安ヶ平菜都子 「テランガの国からアルハンドゥリラーイ」
Natsuko Yasugahira
岩手県二戸市出身
青年海外協力隊
- 職種
- 村落開発普及員
- 配属先
- セネガル/地方分権化省農村開発局ケベメール県事務所(ケベメール市)
- 活動概要
- ケベメール市内や近郊の村を巡回し、地域に住む女性の生活向上のために活動する。手芸指導を主に、行政と地域組織を結ぶ橋渡し的役割も期待されている。
- 派遣期間
- 2006年10月〜2008年10月
- プロフィール
- アジアはいろいろ旅しましたが、アフリカは初めて。東北人らしく色白だったのに今ではいい色に日焼け。好きなセネガル料理はスープカンジャ(オクラのソース)と魚の頭。好きなセネガルの現地語は「Jamm rekk(平和のみ)」。セネガル名はNafi Badji。特技は鶏解体と豚解体。岩手県庁を休職しての現職参加。
第7回:「観光地でおばちゃんと飛び込み営業」(2008年3月26日)
サリーで販売してもらっているおばちゃん達の商品
サリーの浜辺
おばちゃん、ちゃっかり観光気分
セネガルには、ヨーロッパから多くの観光客が訪れます。西アフリカ諸国では最も発展している国ですし、アフリカでバカンスを過ごすのには距離的にもちょうどいい国なのでしょう。さながら、日本人にとってのグアムみたいな存在なのかもしれません。おばちゃん達の商品を置いてくれている土産物屋があるダカールやサンルイも、どちらも世界遺産のある観光地なのですが、おばちゃん達と私は、ケベメールから日帰りで帰ってこられる観光地、サリーにも自分たちの商品を置いてくれる土産物屋を探そうと考えていました。
3月上旬に私だけで見本を持ってサリーに行き、置いてくれそうな土産物屋を見つけてきたのですが、店主はセネガル人、やはり商品の値引きを要求してきました。その後、おばちゃん達と相談し、その値引きがこちらの値引きの限度と折り合わなかったので、この土産物屋への販売は諦めざるを得ないことになりました。そこで、これからどうしようと思ったのですが、おばちゃん達は、とりあえずサリーへ商品を持って行ってみようと言い出したのです。試すだけ、と以前私がよく言っていたことと同じ事を言って。以前、私は「とりあえず試すことが大事」とよくおばちゃん達に言っていたのですが、サリーのように何のつてもないような観光地には、本当はちょっと引き気味でした。しかし、おばちゃん達がその気なら一緒にサリーに行って、土産物屋やホテルに飛び込み営業をすることが、「痛みを分け合うこと」だと思い直し、先日再びおばちゃんと商品をたんまり持ってサリーへ行きました。「痛みを分け合う」ということは、私がこれまでおばちゃん達と一緒に仕事をしてきて感じてきたことです。ボランティアの私だけが痛みを背負ってはいけない、だけど、おばちゃん達の痛みを少しでも軽くしてあげたい、そんな気持ちでいままでやってきたように思います。
サリーでは、おばちゃんと商品の入った重いカバンをもって土産物屋やホテルに、文字通り飛び込み営業しましたが、なかなかダカールやサンルイのように大量に買ってくれる土産物屋は見つからず、多少の売上げだけで帰ってきました。だけど、やはり「とりあえず試してみる」ことをやったのだから、おばちゃん達も納得したと思うし、こういうことの積み重ねが次に繋がっていくと信じて、今またどこかに営業に行こうと思案中です。(続く)
第6回:「セネガルで裁判」(2008年2月29日)
