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永瀬良平 「エチオピアからこんにちは」

Ryohei Nagase

【写真】Ryohei Nagase

秋田県横手市出身
青年海外協力隊

職種
料理
配属先
エチオピア/教育省デブブ大学アワサカレッジ(アワサ)
活動概要
プロの料理人を育成することを目的とした飲食科で調理実習及び調理理論の講義を担当する。特に西洋料理とアジア料理全般に対する実習授業が期待されており、また飲食サービスに係る内容の指導も求められている。
派遣期間
2005.11月〜2007.11月
プロフィール
調理師専門学校卒業後、秋田市内のホテル、レストランで働いたのち青年海外協力隊に参加。現在エチオピア南部のアワサにあるデブブ大学のホテル経営学部において調理実習を担当。

第10回:「5月5日 子供の日 武道演武会」(2007年06月14日)

その日、日本大使公邸の青々とした芝生の庭には各国の大使館関係者とその家族、エチオピアTVクルー、そして政府関係者が多数参列していた。午後3 時すぎ、司会者の説明につづいて柔道着を身につけた4人が「えぃ!」と気合のはいった声を張り上げて基本技を次々ときめていった。拍手が沸き起こる。柔道はオリンピック競技で知っている人も多いはずである。芝生の上には真っ白いマットが置かれていて、相手を投げるときは着地面がマットの上になるようにうまくもっていく。

テスファイと私。大使公邸にて

合気道

柔道

剣道

柔道が終わり、次は私とエチオピア青年のテスファイが行った「合気道」の演武である。多数の人に見られながら演武をするのは初めてだったこともあり心地よい緊張感を味わいながらいつもより多少勢いをつけた動きになった。合気道は一般的には知名度は低いためか、合気道の技が初見のためか観客は拍手のタイミングを逃している様子だった。別に私は拍手なんて欲しくないし、むしろ観客に参加してもらい合気道の技を体験してもらいたくらいだった。

協力隊派遣前訓練期間中に私は合気道隊員3名と知り合い、彼らが週2回行っていた「合気道及び護身術講習」に参加した。以前から米国の映画俳優スティーブン・シーガルが自身の映画のなかで合気道とマーシャルアーツをプラスしたような技を使って悪党を倒すのは知っていた。実際彼は17才の時に来日しており、大阪で道場を持つまでになった合気道の有段者であると聞く。話は少しそれたが、その合気道隊員達から手とり足とり合気道の基本技のいくつかを教えてもらい、「相手といたずらに争わずして相手を制す」その合気道の体さばきと技、そして精神性に魅了されたのだ。

エチオピアには合気道の「あ」の字もないだろうし、続けるのは無理だろうと思っていたが、任地のアワサで思いもかけず合気道稽古場の話を聞きつけてすっ飛んでいって出会ったのが、当時いたイギリス人の先生と現在稽古場のリーダーであるエチオピア人青年のテスファイだった。そこは主に地元の子供たちを相手にした数々のプログラムを行っているNGO組織で、合気道はそのプログラムの一つであり、以来私も稽古に参加して1年以上が経った。

今もって不思議なのは、東アフリカで唯一の合気道稽古場のあるアワサに私は偶然赴任したことだろうか。運動不足な日ごろの生活だが、日本から取り寄せた合気道DVDを見ながら、ああでもないこうでもないと週に3回十数人で稽古するのはなかなか楽しいものだ。

話は大使公邸にもどるが、合気道の演武のあとは剣道の演武がはじまり、防具を身につけた4人がすばやい動きで竹刀を相手に打ち込む堂々とした姿は大変すばらしいものだった。すべての演武が終わり、公邸内で軽食を楽しみながらしばしの歓談となり、「君とはケンカはしたくないな〜」などど冗談まじりで言われたりもし、午前中から予行練習を繰り返していたメンバーの顔には疲労のいろが見え始めていた。

今回の演武会は日本大使館が「子供の日」の行事として企画したもので、みないい経験になったと思う。その後、演武会の模様はエチオピアTVの番組内で紹介されて全国放送となった。人々がどう思ったのか気になるところだが、いろんな意味をこめていい演武会だったと思うし、是非今後もつづけてほしいものだ。

第9回:「水と電気」(2007年04月11日)

