日系の方達もお店をだしており、卵や野菜などを売っている。戦後来た1世の方達が多く、日本語の会話にも話が弾む。お店には、日系のお客さんも多く、お互い助け合う姿は昔も今も変わらない。ほとんどの方が、他の地方から来た方が多く、その話を聞いていると移民として来た当時の苦労がしのばれる。ブラジルの中のニッポン、なんかそんな言葉がぴったりする。

第2回:「」(2006年08月07日)

国境の町、コロネアサプカイア。左側がパラグアイ、右側がブラジル。

国境の町、コロネアサプカイア。ブラジル国旗が翻るのがコロネア・サプカイア。左側がパラグアイ、右側がブラジル。

私が住むドウラードス市は、パラグアイ国境にも近い。 バスで東に約2時間も行くとパラグアイ国境、そして、さらに南に下ること3時間、国境の町コロネア・サプカイアに着く。国境といっても、どこからがブラジルでどこからがパラグアイか、一見しただけではわかりにくい。周囲は、広大な大豆畑とファゼンダ(農場)が続き、ひたすらどこまでも続く地平線と青空が私を迎えてくれた。見慣れた風景なのに、バスの車窓から見るパラグアイの風景は、さらに時間が止まったような悠久の広がりを感じてしまう。

パラグアイの風景 放牧する牛飼い

パラグアイの風景 放牧する牛飼い

その国境の町を隔てて、パラグアイ側にあるのがカピタンバード日本語学校だ。 ここでは、現在、約60名ほどの子供達が、日本語を学んでいる。それも、ほとんどが日系人でなく非日系のパラグアイの子供達だ。ブラジルでも、最近は大きな町の日本語学校では、非日系のブラジル人学習者の姿が多くなってきた。パラグアイでは、まだ非日系の生徒の数は少なく、今も日本人が入植した移住地では、継承語としての日本語教育*を行っているところが多い。
*継承語としての日本語教育・・・日系人子弟を対象に行っている日本語教育。まだ、戦後新しい移住地では国語教育を行っているところもある。

カピタンバードの子供達と

カピタンバードの子供達。セパタックローのボールを寄贈。(真ん中筆者)

そういう背景を考えると、このカピタンバード日本語学校は、パラグアイ国内の中でも、かなり特殊な環境にあるといえる。生徒も、ブラジル側に住んでいる子供達が多く、ポルトガル語、スペイン語の両方の言葉を話すことができる。それだけでもスゴイのに、さらに日本語に関心をもち、勉強していると聞くと、いったいどんな子供達だろうと驚いてしまう。
ある意味で、それだけこの日本語学校の存在が、地域の中で根づき開かれているといえるかもしれない。生徒の学習の動機も、日本に出稼ぎに行くため、といったものでなく、純粋に外国語としての日本語、そして日本人に強い関心を持っているようだ。そして、みんな学校が大好きだ。
学校に来れば友達がいる。そして、日本語を教えてくれる先生がいる。子供達の笑顔を見ると、なんかホッとして、心がなごんでくる。中には14歳になる教師もいて、その子の指導する姿を見ていると、それだけでも、すごいなあ・・・と感心してしまう。考えてみれば、ここは日本とはちょうど地球の裏側、そこで日本語を勉強している子供達がいるということは、ほんとにすごいことだと思う。

セパタックローのボールを自由に操る子供

セパタックローのボールを自由に操る子供

前置きが長くなった。何故、タイのスポーツ、セパタックロー*なのか。この学校には私と同期の青年ボランティアが活動している。その友達に、以前タイでしたタックローの話をした。それが、そもそものきっかけだ。ご存知のように、パラグアイの子供達もブラジルの子供達に負けないくらいサッカーが大好きだ。その子供達に、アジアのスポーツであるセパタックローを経験させてみたい。そこからこの話は始まった。4月に山形に一時帰国したときに、そのことをJICA山形デスクの友人に相談したら、幸いにもタックロー愛好会の方を紹介して頂き、セパタックローのボールを寄贈してもらった。
*セパタックローはタイやラオスでは盛んなスポーツ。竹やプラスチックで編んだボールを手を使わずに、足と頭だけで打ち合い点をとりあう。バレーボールとサッカーを足したようなスポーツだ。
その寄贈先が、このパラグアイ、カピタンバード日本語学校の子供達だった。 ルールはともかくセパタックローに少しでも興味を持ってくれたら・・・そんな願いを抱きながら学校に行くと、もう子供達や先生がグランドに集まってくれていた。さすが、サッカーの好きな子供達。飲み込みが早い。ボールをもう自由に操る姿を見て、やっぱりこっちの子はすごいなあ、と改めて感心してしまった。