前回、空き巣の被害に遭った話をしましたが、その後、私のセネガル人友人の大活躍により(この国では、警察はあまり役にも立たないことが今回の件で実感)、犯人が見つかりました。それで、初めての裁判をここセネガルで経験しました。その時に初めて犯人を見たのですが、なんと犯人は未成年の女の子。彼女は、私の前任者がケベメール市「女性の家」で活動していたときに、食品加工などの研修を受けていた女の子です。盗まれたビデオカメラは返ってきましたが、結局彼女は未成年だから刑務所には行かず、すぐに家に帰ることができました。私としては裁判自体にも、そしてセネガル人の「犯人も見つかったし、盗まれたものも返ってきたし、これで何の問題もないでしょ」という雰囲気になんとなく釈然としない気持ちだったのですが、この話には後日談があって、裁判のあと彼女が本当のことを自供、ケベメール市内に住む中年男性が真犯人として捕まりました。そして、未成年の彼女はその後、知人宅で装飾品を盗んで再び警察に捕らえられ、未成年といえども犯行を繰り返したことから刑務所に行くことになるそうです。しかし、ここだけの話、この空き巣騒動で感じたのは、日本人とセネガル人の感覚の違い。空き巣に入られたと聞いてセネガル人がまず聞くことは「何を盗まれたか」。なかなか私が感じた恐怖とか心の痛みは共感されることがなく、そのことでも落ち込むこともしばしばでした。
さて、洋裁部のおばちゃん達の話。
前にサンルイの土産物屋の店主からG.I.E.(経済活動グループの資格のこと)の取得を勧められていたのですが、今月JICAの協力でセネガル人のマーケティング調査の方がおばちゃん達の仕事を見に来てくださり、その方の強い勧めもあってG.I.E.取得へ大きく動き出しました。G.I.E.の名前も、私が空き巣被害のためダカール休養している間に、おばちゃん達だけで話し合って決めました。 「jigeen nu farlu」 ウォルフ語で「仕事にやる気あふれる女性たち」といった意味です。(注 表記はウォルフ語で本当はnの上に〜の記号が付きます)G.I.E.の申請には55000Fcfaが必要なのですが、洋裁部会計から支払うことができました。前任者から洋裁部会計の保管袋(売上げの10%を積み立て。ダカールやサンルイへのおばちゃん達の交通費はここから支出している)を引き継いだときにはほとんどお金が入っていなかったのに、今や55000Fcfaものお金をポンと支払えるなんて…。この一年間のおばちゃん達の仕事っぷりを思い、このお金を支払うときに感慨深いものを感じました。G.I.E.を取得した今、私が今考えているのはタグをつけること。ブランド名が書かれているロゴで、服やカバンによくついている、あれです。おばちゃん達の商品は今やダカールやサンルイで、日本人以外の外国人や観光客にもよく売れています。私自身もセネガルの観光地で、おばちゃん達の作ったカバンを持っている白人系外国人を見たことがあります。そんな彼女たちの仕事に今必要なのは、商品をコピーされないようにすること。そのためにはタグをつけることが必要なのです。
即売会にて(その1)
即売会にて(その2)
また、今月は物を作ったり、それを売ったりしている隊員が中心となって、ダカールのフランス文化会館の庭を借りて、一日だけの展示販売会を行いました。私としてはおばちゃん達に、どんな人が商品を買ってくれるのか、どんな商品が売れるのかということを学んで欲しかったので、おばちゃん達を勉強のために連れて行きました。このフランス文化会館にやってくるのは白人系外国人、つまり、ここセネガルではお金を持っている人たちです。なので、この日だけは少しだけ高く値段を設定して売ることにしました。とは言っても各商品200Fcfa〜500Fcfaくらいの値上げですが。それでも白人系外国人のお客さんにはその値段で順調に売れ、目標額の10万Fcfaを売り上げることができました。でも、この日、おばちゃん達にまた小言を言う羽目に…。あまり接客に慣れていないおばちゃん達は、お客さんが来てもおしゃべりばかりしていて、商品を勧めたりすることもせず、買ってもらっても「merci(フランス語のありがとう)」を言うこともなく、ただ商品を山のように積んでいるだけです。商品は見やすいようにきれいに並べること、お客にはちゃんと挨拶することなどと一日中ブツブツ言っていた一日でした…。と言うわけで、直接買い手と話すことがないおばちゃん達にとっては何かしら勉強になったかもしれません(と思いたい)。