日本の電化製品を使うなら必要です

日本の電化製品を使うなら必要です

最近のエチオピアは小雨期とでも言うのでしょうか、私の任地アワサでは2週間ほど前から毎日決まって夕方4時過ぎになると雨が降ります。雨が降ると外出先での移動が困難になるので、大抵は屋根がある場所で雨がやむのを待つほかありません。牛も羊も馬も木の下で雨宿りです。雨が降ると雷も一緒にやってくるので、そうなると大抵停電という事態が起こります。日本での停電の記憶は数えるくらいしかありませんが、アワサでは大雑把に言っても週に2回は停電になります。30分以内に大抵復旧しますが、長いときは1時間以上の時もあります。日中は平気ですが、夜間の停電ではロウソクの明かりだけが頼りになります。外は普段から街灯がない地域なのでまさに闇となり、野犬の遠吠えしか聞こえてきません。そんな時いつも思うのですが、電化製品に囲まれているのにそれが使えない状況ならはたして生活は成り立つのか?という事です。以前観たある映画のなかで、「国家の存続は電気が握っている」というセリフがありました。もし現在の日本で電気がストップしたら人々はどれだけ無防備になりどんな混乱を引き起こすのでしょうか?停電して電化製品が使えないと何も出来なくなってしまう状況を何回も経験した今、電気がなくても生活できる生活術とたくましさを身につける必要があるなと思いました。

予備のミネラルウォーター

予備のミネラルウォーター

蛇口から出てくる水道水を直接飲むのは危険であるというのがエチオピアで暮らす私達外国人にとっては常識です。煮沸してから使用するか、ろ過器を通した後に煮沸してから使用するのが一般的ですが、私の場合飲み水は市販しているミネラルウォーターで、料理に使用する場合は必ず沸騰させてからにしています。エチオピアでは地下の水道管から水が直接来る場合と、家の敷地内に設置してある貯水タンクにいったん溜めるというスタイルがあります。私が借りている家には地面に大きなタンクがあり水はいったんそこに溜まり、電機ポンプで地上数メートルにあるタンクに水が溜まるようになっています。水の圧力が弱くなると水の出が悪くなるので3日に1回はタンクを満タンにする必要があります。

乾燥した大地

乾燥した大地

日本での生活で水を心配することはまずありませんが、エチオピアでは電気と水は常に不安定(場所にもよりますが)であることを頭においておかなければならず、不測の事態に対処するための用意も必要です。以前地方のホテルに泊まったとき、停電と断水が2日つづいた経験もあり、ホテル環境が充実していないのも観光客が遠のく理由の一つではないかと思います。

貯水タンク

貯水タンク

水と電気の供給は都市部と地方ではだいぶ差があるように見受けられます。乾燥した土地のあちこちに点在する小さな町や村では手押し式のポンプ井戸が数箇所にあり、女性や子供が炎天下のなかポリタンクを担いで自分達の順番を待っている光景をよく見かけます。ある映画のワンシーンで、夏場に消火栓を開けて水浴びしている子供達というのがよくありますが、この差はいったいなんなのでしょうか。田舎では街灯がほとんどなく、外出は危険を伴う場合があるので地元の人でさえ外には出ない場合が多いと聞きます。どこかの国の夜中でも明るい都市と一人で歩いていても平気な環境、この違いはなぜなのでしょうか。ただ単純に私はそういつも考えてしまいますが、今の自分に出来ることは節電と節水だと思っています。

第8回:「調理実習について」(2007年02月05日)

実習室

実習室

調理実習の様子

調理実習の様子

豚の角煮

豚の角煮

好評だった白身魚のチリソース煮

好評だった白身魚のチリソース煮

今回は私の活動である調理実習について紹介したいと思います。エチオピア南部州の町ハワサにあるデブブ大学のホテル経営学科が私の隊員活動の場です。 現在は3年生を対象にした調理実習が行われており、生徒数は約100名です。
今年は新入生が80名程入学しました。

実習室の設備はすべてイタリア製で、比較的新しく基本的な調理道具はすべて揃っています。調味料は首都アディスアベバで買い揃えた物がほとんどで、なかには中国製の醤油も含まれています。残念ながら私が醤油を使用するまで誰も手を付けていなかったようで、生徒達に醤油の事を説明するのは一苦労でした。今抱えている問題の一つに、時々水が断水してしまい実習の時に十分な水が確保できない状況が発生してしまい、生徒が外まで行ってポリタンクに水をためて運び入れ、何回かそれを繰り返すといったものです。現在大学側に大型の水タンクの設置か、水をくみ上げる電動ポンプの設置をしてもらえるよう要請しています。