セパタックローの試合風景

セパタックローの試合風景

練習もそこそこに、すぐ男の子と女の子のチームで試合が始まった。コートはないので、ネットも机を積み重ね、糸を引いただけの簡易ネットだったが、子供達はすぐボールに熱中した。シュートが決まるたびに、子供達から歓声が上がり大いに盛り上がる。審判をかって出た私の声もかすれるぐらい。わいわいがやがや、ポルトガル語、スペイン語、日本語が飛び交う中で、アジアのスポーツであるタイのセパタックローを楽しむ子供達。なんか、不思議な風景だ。でも、異文化交流は大成功!やはりスポーツは国境を越える。

カピタンバードの子供達の笑顔

カピタンバードの子供達の笑顔

最後には、靴を脱ぎ泥だらけになりながら、ボールと格闘する子も。 とにかく子供達は、勝ち負けにはこだわる。あまりに熱中しすぎて、大丈夫かなとこちらが心配するくらいだった。いずれにしても、子供達にとってひとつ遊び道具が増えたことは確かなようだ。これから、きっとこのグランドに子供達のタックローをする姿を見ることができるにちがいない。もしかしたら、パラグアイからセパタックローの選手が生まれるかも・・・子供達の無邪気に遊ぶ姿を見て、そんな夢が大きくふくらんだ。

第1回:「オーパ!ブラジルのニッポンから」 (2006年07月24日)

ドウラードス市

ドウラードス市

開高健の著作に「オーパ!」という本があります。ブラジルでの釣行の日々を広大なブラジルの大地とともに、描いた作品です。この「オーパ!」という言葉は、ブラジルでは驚いたときに、よく使われます。こちらに赴任してから、1年になろうとしていますが、まさにこの言葉通り、毎日が「オーパ!」の連続です。

大豆畑

大豆畑

私が活動するドウラードス市は、ブラジル中西部にあります。ちょうど、南米大陸の真ん中、おへそにあたるところが南マットグロッソ州です。パラグアイ国境にも近く、世界遺産に登録されているパンタナールもすぐ近くです。「ドウラード」とは、黄金の魚“ドラドー”からつけられたと聞きます。その昔、近くを流れる川には、このドラドーがたくさん棲息していたと聞きますので、昔からこの地は自然豊かな豊穣の地だったようです。

KATAYAMA通りと鳥居

KATAYAMA通りと鳥居

ドウラードス市の人口は、約18万人、ほぼ山形市と同じ人口です。南マットグロッソ州は、パラナ州と並び肥沃なテール・ロッシャ(赤土)と呼ばれる土地に恵まれ、大豆や小麦、とうもろこし、などの穀倉地帯として知られています。まわりは緑豊かな見渡す限りの牧草地や畑が広がり、どこまでも地平線が続いています。ここから見る夕陽は、雄大でいつまで眺めていてもあきません。夕陽が美しい町、それもこの町の自慢です。

このドウラードス市には、約1,000世帯の日系人が生活しています。戦後、もっとも早く移民として渡った日本人が、原始林を切り開き、コーヒーの裁培を始めたのが始まりです。いまは、コーヒーをしている農家はありませんが、この地方の農業の礎を築いた功績は、地元のブラジル人から高く評価されています。市内の道には、初期の移民の功績を称え、日本人の名がついた通りさえあります。そのくらい日系人の方達に対する地元の方達の期待と尊敬が高いともいえます。

太鼓の指導

太鼓の指導

戦前、戦後を通じ移民の方達は、継承語としての日本語教育に力を入れてきました。
日本語を学ぶことが、日本人としてのアイデンティティーを支え、親から子の世代へと受け継がれてきました。

いまも、移住地の日本語学校では、子供たちに(3世・4世の時代になりましたが)日本語や日本文化、日本の生活習慣を伝えていこうと努力しています。最近は、アニメやカラオケ、Jポップなど、日本の若者文化に対する関心も高く、非日系の学習者も増えています。2年後に、ブラジルは移民百周年を迎えます。いま社会現象ともなっているデカセギ問題も含め、ブラジルの日系社会は大きな過渡期を迎えようとしています。

日本語学校の子供たち

日本語学校の子供たち

南北マットグロッソ州には、8校の日本語学校があります。私は、その8校の日本語学校を巡回しながら、日本語を指導している教師の育成に協力しています。エリアが広大で、中々充分な指導ができませんが、バスに揺られながらの旅を楽しんでいます。 最初は、ポルトガル語をマスターしようという野望を持ってブラジルに来ましたが、全て日本語で事足りてしまうため、私のポルトガル語は残念ながら今もって上達しません。

生活や習慣への戸惑いはありますが、周りの皆さんがいろいろとお世話してくださるので、不安になることなく家族といっしょに、ブラジル流生活を楽しんでいます。