最近感じることは、私のセネガル生活もあと7ヶ月。今年は9月上旬からラマダン(断食月)が始まるので、セネガル生活最終月の9月はほとんど活動できないとして、実質活動できるのはあと半年。2年という漠然とした期間だったのが、いきなりゴールが見えてきた感じです。この半年でおばちゃん達のために何ができるのか、何をするべきなのかを最近よく考えます。でも、また飛ばすと疲れちゃうのでNdank ndank(ウォルフ語でゆっくりゆっくり、の意味)と自分に言い聞かせて、自分の体や心の様子と相談しながら一つ一つやっていこうと思います。(続く)
第5回:「おばちゃん達、ナフィを泣かす」(2008年1月31日)
このレポートを読んでくださっている皆さんの中には、これから協力隊に参加しようとしている方や、日本で私を応援してくださっている方がいらっしゃると思うので、今回この話題を書くことをためらったのですが、徐々に気持ちの整理もつき始めているので書くことにしました。
新年早々、空き巣に入られました。しかも一週間の間に2回も。1回目の空き巣の時には一泊だけ首都ダカールに用事があって出かけていてその時に入られました。空き巣に入られた翌日、早速新しく鍵を付け足したり、扉を強化したり防犯対策をしたのですが、その3日後、日帰りで別の町に行ってきた日に2回目の空き巣に入られました。どちらの空き巣の時にも私は出かけていて犯人と鉢合わせになることがなかったのが不幸中の幸いだったと言えますが、しかしこのことは精神的にかなりショックな出来事でした。1回目の空き巣の後はまだ精神的に余裕があったのですが、2回目の空き巣の時はなんと表現したらいいか、深い落とし穴にいきなり突き落とされたような、まさに目の前が真っ暗になったような、そんな精神状態でした。自分の安全確保と精神衛生のため、2週間ほどダカールで休養していましたが、今は同じ任地の隊員宅に引越し新しい生活を始め、なんとか正常の生活に戻そうとしているところです。
今回の空き巣でビデオカメラと少々の現金を盗まれましたが、私にとっての問題は何を盗まれたかではなく、これまでのセネガル生活で築き上げてきたものが壊されたことでした。ささやかな私の家での安定した日常、セネガル人との間に出来上がってきた関係、自分の任地であるケベメールでの安心感…。そういったものを犯人は全てぶち壊してしまいました。一時はケベメールに帰るのが本当に嫌で、しかもセネガル人と話すのも嫌になってしまい、ケベメールで友達に会っても「この人が犯人なんじゃないか」という疑心暗鬼の気持ちを持ってしまうことや、セネガル人と笑顔で挨拶できなくなったことが本当につらいことでした。
実は1月にダカールとサンルイの土産物屋から急ぎの注文があり、洋裁部のおばちゃん達と一緒に納品にいく予定があったのですが、私が空き巣被害に遭ったためダカール休養をしていて一緒に行けなくなってしまいました。私は延期にしようと考えていたのですが、なんとおばちゃん達は私がいなくても自分たちだけで納品に行ったのです。このことを電話で聞いた時、思わず私は涙が出てきてしまいました。こうやってこの文を書いている今も思い出すと涙が出そうになります。自分が今年の9月末には日本に帰るからその後はおばちゃん達だけで頑張るしかないと口を酸っぱくして言い続けたこと、これまで土産物屋への納品には「ナフィが1人で行ってきて欲しい」と言われても必ずおばちゃんを誰か連れて行ったこと、そういったことが実を結び始めていることを実感した出来事でした。しかもおばちゃん達は私がいない間に納品の売上げを自分たちで計算して分配し、ノートに記入する作業までしていたのです。