東日本大震災・その時わたしは ― 研修員の体験
3月11日に東日本を襲った大震災。そのとき日本にいた外国の方たちはどのように過ごしていたのでしょうか?一人で「その時」を迎え、日本人以上に不安を感じていたに違いない体験を、長期研修員のMeltemさんに語っていただきました。東京大学大学院博士課程で学ぶ彼女は日本と同じ地震国であるトルコから来日し、今年で3年目の滞在になります。

本棚が倒れて資料が散乱する研究室(Meltemさん撮影)
地震が発生した午後2時46分、Meltemさんは東京大学本郷キャンパスの9階にある研究室にいました。
「最初は小さい地震かと思ったけれど、揺れが続いて、どんどん強くなる地震だと気づきました。同じ部屋の留学生は部屋を飛び出そうとしたけれど、私は揺れが収まるまで、落下物から身を守るために机の下に隠れようと、彼女を止めました。地震が起きたときにどうすればよいか、大学の講義や書籍などから学んでいたので、知っていたんです。」
Meltemさんの研究テーマは、将来大地震が発生すると予測されているイスタンブール市の地震防災体制の整備。日本に来てから、住民向け防災ワークショップに参加したり、自治体の避難マニュアルを読んだり、地震に対する知識が豊富なのが幸いしました。

地割れのため立ち入り禁止となった横浜市内の店舗(Meltemさん撮影)
「揺れが収まってから、以前、避難訓練でやった通り、建物の前の広場に集まりました。大学からの指示を待っている間、携帯で日本気象協会のホームページに接続して、震源や震度などの情報を得ました。あんなに大きな地震の後なのに、電気やインターネットが動き続けているので驚きました。でも、通話はできませんでした。」
地震の日、大学はすでに春休みに入っていましたが、例外的に行われていた講義もあったそうです。
「退官する教授が最終講義を行っていたクラスがあって、その人たちは外の銀杏の木の下に集まって講義を続けていました。余震が続くなか、教授は講義を続け、最後は大きな拍手に包まれていました。」
2時間ほど外で待機した後、電車が止まって帰れないため、Meltemさんは大学に泊まることにしました。この頃には、横浜在住のご主人とも連絡がとれ、お互いに無事を確認できたそうです。横浜も震度5強を観測し、建物に被害がありました。

液状化で傾いてしまった浦安市内の交通標識とMeltemさん
「地震のあとは余震も続いたけれど、それよりも福島県の原子力発電所の事故が憂鬱でした。夫と私はずっとテレビを見て情報を入手していました。友達の多くは急いで帰国してしまいましたが、私たちは日本滞在を続けることにしました。日本のメディアは正確な報道を行いますし、多くの日本人が普段どおりの生活を続けているので、急いで帰国することは無いと考えたのです。でも、念のために、避難用の荷物をまとめて、いつでも関西方面に脱出できる準備だけはしておきました。」
多くの研修員が続く余震や原発事故を怖がるなか、Meltemさんは冷静に行動し、状況を観察していました。研究テーマが防災分野だったことも、この冷静な判断につながったのだと感じます。地震直後の研究室、帰宅途中の横浜市内、視察で訪れた浦安市の液状化、すべてきちんと記録に残してありました。今回の体験ならびに報道や現地視察などで知る東日本大震災への日本の対応などが、彼女の研究にも大いに役立つことでしょう。

地震学の国際会議で発表するMeltemさん
「これがトルコや他の国で起こった地震なら、私達は生き延びることができなかったと思います。日本は地震に強い国だと確信しました。原子力発電所のリスクも含め、私達は世界中から学ぶことが出来ます。5月から新学期が始まりますが、指導教官たちは被災地域の復興のために頑張っています。日本が一刻も早く復興することを信じています」と、心強いエールも忘れないMeltemさんでした。
JICA東京経済基盤・環境課 吉田早苗