調理実習はエチオピア人教師1名が全体の指揮をとっていて、他にアシスタントが2名います。活動1年目は主に実習のサポートをしていました。当初は生徒ともスタッフともコミニケーションがうまくとれず苦労しましたが、2年目に入ると自然にとけ込めるようになりました。また、1年目後半の頃には実習のサポートだけでは物足りなくなり、アジアスタイルのメニューを作成して実習で生徒と一緒に調理をするようになりました。食に関しては保守的な傾向が強いので、私が以前調理した日本スタイルのラーメンの時、生徒達は誰も味見をしてくれませんでした。それにめげずに回を重ねるごとに味見をする生徒が増えてきました。私がいつも注目している点の一つに「味見」があります。 調理後の味見はしますが、調理途中の味見をする生徒がほとんどいなくてそれでいて塩や胡椒をしている光景が目につきます。生徒にしてみればメニューに書いてある分量どおりの調味料を入れれば料理は完成すると思っているのかもしれません。確かに分量は大切ですが、調味料を入れることによって味がどう変化するのかを生徒には確かめてもらいたいと思い、自ら味見をしてから生徒にも味見をするように話しています。「味を作り出す力」を生徒達には身につけてもらいたいものです。

これからもアジアスタイルのメニューを作成して生徒達と共に実習を行っていきたいと思っています。

第7回:「エチオピア、晴れ時々雨」(2006年12月26日)

牛が道路をふさいでも慌てません。

牛が道路をふさいでも慌てません。

12月1日でエチオピア隊員活動も1年が過ぎました。ある朝、雨の音で目が覚めた時、雨の音を聞きながらぼんやりとカーテンの隙間から見えた灰色の空を見ながら日本にいる錯覚にとらわれました。最初はどこか聴き慣れなかったエチオピアの大衆音楽も、今ではすっかり体にしみこんでしまい、家ではもっぱらエチオピアの曲しか聞いていません。 毎朝家の屋根をドタバタと走りまわる猿の群れ、道端で草を食べてるヤギの群れ、繁華街の道路の真ん中でなぜか微動だにせず立ったままの馬2頭、家の門を開けたら目の前に牛が数十頭・・・。このような光景は今ではごく普通のものになってしまいました。

知り合いの獣医から聞いた話では、育てられた環境によって馬は立ったまま目を開いた状態で眠ることがあるそうです。ほんとでしょうか?知りませんでした。 エチオピアの大衆音楽って日本演歌のメロディーに似ている曲が結構多いんです。読者のみなさんに聞いてもらえないのが残念ですが、曲調、こぶしの利かせ方などよく似ているんです。なんでだろうと思い、調べてみました。

この写真、日本ではありません。エチオピアで活躍する中古の日本製消防車。

この写真、日本ではありません。エチオピアで活躍する中古の日本製消防車。

朝鮮戦争当時(1950年〜1953年)、エチオピアは国連軍として1700名あまりの兵士を現在の韓国に派兵しています。当然、負傷や休暇で日本を訪れた兵士も多かったようです。日本の歌に興味を持った彼らはレコードを買い、エチオピアに持ち帰ったのでは・・というものでした。日本のメロディーはエチオピアの人々の心情をうまく捉えたのでしょうか。有名な話の一つとして、当時の兵士のなかには有名なエチオピア人歌手がいて、「横浜の女性に恋をした・・」という内容の歌があるそうです。今でもエチオピアのどこかの家庭に古い日本のレコードが眠っているかもしれませんね。エチオピアと日本の歌の関係について何か知っている方、情報をお寄せください。

1年間料理隊員としてこの国を見て感じたこと、考えたこと。

韓国料理店で食べるカツ丼。

韓国料理店で食べるカツ丼。

私の活動内容は、「デブブ大学において、西洋料理、アジア料理全般の調理実習を行う・・。」というものです。一般にエチオピアではパスタ、マカロニやラザニアといったイタリアスタイルは広く食べられています。アジア料理となりますと、人々はその存在を知っていても口にする事はほとんどないというのが現状のように思います。首都アディスアベバには中国料理、韓国料理、インド料理、タイ料理のレストランがありますが、そういったレストランの場合利用客は私が見た限りでは、エチオピアに住んでいる外国人かエチオピアを訪れた外国人がほとんどです。料金設定が非常に高いというのも理由かと思います。