これまではこの作業は私の仕事で、売上げを各生産者ごとに計算し、且つ洋裁部会計への積立金10%を引き、各生産者に分配するという作業をしていました。今まで少しはおばちゃん達に手伝わせてはいたのですが、計算が苦手だったり(セネガルはFcfaが通貨ですが、実はウォルフ語にはデロムという単位があり、Fcfaからデロムに言い換えるためには5で割る、逆のときは5をかける、ということをしなければなりません。つまり同じ金額でも言い方に応じて変換しなければならないのです。おばちゃんたちにとってはデロムでの計算のほうが楽のようです。)字を書けないおばちゃんもいるため、結局私がやっている状況でした。あとからその計算を見ると間違っていて差額が1万Fcfa近くもあったのですが、今回このおばちゃん達のやる気に免じて大目に見ることにしました。そして、おばちゃん達の口から「ナフィはいつもこんな大変な計算してくれていたんだね」とか「今私たちに必要なのは計算の勉強と帳簿の付け方だから、今度勉強会しようよ」という言葉が出てきたのは本当に嬉しいことでした。自分たちで自分たちの現在の問題点に気付いてくれたのです。
今回空き巣に入られ、未だに空き巣に入られる夢を見てうなされたりしているように、自分で思っている以上に精神的ダメージを受けました。しかしこのことが結局はおばちゃん達を自立へ大きく飛躍させる出来事になったのは否めません。私はきっと犯人を許すことができないだろうし、以前のようにセネガル生活を好きになれるか今は分からないですが、残り8ヶ月、今あるセネガルでの人間関係と、そして誠意あるセネガル人との交流を大事に過ごしていきたいと思います。
そしてこの場を借りて、今回の件で精神的に支えてくれたセネガル隊員のみんなとJICAセネガル事務所の皆様、そして誠意のあるセネガル人友人に心からお礼を申し上げます。(続く)
第4回:「行く年、来る年」(2007年12月29日)
今では洋裁部メンバーの全員が自宅にミシンを持っています。(1年前は1人だけだった)
洋裁部の注文をチェックする私と、この日遊びに来てくれた隊員
ポーランドから帰国隊員が帰路変更の途中、洋裁部に遊びに来てくれました。
他の任地から隊員が来ると、とりあえずガゼルビールでおもてなし。こういうひと時はとっても大事。
今年のタバスキ(犠牲祭。イスラム教最大の祭)のために作ったグランブブ。
村で井戸汲みを手伝う。かなりハードだけどこういうことも大事だと思う。
それはある日の村から帰るいつもの道のりでした。ケベメールに帰ろうとやっと来た車(この日は大きめのワゴン)に乗ると、床に苦しそうにしている女の人が寝ていました。マラリアか何かの病気でこれから病院に行くのかな、と思ったのですが、なんとなくそれとは様子が違うのです。よく見ると彼女は妊婦さんで陣痛真っ最中。だけど車はお客を降ろしたり乗せたりエンストしたりなかなか進みません。そのうちに泣き声が!最初は車の上に載せられたヤギの鳴き声かと思ったのですが、私の足元で赤ちゃんが生まれていたのです!!付き添っていたマトロン(無資格の助産師)のおばちゃんが赤ちゃんを引っ張り出したのですが、移動中の車の中なのでそれ以上のことはできません。へその緒がつながったままの赤ちゃんはお母さんの腰巻きのしたでそのままにされていました。しかもこの日の車はいつも以上にオンボロで、やっと産院のある村についたのはそれから20分後。へその緒がついたままなので、マトロンのおばちゃん達が車に乗り込んできてそのままへその緒を切って赤ちゃんを運び出し、その後お母さんも車の中で後産を済ませ車を降りていきました。そして手早く車の中が洗われ、そのあと何事もなかったかのように車はケベメールに向かって走ったのでした。これは出産をしたことがない私にとってはかなりショッキングな出来事…。それにしても赤ちゃんってどんな状況でも生まれるときは生まれるんですねぇ…。
