フィリピンと日本の相互補完が新しい協力の形に

−ビラタ元フィリピン首相に聞く−

2014年2月13日

ビラタ元フィリピン首相(右)と佐々木JICAフィリピン事務所長

日本のフィリピンへの政府開発援助(ODA)は、第2次世界大戦の戦後賠償と並行して始まった。日本がコロンボ・プラン(注1)に加盟した1954年に実施された、研修員受け入れがそれに当たる。1962年にはJICAの前身となる海外技術協力事業団(OTCA)が設立され、1966年には青年海外協力隊員がフィリピンに派遣された。1968年にOTCAマニラ事務所が開設されたが、1974年、国際協力事業団(旧JICA)設立に伴い、JICAフィリピン事務所となる。以降、長期間にわたって友好関係を築いてきた。

その間、日本はフィリピンに対して、衣食住や生活インフラなどのベーシック・ヒューマン・ニーズへの対応や、社会経済インフラの構築をはじめ、災害リスク削減、貧困緩和のほか、産業開発や人材育成など多岐にわたって支援してきた。

現在は、投資促進を通じた持続的経済成長、環境問題や感染症などに対する脆(ぜい)弱性の克服、ミンダナオ紛争影響地域における平和構築の3点に重点を置いて支援を行っている。

今年は日本のODA開始から60周年に当たる。この機会をとらえて、佐々木隆宏JICAフィリピン事務所長が、セサル・ビラタ元フィリピン首相に、これまでのフィリピンに対する日本の援助と、2015年にスタートするASEAN共同体(AEC)時代におけるJICAの貢献について聞いた。ビラタ元首相は、1960年代に円借款第一号となる日比友好道路の建設に携わり、1970〜80年代には財務大臣、国家経済開発庁(NEDA)長官も務めるなど、JICAとのかかわりは深い。

円借款第一号、日比友好道路プロジェクトに携わって

1960年代に建設され、1990年代に修復工事が行われた日比友好道路。フィリピンの経済発展に寄与した

佐々木:フィリピンに対する日本の円借款第一号を知るビラタさんから見て、これまでの日本の援助をどのように評価されますか。

ビラタ:主に融資面でかかわってきたのですが、まだ私がフィリピン国立大学経営大学院学長だった1960年代半ば、フィリピン外務省に呼ばれ、ルソン、ビサヤス、 ミンダナオの3島を南北に縦貫する幹線道路を建設する「日比友好道路プロジェクト」について聞いたのが最初です。そのころは日本による戦後賠償も始まっており、製紙業、化学工業、輸送用フェリーの供与や電力供給などの産業復興事業に携わりました。

その後、大統領府の投資経済スタッフとして政府入りした1967年には、フィリピン‐日本間の貿易が再開され、レイテ島とサマール島の間の日比友好橋建設のために追加融資が行われました。さらにフェリーが購入され、サマール島のソルソゴンとレイテ島、そしてレイテ島とミンダナオ島のスリガオをつなぐ海上交通の開発に貢献しました。

政府はまた、マニラ首都圏における洪水対策のため、マンガハン放水路建設などの主要なプロジェクトへの融資を日本に依頼しました。加えて、発電設備の老朽化による電力不足で恒常的に停電が発生していた1990年代前半、石油の輸入量を減らすために地熱開発に力を入れていたわが国に対し、マクバン地熱発電所改修事業をはじめとする複数の地熱発電所改修事業のために、日本は資金を提供してくれました。

技術協力ではガバナンス能力の向上に貢献

ビラタ:技術協力分野では、日本はフィリピン政府機関のガバナンス(統治)能力向上に注力しました。これは日本のプログラムの特徴で、農務省や労働省、保健省の中にさまざまな機関を新設し、それらを発展させていくことで政府の統治能力が向上しました。

産業開発の分野では、マリキナ市の製靴業が日本の支援で発展しました。それまでフィリピンで靴作りに使っていた木製の靴型は、雨期には膨張し、乾期には縮んでしまうものでした。日本人専門家のアドバイスでプラスチック製に変更したことで、正確なサイズの靴を作れるようになりました。