手サーモン握りずし作りました。

サーモン握りずし作りました。

長い間独自の文化を守り続けてきたエチオピアは「食」に関しては保守的な傾向が強いように感じられます。例えば日本料理(寿司など)の講習会を開いた場合、参加者は興味を持ってはくれますが、材料や調味料、味付けは日本のものですので家庭で作るとなるとかなり困難です。エチオピアにある材料と調味料、そしてエチオピアの人々の好みの味付けで作れば、それは「日本料理風」であり、「日本料理」ではないという葛藤が私にはあります。

日本料理にこだわる事はないかもしれませんが、今後の活動でアジア料理を受け入れてもらいたい、食べてもらいたいというのは単なる「おしつけ」なのかもしれません。エチオピアにはエチオピアの食文化があり、私はそれを尊重します。それと隊員としての活動をどううまく結び付けていけばいいのかを考えながら今後の活動になります。

第6回 「エチオピアで食べる韓国の味」(2006年11月17日)

手作り白菜キムチ

手作り白菜キムチ

のどごし爽快な冷麺とキムチ

のどごし爽快な冷麺とキムチ

韓国料理にはかかせないコチュジャン味噌

韓国料理にはかかせないコチュジャン味噌

手作り豆腐。けっこう手間かかります

手作り豆腐。けっこう手間かかります

世界各地で活動する隊員の日々の食事はどんなものだろうか。米を主食とする日本人にとって米が入手できなければその他の穀物を食べなければいけないので、「食べる」ことに工夫し苦労している隊員は多いと思います。任国の食事は私達にとってその国の文化や習慣を象徴するものであり、そこから人々の考え方や日々の生活を読み取ることができます。
エチオピアの場合、エジプトから輸入されてきた日本米とよく似た米が入手できるので、主食は問題ありません。首都アディスアベバには豊富な海外の食品を扱う店がありますが、私の知る限り日本の調味料としては「醤油」、「味の素」しか入手できません。「豆腐」も売ってはいますが地方では手に入りません。限られた調味料とその他を組み合わせ工夫することによってかなりおいしい物を調理できますが、地方の隊員にとって「日本の味」を作りだすのはなかなか難しいものですが、それを実行している友人達がいます。

私の任地であるエチオピア南部にはKOICA(韓国国際協力事業団)の隊員が5人いて、活動形態もJOCVとほぼ同じ。比較的彼らとは家が近いためによく行き来があります。韓国と聞いて思い浮かべるものの一つとして「キムチ」があります。そう、彼らはキムチを作っているのです(白菜は入手可能)。私は時々日本の漬物が食べたいな〜と思うことがありますが、実際自分で作ろうとはしません。しかし、彼らの家でキムチを食べたときそのうまさに感激し、母国の味を作り出す器用さと彼らの「食」に対する姿勢、食事を分かち合う彼らのもてなしの心は学ぶべきところがありました。

日本と韓国では食べ物に関しては似ている部分が多くあるように思います。よく私は彼らと食べ物の話をしますが、例えば「のり巻き」は韓国では、たくあんや数種類の具を巻いたものはファーストフード的なものでよく食べるようですが、日本と違う点は酢飯ではなく味をつけない飯を使うとのこと。あと日本で「おでん」といえば屋台を想像しますが、韓国もおでんは屋台が主流のようです。韓国では魚の練り物、カマボコなどを総称し、呼び名も日本と同じで「おでん」と言うそうです。

最近では冷麺をご馳走になりました。日本でも冷麺はおなじみですが、エチオピアで食べる冷麺の味はまた格別のような気がします。その他にも以前に「プルコギ」、「サムゲタン」、「キムチチゲ」、「サムギョプサル」、「ビビンパブ」・・といったものも彼らは作ってくれました。おいしかったのは言うまでもありません。次回はキムチ作りに参加し、作り方を教えてもらおうと思っています。 これからも「日韓の味の交流」は大事にしていきたいです。 エチオピアでの活動もあと少しで1年になろうとしています。エチオピアではアジア圏の料理はほとんど受け入れられておらず、西洋料理が主流です。現在の活動においても「日本の味」は作りだせても、それが受け入れられるのは難しい状況です。しかし、調理の過程や調理に対する姿勢は国によって違いはあるけれど、世界共通のものがあると思います。「おもてなしの心」ではないでしょうか。私は韓国隊員との交流から改めてその心の大事さを教えてもらったような気がします。

第5回:「エチオピアのコーヒー」(2006年09月14日)