さて洋裁部の近況ですが、前回のレポートで予告したとおり、その後サイルイの土産物屋を何件か回り商品を置いてもらえる店を見つけました。おばちゃんと一緒に納品に行ったのですが、ここのセネガル人女店主がなかなかのやり手。自分たちの商品をコピーされないように特許をとることを勧められました。今まで質の向上や顧客の信頼を得ることで商品の売上げに繋がることを口を酸っぱくしておばちゃん達に言い続けてきたのですが、彼女と知り合ったことで自分たちの商品を守ることも考えていかなければならない時期が来ていることを痛感しました。前任の隊員が人を集めることから始め試行錯誤しながら技術指導をしてきたこの洋裁部、引き継いだ時には正直ここまで大きくなるとは思ってもいませんでした。これは全ておばちゃん達の頑張りの成果だと思っています。よくよく考えてみれば外国からきた言葉もよく話せない小娘によく付き合ってくれたものだと思います。私が生意気なことや厳しいことを言っても受け入れてくれたのは、おばちゃん達が自分たちの商品に自信を持ってくれたから、売れると信じてくれていたから、そして私を信じてくれていたから。
この一年活動してきて、洋裁部以外の活動、例えば村などでは外国人がきたということで資金や物質の援助を期待されることは否めません。こちらからしてみれば「私は青年海外協力隊!現地の人と一緒に汗を流しながら現地の人のために働くの!」という、なんというか理想のようなものがあるわけです。そこで金や物が欲しい、という話を現地の人からされると、失望したり腹が立ったりしてしまいます。私もこの一年何回かこういう場面に出くわしてその度に自分に期待されているのが金なのかと失望することもありました。11月にこういうこともありました。たまたま知り合ったセネガル人が教師をする村へ招待されていった時、かなりの手厚い歓迎を受け、その後も何回かその村に通ったのですが、彼らの私に期待することは何なのかと、改めて話し合ったところ、やはり彼らは小学校へプロジェクトや資金を入れることを私に期待していることが分かりました。そのときはやはりがっかりして、自分の仕事は金や物やプロジェクトを持ってくることではないことを説明したのですが、さらに「では日本に帰った後、この村を紹介してプロジェクトを入れることはできるか」と言われてしまいました。炎天下で2時間くらいも同じ話を堂々巡りして、何度も何度も自分のできることとできないことを説明して、もう全てが嫌になりかけてこんな村2度と来るか!と内心思ったのですが、でも教師陣は最後には金や物はいらないから授業をして欲しいといってくれました。金や物をもってこないと知ると一気に私に興味を持ってもらえなくなることも経験しているので、先生たちの言葉は私にとって救いのあるものでした。私としてもケベメール県にありながら私の住むケベメール市から2回の乗り換え、2,3時間もかけていくこの海岸沿いの小さな村、潮が満ちれば陸の孤島になってしまうこの村の子どもたちと一緒に授業をしてみたいという気持ちがありましたので、この村の小学校で授業を試してみることにしました。
この出来事のあと何日か自分の気持ちの整理がつかなかったのですが、改めて実感したのは現地の人が私たち外国人に金や物を期待するのは当たり前のことだという、それこそ当たり前のことでした。そして同じく金や物を期待することも期待されることもほとんどない日本から来るとこの期待に戸惑うのも当たり前。おそらく多くの隊員が同じようなことを経験していると思うし、考え方や状況は隊員の数だけあると思うけど、結局はどっちが良くてどっちが悪いということではなくて、結局は自分がどういう活動をしたいか、今後相手とどんな関係を築きたいかによるのではないかと思います。