またフィリピン気象天文庁に対して、日本はさまざまな設備とレーダーシステムを提供してくれました。それらを使うことで天候の予測能力が向上し、台風などの自然災害の被害の低減につながっています。

貧困削減に寄与する農産物加工業への支援を

 ビラタ元フィリピン首相

佐々木: ASEANの経済統合を見据えて、ASEAN地域の包括的な成長やつながりを強化するためにJICAに期待される役割は、どのようなものでしょうか。

ビラタ:フィリピンの場合、「包括的」とは、政府と民間が連携して、貧しい農村地帯の生活向上のために農業に投資することを意味しています。地方の農村で雇用を拡大するため、果物や野菜の加工食品の製造や、ゴム加工業の振興への支援を必要としています。セブ島の輸出加工区にある日本の果物加工工場を視察したとき、日本の加工・包装の技術を学べば、フィリピン農産物の加工食品を、ASEANはもちろん、世界中に輸出できると思いました。

また、日本でのASEAN首脳会議や日本・フィリピン経済連携協定の会議で、フィリピンは介護士や看護師の日本への派遣を提案しました。患者や医者との意思疎通が必要なため、日本語能力の高い人材が求められることがわかっていたので、日本に資格取得のために渡航する人向けに、さまざまなレベルの職業訓練に対応できる日本語学校を、マニラに設立しました。

佐々木:その件に関しては、フィリピンの若い労働力には大きな利点があります。日本とフィリピンが相互に補完できるような関係を強化していくことが、フィリピンでのJICAの新しい協力の形になるかもしれません。

ASEAN統合で雇用機会拡大に期待

佐々木所長 

佐々木:最後になりましたが、ASEANと日本は、後発ASEAN各国の課題解決に対して、どのような協力ができるでしょうか。

ビラタ:解決策の多くはASEAN加盟国の責任で実行されるべきものです。ASEAN全体の経済・社会開発や国民所得をどのように向上させることができるかを考え、技術開発を活用して、教育と保健医療施設・サービスを強化しなければなりません。電力コストを削減するために発電所の改修が必要です。工場の誘致などの投資を呼び込むためです。

佐々木:私はベトナムなど、ASEANの他の国に勤務したことがあります。ベトナムはフィリピンより貧しい国ですが、国内の貧富の差はそれほど激しくありません。フィリピンには教育を受け、中流の生活を楽しむ人々がいる半面、置き去りにされている人々もいます。今フィリピンは経済成長の恩恵を享受している状況にありますが、ASEAN統合に備えて、中間層と貧困層の格差を軽減すべきではないでしょうか。そのためにJICAができることはどんなことだと思われますか。

ビラタ:基本的に教育と職業訓練は重要であり、国民が健康に暮らせるようにすることも欠かせません。例えばフィリピンでは、貧困層の出生率は高く、子どもが多いため、より生活が苦しくなります。農作業をさせるために子どもが必要だった時代とは違いますし、若者の多くは農場で働きたがりません。

佐々木:貧困からの脱却には、雇用を拡大する必要があります。特に農業と比較して生産性の高い製造業の振興が重要だと考えています。この点でも、今後フィリピンと日本は相互に補完していく余地が大きいといえるでしょう。


(注1)第2次世界大戦後最も早く、1951年に組織された開発途上国援助のための国際機関。
(注2)水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置。


【セサル・ビラタ氏略歴】フェルジナンド・マルコス前大統領下の第4代首相(1981〜1986年)。1970〜1986年は財務省と国家経済開発庁(NEDA)も率いた。フィリピン国立大学で機械工学と経営管理の学士号を、米国ペンシルバニア大学で経営学修士号(MBA)を取得。世界銀行とアジア開発銀行でフィリピン代表を務めた。現在はC. ビラタ・アンド・アソシエイツ・インコーポレーティッド・マネジメント・コンサルタツの会長兼社長。