時間をかけて作ったコーヒーはうまい

時間をかけて作ったコーヒーはうまい

コーヒーは世界で最も親しまれている嗜好飲料で、多くの人々がこの香り高い飲み物にすっかり魅了されています。コクがあり味わい深いエチオピアのコーヒーは日本では味わったことのないものです。
エチオピアの人々にとって、コーヒーは日々の生活には欠かせないもので、実際エチオピアはコーヒーの名産地です。コーヒーの原産地は現在ではエチオピア南西部のカファ地方とするのが定説になっているようです。カファ地方は平均標高2400メートルの高原地帯で、高原の気候がコーヒーの栽培に適しているのでしょう。
さて、コーヒーの名前の由来についてですが、コーヒーの産地「カファ」の農産物なのでコーヒー豆をカファと呼び、それがなまって「カフェ」〜「コーヒー」となったという説と、昔トルコではコーヒーのことを「コッファ」と呼んでいて、トルコ語のコッファからきているという説があるようです。カファ地方ではコーヒーのことを「ブーノー」と言うそうですが、一般的にエチオピア国内では「ブンナ」と言います。

陶器製のコーヒーポット

陶器製のコーヒーポット

初めてのコーヒーセレモニー

初めてのコーヒーセレモニー

コーヒーとミルクが入った「マキャート」

コーヒーとミルクが入った「マキャート」。食後の口直しにはちょうどいいです。

さて、コーヒーの名前の由来についてですが、コーヒーの産地「カファ」の農産物なのでコーヒー豆をカファと呼び、それがなまって「カフェ」〜「コーヒー」となったという説と、昔トルコではコーヒーのことを「コッファ」と呼んでいて、トルコ語のコッファからきているという説があるようです。カファ地方ではコーヒーのことを「ブーノー」と言うそうですが、一般的にエチオピア国内では「ブンナ」と言います。
日本でのお茶の時間といえば午前10時頃と午後3時頃。エチオピアも時間帯はほぼ同じで、町中のカフェでコーヒーを飲みながら世間話をしている光景をよく見かけます。

カフェで飲むコーヒーもおいしいのですが、私はなんといっても家庭で作るコーヒーが一番おいしいと思います。エチオピア代表文化の一つにコーヒーセレモニーがあります。セレモニーというと少々大げさですが、日本でいえば友人や家族とお茶の時間を楽しむといったところでしょうか。ただ日本とは煎り方、入れ方、使用する道具が違い、床や地面に青草や花を敷きつめたり、お香を焚いたりして雰囲気を大切にします。また、出来上がったコーヒーにティナダムという樹の葉を入れる事もあります。ハーブの一種で独特の香りがコーヒーの香りをさらに引き立たせます。

もしコーヒーセレモニーに参加したら3杯飲むのが礼儀のようです。コーヒー豆を火鉢で煎るところからセレモニーは始まるので、所要時間は1時間から1時間半はかかります。

その間、コーヒーのおつまみとしてポップコーンが出てきます。コーヒーカップは取っ手の付いていない小さいカップを使用し、一杯の容量は100ml程度。砂糖はコーヒーが出された後に自分で入れる場合と、最初からティースプーンで3杯くらいの砂糖が入っている場合があり、白い民族衣装に身を包んだ女性がほとんどすべての工程を行います。

エチオピアのコーヒー豆を日本に持って帰って自分で作ってみても、多分いまいちでしょう。エチオピアで飲むから「あの風味とコク」なんだと思います。

第4回:「南部への旅」(2006年09月14日)

山岳地帯を行く

山岳地帯を行く

山岳地帯の伝統的な家

山岳地帯の伝統的な家

ワニパークにて

ワニパークにて

色とりどりの織物を作る人達

色とりどりの織物を作る人達

8月22日から29日にかけて同期隊員数名とエチオピア南部に行ってきました。旅行会社からレンタルしたランドクルーザー2台(エチオピア人ドライバー2名)には旅行先に必要な様々な物資を積んでいました。特にペットボトル入りのミネラルウォーターは大量に買い込んでいました。というのも、途中での飲料水確保は難しいというのがあります。南部地域は乾燥していて車での移動が長時間のため、旅の期間中飲料水は常に私達のそばにありました。

8月22日(火)、私と同期隊員の1名は「シャシャマネ」という町で首都からやって来た他のメンバーと合流し、昼食をすませて昼過ぎに出発したのでした。私の聞いた話では、シャシャマネという町は過去にジャマイカからやって来た人達が移り住んだ町で、レゲエ音楽の先駆者である故ボブ・マーリーとも関係深い町でもあるということだそうです。