さて今年もあと数日。2007年は丸々一年セネガルにどっぷり浸かった年で、嬉しいことも悔しいことも感動したことも腹が立ったことも全てセネガル人からもらいました。そんなかけがえのないセネガル生活もあと9ヶ月。ますます早い速度で過ぎていくだろう日々だろうけど大事に生きていきたいと思います。2008年、来年もいい年になりますように…(続く)
第3回:「ナフィ、今日の授業はなにやるの?」(2007年11月30日)
「アフリカ」というと皆さん、一年中暑いのだと思っていませんか?違うんです。実は寒いんです。今の季節、セネガルでは日中は太陽が痛いのですが、夜になると冷え込んできて、水浴びは震えながらしているし、寝るときは毛布なしでは寝られません。昼夜の温度差が激しいせいか、最近風邪をひいてしまいました。
前回お話しした、10月初旬のダカールの土産物屋への初めての納品後、先方から2回も納品依頼の連絡があり順調にお付き合いが続いています。来月はセネガルの観光地の一つであるサンルイにも足を伸ばして土産物屋やホテルに営業にいってみようと考えています。
さて今日は洋裁部以外の活動についてもちょっと触れたいと思います。私の活動のメインはこれまでお話しした洋裁部での活動なのですが、その他にもいろいろやっていて、村落部の小学校で授業をしているのもそのうちの一つです。
この村は電気も水道も通っていない村でケベメールから17キロ離れたところにあります。この村にある小学校で今年の2月から週に一回情操教育の授業をさせてもらっています。小学校へはこの村の子どもたちはもちろん、周辺の4つの村から子どもたちが歩いて通ってきます。ここは7月のバカンス前までは2クラスしかない小さな小学校でした。新学期の始まった10月からは新児童が入学したので1クラス増設、それに伴い私の授業も3クラスになりました。
紙ふうせんを作ったよ!見て見て!
折鶴に挑戦する子どもたち
村で情操教育を始めたきっかけは、任地に来たばかりのころ、言葉もあまり話せず村での居場所がなかったことに悩み、自分の居場所作りのために週に一度の授業をさせてもらうことにしたのでした。最初は村落開発普及員の私が小学校で授業をすることに不安があったのですが、そのことを小学校教諭の隊員に相談したところ、彼女は「村の子どもたちはいろんな経験に貧しいから、情操教育なんて硬く考えなくてもやってみればいいんじゃない。いろんな村に行く村落開発普及員が授業をすることで子どもたちにいろんな経験が増えれば。そしてそのことでセネガルの先生の情操教育に対する考えも変わって小学校教諭の隊員の要請につながればいいよね。」と言ってくれました。確かに村の子どもたちはちょっとしたことでもすごく喜んでくれます。授業の内容ですが、図工は折り紙を中心とした作品作り、音楽は現地語のウォルフ語やフランス語で歌を教えています。体育は10月以降の新学期から大きい子のクラスを中心的に試していて、走り幅跳びや大縄跳びをしています。先生方が情操教育にとても理解を示していてくれていて、私が帰る前に小学校で簡単な運動会ができればいいね、と話しています。
セネガルの小学校では先生が鞭を使うことが多く、この小学校でも鞭を使う先生がいます。子どもたちもそれが普通だと思っているらしく、私の授業で行儀の悪い子どもがいると、他の子どもが「これで叩くといいよ」といって鞭を持ってきたのには驚きました。私は鞭は使いませんが、悪さをしている子どもの頭をガツンとやることは多々あります。日本だったら大騒ぎですね。子どもたちは私を先生と見ていないらしく、友達に近い感覚で私に接しているのだと思います。だから本当の先生が何かの用事でいなくて私だけで授業をしなければならないときは、子どもたちが騒いでしまうことがあり、そんなときは私も頭にきて「あなたたちが行儀悪いから今日は授業はしない!もう終わり!」と授業をしないこともありました。でもたまに授業中に「あんまり行儀悪いと授業しないでケベメールに帰るよ」と冗談でいうと子どもたちは「帰らないで」と言ったりして本当にかわいい子どもたちです。授業のあと「面白かった」とか「次の授業では何やるの」とか聞いてきてくれて、私の授業を楽しみにしてくれているようです。毎回授業の準備やネタ探しは大変ですが、最初のころ折り紙の角を合わせて折ることもできなかった子どもたちが今ではできるようになっていたり、教えた私でさえ歌詞を忘れた歌を子どもたちが歌ってくれているという、そんな単純なことにやりがいを感じて今後も「怒らせると怖い外国人の先生」を続けていこうと思っています。私は本当の教師ではないし教育というものに対する理想とかちゃんとした考えがないのですが、子どもはどの国でもその国の宝だと思うし、教育はその国の力だと思うから。そしてちょっとだけ欲を言えば私が接している子どもたちが大人になったときに、私のことや私の授業のことを少しでも憶えててくれればいいなと思っています。(続く)
第2回:おばちゃん、走る(2007年10月29日)
コリテの日に正装して家族写真
現地語学校で行商するおばちゃん
10月13日にラマダン明けの祭コリテが行われました。この日は鶏か(裕福であれば)羊をさばいてご馳走を作り、新しいセネガル服を着て一日飲んだり食べたりして過ごします。ケベメール市に配属されている青年海外協力隊は3人いて(他は野菜隊員と果樹隊員)、いつも3人で友人宅でご飯を頂いていて家族として扱ってもらっているのですが、今年はその私たちの家族に羊を一頭プレゼントしました。そしてもちろん新しく仕立てたセネガル服。祭の時には新しいセネガル服ではないと嫌な私は、徐々に感覚がセネガル人に近づいているのを感じます。そして夕方からいつもお世話になっている人や友人宅を挨拶回り。「Baal ma aq(許してください)」「Ball naa la(許します)」「Yalla na nu Yalla boole bool(ヤッラーの神が全ての人をお許しくださいますように)」「Amiin(神様ありがとうという意味のアラブ語)」というように普段の罪を謝り合って挨拶します。こういう時にしかセネガル人って謝らないのかも?
さて、前回に引き続き洋裁部の話。青年海外協力隊の後任が来ない、つまり販路が絶たれてしまう、という問題の解決方法はただ一つ。おばちゃん達だけで販売できるように新規販路を開拓すること!実は8月にケベメールから30キロ弱はなれたところにロンプールという観光地があってそこにおばちゃん達と一緒に営業に行ったことがあります。そこでは残念ながら商品を置いてくれるホテルや土産物屋がなくて、炎天下の中がっかりしていたところにヨーロッパ人観光客を乗せた車が登場。いきなり走り出すおばちゃん達。窓の外から商品を持ってアピール。ちなみにセネガルではバナバナという販売方法があってありとあらゆるものを歩きながら販売している人が大勢います。渋滞時や信号停止のときに車に乗ったまま値段交渉、買い物ができるわけです。私もダカールに行ったときにはこのバナバナからいろんなものを買っています。しかし、そのバナバナのまねをおばちゃん達がしたときには正直驚きました。バナバナしたことがないおばちゃん達がちょっと慣れない感じで一生懸命観光客にアピールしている…。そのときの私の感情を何と表したらいいか…。ちょっと涙が出そうになりました。結局観光客には冷たい態度を取られ何も売れず(そりゃもちろん、いきなり車に突進してきて物を売られると普通はひきますよね。しかも変な東洋人が一緒とあればますます胡散臭いはず)みんなでトボトボとケベメールに帰ってきました。しかしそれでへこたれないセネガル人おばちゃん。「大したことないわよ。今度はダカールやサンルイにも行ってみようよ」。そんなおばちゃんの言葉に「やっぱり販路開拓は難しいかも」と恥ずかしながら弱気になっていた私は元気付けられたのでした。