エチオピア南部は過去にも多くの隊員が訪れている場所で、そこには一つのルートというべきものが存在し、車の中で寝てしまっても目的地には必ず到着するというものでした。一番疲れたのはドライバーさんだったと思います。8月後半という時期は南部旅行シーズンみたいなもので、多くのスペインからの旅行者もいました。彼らもほとんど私達と同じルートなので行く先々で一緒になり、そのたびに「あれ、また会ったね・・。」といった具合でお互いの顔を確認してからなぜかお互いうつむいてしまうのでした。

旅の期間中はひたすら山岳地帯か草原地帯を走るといったもので、とくに山岳地帯での風景はすばらしいものでした。一番長時間の移動時間で6時間以上という日もあり、未舗装のガタガタ道と暑さのため宿泊先のホテルに到着した時には漬物石を背中にくくりつけて50メートル平泳ぎした後みたいな感じで全員ぐったりでした。

エチオピア南部は多くの少数民族の人達が生活していることでも知られ、それらの村々を訪れるのは「お決まりコース」のようなもので、私達は行く先々で村々を訪ね、カメラを向けるのでした。しかし、彼らの生活をかいま見るどころかそこには「写真を撮り、お金を払う側」と「写真を撮られてお金を受け取る側」という薄っぺらい関係しかありませんでした。写真を撮ったらお金を払うというのが一つのシステムとして定着している現実と彼らの土地に土足で入り込んで写真をとり、次の村でも同じことを繰り返しているうちにしだいに彼らにカメラを向ける気にはなれなくなり、「なんか間違ってる」という気持ちになり、しだいに口数も少なくなるのでした。ある村で長老らしい男性が座りこんだまま怒っているような悲しいような目で私達をじっと見ている姿が忘れられません。

第3回:「アワサでの活動」(2006年08月17日)

アワサ湖

アワサ湖

アワサ湖周辺に生息する猿

アワサ湖周辺に生息する猿

大学での授業の様子

大学での授業の様子

調理後はみんなで試食します

調理後はみんなで試食します

現在私が活動しているのは首都アディスアベバから南に約280キロの位置にあるアワサという南部の比較的大きな町です。とても緑豊かな土地でアワサ湖という観光スポットになっている大きな湖があり、政府系のホテルも湖畔にあるため週末は多くの人でにぎわいます。私の家からも徒歩5分という距離なので時々湖畔のホテルに行ってはゆっくり時間を過ごすこともあります。

アワサ湖では鯉によく似た魚が生息し、ナマズも釣ることができ、そういった魚は町の名物料理になっています。現在アワサには隊員3名とKOICA(韓国のボランティア)隊員4名が活動中ですが、よくのぼる話題に刺身が食べたい、寿司が食べたいというのがよくあります。エチオピアでの一般的な魚の調理法としては油で揚げたり、スープにしたり煮込みにするようです。

エチオピアは海に面していないので、もともと魚貝類を食べる習慣が国内ではほとんどないので、日本の魚料理を紹介していくのが今後の活動課題であると考えています。
エチオピアで隊員生活を始めてから私は人々の食生活やレストランメニューに注目し、アワサに赴任してからもそれは変わらず興味がつきることはありません。食事事情を把握することが料理隊員としては絶対必要だと考えているからです。

過去の歴史からみてもエチオピアはイタリア文化の影響を大きく受けていて、その一つにパスタがあります。そのためほとんどのレストランのメニューにはパスタがあり、人々の食生活に根付いています。

この間活動先の大学の調理実習でパスタやラザニアの調理を生徒が行いました。
私は独自のメニューを作成し、パスタを使用して鶏がらスープの日本スタイルラーメンを生徒と一緒に調理しましたが、予想どおり生徒達の興味はパスタ、ラザニアの方にあり日本スタイルラーメンは散々な結果となりましたが、私が日本から持ってきた割り箸を使って食べてみせると生徒は興味をもってくれたようでした。
少なくともスープのなかに麺が浮かんでいるスタイルが生徒達にとっては新しいものだったようです。

調理実習と平行して日本の文化も紹介していくのも今後の課題です。
現在頭を悩ませているのは食材です。入手できる食材がかぎられていて、日本の料理を作るとなると難しいのが現状です。
しかしそこは料理隊員の腕のみせどころとでもいいましょうか、「ある材料で調理する」というのがなかなか楽しいです。現在担当している生徒数はおよそ100人で、2グループに分かれて実習が行われています。