その後そんな私たちに朗報が訪れます。おばちゃん達が作ったカバンを使ってくれている隊員から、「ダカールの観光客向けの土産物屋に行ったら、店主がカバンを見てうちでも売りたいって言ってたよ」という連絡が入ったのです。アルハンドゥリラーイ!!(神様のおかげで、の意味)今月中旬にそのお店に行って初めての納品をしてきました。カバン8個とポシェット11個を買い取ってもらい、売れたらまた納品を頼むとのこと。これで一つ販路開拓。これもいつも商品を買ってくれている隊員やその他の日本人の方のおかげです。こんな風にいつもみんなに助けられているからこそ自分の活動があるのを実感します。
そして勢いに乗ったおばちゃん達と私は、調整員の勧めもあり、新隊員が最初の1ヶ月現地語訓練をするティエス市のウォルフ語学校に行商に行くことにしました。自分も経験があるのですが、セネガルに来てすぐにホームスティをしながらの現地語訓練に入るので、なかなか買い物ができないんですよね。時間的に厳しいし言葉ができないうちは値段交渉が煩わしいし。でもかわいいセネガル布の商品が欲しくなってくるときでもあるし、こりゃ一丁行商に行くか、と思ったわけです。私が事前にチラシを作って学校に貼ってもらい周知をしておきました。今月初め、ラマダン中にも関わらずおばちゃんと商品をたんまり持って車で1時間半のところにあるティエス市へ。セネガルに来てまだ日が浅い新隊員の方々は暖かく迎えてくれ、商品もたくさん買ってくれました。新隊員は3ヶ月ごとに来るので、その度にまた行商に来ることにしました。よしよし、これでまた一つ販路開拓です!そしてこれからも自分の離任後のために新規販路を開拓していく予定です。すべてはおばちゃん達が自分達だけで運営していけるようにするため…。(続く)
第1回:ラマダンが始まった(2007年9月28日)
洋裁部のメンバーと
洋裁部の商品
初めまして!平成18年度0次隊 村落開発普及員の安ヶ平菜都子といいます。セネガルでの名前はNafi Badji。セネガルに来てもうすぐ1年。早かったような短かったようなこの1年でした。残りの1年、活動や生活の様子をこのレポートでお伝えしていこうと思います。よろしくお願いします。
さて、イスラム教圏のセネガルでは今ラマダン(断食月)の真っ最中です。去年セネガルに着任したときもラマダン中で現地語訓練のセネガル人教師陣もぐったりしていたのを思い出します。しかし今年はセネガルに来てから増加した体重を減らすべく私もラマダンに挑戦!というわけで、やってみるのですがどうしても午後には挫折してしまうんですよね…食べ物はまだしも、何も飲めないのはこの暑さの中でかなりきついです。しかしそれをやっちゃうセネガル人。このときばかりは尊敬しちゃいます。まあ日中はぐったりしていますけど…
ラマダン中で雨季ということもあり、今は活動を少し減らしています。今回は私の活動のメインであるケベメール市内の女性組織「女性の家」の洋裁部での活動について紹介したいと思います。ここへは2代目の青年海外協力隊として入りました。前任はこの女性の家に人を集めるところから始め、主に洋裁部で端切れを使った手芸品の技術指導をしてきました。そこで作られた作品が隊員の間で売れ始め、上り調子になってきたときに私にバトンタッチ。私はこの洋裁部で主に運営補助や販売マネジメントを行っています。実際、彼女たちの商品はセネガルに住む日本人の間で人気があり毎月結構な額の売り上げを残しています。売れるから商品の回転もよく技術も上がっていき、彼女たちの自信につながっていくという、いい循環になっているのですが、問題がただ一つ。私の後任が来ない!!売り上げはほとんどが私を通した日本人への販売ですので、青年海外協力隊が撤退すると販路が絶たれてしまうわけです。困った洋裁部のおばちゃん達。そして私達のとった行動とは…(続く)