現在エチオピア政府は観光業の分野に力を入れていて、おいしい料理とサービスは今後の課題になるでしょう。将来エチオピアでも日本を含めたアジア料理が人々の心をとらえてくれるのではと、かすかな期待を胸に活動していこうと思っています。

第2回:「エチオピアの主食とおかず」(2006年07月19日)

エチオピアで最初に食べたインジェラ

エチオピアで最初に食べたインジェラ

今回はエチオピアの主食であるインジェラとおかずをピックアップしたいと思います。
エチオピアで隊員が最初に食べて驚くことになるのは(個人差はありますが・・)まちがいなくインジェラだと思います。インジェラはエチオピアの人々の主食であり、日本でいえばご飯にあたります。というわけで、一日3食かかせないのがインジェラなのです。
インジェラについて説明しますと、原料はヒエ科の穀物である「テフ」をまず粉末にします。粉末状のテフに水とイースト菌を加えて生地をつくり、家内で3〜4日発酵させます。発酵後、お湯を加えて好みの生地状態にしてから丸い鉄板に丸く流し入れます。蓋をして待ち、表面にプツプツと気泡が出来ていたら出来上がり。各家々で燃料は薪を使用するのが一般的のようですが、インジェラを専門につくって販売している家やちょっと裕福な家にはインジェラ焼き用の電気式ホットプレートなんかもあります。また、発酵後の生地は少量とっておいて、次回作る時にイースト菌の代わりに入れるのだそうです。

食卓にかかせないインジェラ アワサ

食卓にかかせないインジェラ アワサ

食べるときは「ワット」という野菜や肉の煮込みがインジェラの上に豪快にのっているので、右手だけでインジェラをちぎり、そのまま煮込みを包んで食べます。
一枚のインジェラは直径が40cm〜50cmくらいあるので、2〜4人で食べるのが一般的です。
この手で食べ物を口に運ぶという食べ方は中近東や東南アジアでもみられますが、はるか昔にそれらの国々では人々が行きかい、文化の交流なんかもあったのでしょうか?
食べ方一つとってみても非常に興味深いものがあります。
インジェラの味といいますと、生地を発酵させているため酸っぱい味です。日本人ははるか昔から発酵食品を食べて生活していますが、それと同時に酸っぱい味=「食べ物が傷んでいる」という場合もあります。欧米の人のなかにはこの酸っぱい味になじめずに食べられないという人もいるようです。隊員も同様で、このインジェラを食べれるか、食べれないかによって食生活はだいぶ違ってくるようです。

レストランの鶏肉料理

レストランの鶏肉料理

エチオピアの代表的なワット(煮込み)やその他のおかずを挙げてみますと、牛や羊肉を使用したカイワット。カイは「赤」を意味し、その名の通り赤い色をしています。シュロワットはひき豆の煮込み。そしてドロワット。ドロは「鶏」のことで、エチオピアでは祝いや特別な時に食べるそうです。日本風で言えば、「鶏肉の激辛煮込み」でしょうか。この他いろんな種類があります。
この3種類に共通して言えることは、大量の油とバターを使用しているために物凄く油っぽく、またエチオピア料理にはかかせないバレバレ(赤唐辛子の粉末が主な材料の香辛料)が入っているため物凄く辛くて、食べていると口のまわりがヒリヒリしてきます。このバレバレは各家庭で作っている風景をたまに見かけますが、スーパーでパック入りの物も購入可能です。
このバレバレ、エチオピアではバスの中に持ち込むのはご法度のようで、理由としてはエチオピアの長距離バスの場合、風が体のあたると体を傷めるという迷信があるらしく、どんなに暑くても窓を開けようとしません。(開けている時もある)

羊肉のティブス アワサ

羊肉のティブス アワサ

当然バスの中は蒸し風呂状態となるわけですが、まれに誰かがバレバレを所持していた場合、鼻にくるツンとした辛酸っぱい臭いに我慢できなくなり、「誰だ〜バレバレを持っているのは!」といった具合で犯人探しをすることになるというわけです。私は一度その現場をバスの中で目撃して思わず日本だったらバレバレじゃなくて「くさや」だなと思いました。
私が好きなおかずの一つに「ティブス」というのがあります。これはサイコロステーキとでもいいましょうか、牛や羊肉をぶつ切りにして油で炒めたり揚げたりしただけのシンプルなもので、レストランによっては玉ねぎや青唐辛子が入っている場合もあります。冷めてしまうとゴムのごとく肉が硬くなってしまうので、熱々のうちに食べるとビールのおつまみとしては最高です。
またエチオピアでは牛の生肉(テレスガ)を食べたり、私の任地のアワサでは淡水魚の刺身も食べます。その場合、バレバレを水でといてレモン汁を加えた「アワゼ」という液体香辛料に浸けて食べます。日本でいえば刺身に付いてくるワサビのような存在でしょうか。ちなみに私の場合は寄生虫を恐れてどちらとも食べる気にはなれませんが・・・。
まだまだいろんな料理や飲み物がありますが、次回また紹介していきたいと思います。

第1回:「エチオピアからこんにちは」 (2006年06月14日)

着陸直前に機内から撮影した

着陸直前に機内から撮影したエチオピアの大地

早いものでエチオピアに着任してから6ヶ月がすぎました。79日間にわたる派遣前訓練では多くの人達と知り合い貴重な経験を数多くし、そのほとんどはそれまで経験したことのない事ばかりでした。成田を出発し、タイのバンコクを経由してエチオピアに到着したのは2005年12月1日の午前8時すぎでした。

エチオピアの大地を踏みしめたとき私はなんとも言いにくい奇妙な感覚にとらわれました。それもそのはず、エチオピアは私にとって初めての海外だったからなのです。首都のアディスアベバは約2400メートルの高地にあるため日差しはかなり強いものの、少々肌寒い感じがしました。
日本からかなり遠くに来てしまったな〜というのが寝不足でぼんやりしていた頭の中で響いていましたが、空港から15分ほどの距離にある隊員宿舎に到着後、あわただしくJICAエチオピア事務所に着任の挨拶をしに行き、その後エチオピアで最初の食事をすることに。私を含めた同期の隊員8人はここで初めてエチオピアの主食であるインジェラを食べることになったのでした。インジェラについては次回から詳しく書こうと思います。

エチオピアの小学生達

エチオピアの小学生達

翌日から1ヶ月は午前中エチオピアの言語であるアムハラ語の語学研修となり、午後は自由時間。
時には博物館や教会の市内見学などに行き、しだいに私達も首都の生活に慣れていきました。

アディスアベバは高地にあるため朝はかなり冷え込み、日中は25度前後とうだるような暑さで、日本と違う点はからっとした暑さ。夕方6時をすぎる と冷え込んでいくため、それで体調を崩す同期隊員も。エチオピアの季節ははっきりと2つにわかれていて、6月、7月、8月は雨期となり、9月半ばから5月までは乾季となります。

首都アディスアべバは近代的なビル、カフェ、レストラン、ホテル、ブティックが通りに建ち並び、若者はヨーロッパ、アメリカの流行ファッションを追い、とても近代的な香りがします。夜の繁華街はネオンも華やか。
ビル群建設とともに立ち退かされた住民は粗末なバラックを建てて住んでいます。私がいちばん感じたのは貧富の差が激しいことと、先進国に追いつこうとしながらも自国の文化をかたくなまでに守っている人達の姿でした。

首都だけ見ると発展しているように思えましたが、エチオピアは他のアフリカ諸国のなかでも最貧国であり、17年に及ぶ内戦により経済は極端に疲弊。95年以降から農業生産性拡大、教育などを最重点目標としてきましたが、98年5月には隣国エリトリアとの国境紛争による難民、避難民の大量発生によりエチオピア経済に打撃を加えました。地方では現金を必要としない自給自足の生活を送っている地域もあり、場所によっては電気、水道のない所もあります。日本でなに不自由なく生活していた者にとってはそのギャップを感じずにはいられませんでした。

早朝のバス乗り場

早朝のバス乗り場。行き先のバスを求めて行きかう人々。

2000年12月にエリトリアと和平合意が成立し内政安定化に伴い就学生徒の増加と財政上の問題による教師不足から、現在隊員の活動の場は高校、大学、職業訓練校がほとんどです。過去、1972年8月のWHO(世界保健機関)の天然痘撲滅計画にかかわる隊員の派遣を皮切りに、現在までの派遣隊員累計は380人を数えます。 年が明けて2006年1月10日、私は首都アディスアベバから南に約280キロの所にある任地のアワサに向けて出発しました。私はこの国とどうかかわっていけばいいんだろう?と車中で考えました。窓の外に目をむけると乾燥した大地が果てしなく広がっていました。こうして私の隊員生活は始まったのでした。