京都大学石井英真准教授とともに日本・世界の今後の教育を考える-with/postコロナの学校・教員の役割について意見交換-
2020年10月5日
新型コロナウイルス感染拡大に伴い、日本を含めて世界の教育のあり方が一変しました。多くの学校や教員がテクノロジーを活用して子どもの学びを止めないために試行錯誤を重ねていますが、日本では教育現場へのICTの導入が思ったよりも進まない状況に批判の声も上がっていることが報道されました。他方で休校を境に、学校が果たしている社会的機能が見直されたり、AIを活用して個々の子どもに適した教材を提供するツールとしてのICTが取り入れられたことで、教員の役割・存在意義を再考する動きも見られました。「JICAの教育協力は、日本国内の学校・教員の日々の取り組みと繋がっている」という基本に立ち返り、全世界で課題となっている教育現場へのICTの導入とwith/postコロナの学校・教員の役割について、日本の教育実践のエキスパートである京都大学の石井英真准教授をお招きし、人間開発部次長・森下がオンラインで意見交換を行いました。
石井英真(いしい・てるまさ)准教授
略歴
京都大学大学院教育学研究科准教授
専門
教育方法学(特に、学力論、授業論、教育評価論)
小・中・高の教育現場の先生方と一緒に、授業づくりや学校改革などの現場での実践にも取り組まれている
活動
日本教育方法学会理事、日本カリキュラム学会理事、文部科学省中央教育審議会初等中等教育分科会「児童生徒の学習評価に関するワーキンググループ」委員などを歴任
研究業績
授業づくり、アクティブ・ラーニング、カリキュラム開発、教育評価などに係る著作多数
最新著書『未来の学校 ポスト・コロナの公教育のリデザイン』
オンライン対談
コロナ禍で顕在化した日本の教育の課題
- (森下)
- コロナ禍は、多くの国・地域で子どもの学習機会の喪失を招きました。世界中の教育現場に大きな衝撃を与え、これまでの常識を見直し、新しい教育の在り方を模索する必要性が問われています。その解決策のひとつとして遠隔教育が注目されていますが、これまでの遠隔教育が伝統的な一斉授業をベースにした画一性を特徴とする一方、近年注目されているオンライン学習は、一般的に個々の子どもの学習の進捗に応じた学習を可能にする多様性に特徴があります。JICAは近年、コロナ禍の前から教師の変容を通じた授業改善を中心においたアプローチから、子ども1人ひとりの「学び」により着目したアプローチで事業を再構成しようと努めてきました。その意味で、コロナ禍におけるオンライン学習の推進が子どもにより焦点を当てた新しい教育の在り方のひとつであるならば、それは現在、JICAが進めているアプローチとも大きく重なるものであり、望ましい方向に向かっていると考えることができますが、一方で、オンライン学習は本当に質の高い教育を子どもに届けることができるのだろうか、脆弱層の子どもにも同じように届くのだろうか、といった懸念も残されています。
明確な回答はありませんが、オンライン学習の普及を取っ掛かりとしつつ、コロナ禍が日々の教育実践にどのような変革を迫るのだろうか、日本を事例に示唆を得ることを目的として、本日は、京都大学の石井先生にお話を伺いたいと思います。まず、日本の教育実践におけるコロナ禍の影響について、石井先生はどのように捉えているでしょうか。
- (石井)
- コロナ禍で顕在化したのは、日本の教育現場が元々抱えていた課題(保護者や世間の学校不信などにより萎縮して挑戦しづらい学校の状況、学習者目線が不足している教師の授業観)です。例えば、ICTを用いた急速なオンライン教育の導入は課題・宿題や授業の発信という形でなされたものの、届けて終わり、進んで終わりということになりかねず、子どもはそれをどう学んでいるか、といった学び手目線で考えられていません。学び手目線で考えるというのが、学習者主体の授業の核心だと思いますが、学校再開後もグループ活動が難しいから一斉授業に戻ってしまうというのでは、形だけのアクティブ・ラーニングであったと言わざるをえません。
- (森下)
- 途上国で教育協力を行っていると、教師は「教える」ことで満足し、子どもが実際に「学ぶ」かどうかは子供の問題であって教師の責任ではないという意識を感じることがあります。こうした傾向は職業意識(プロフェッショナリズム)が十分に根付いていないことに起因するものと考えていましたが、日本でそのような課題が顕在化しつつある背景にはどのような要因があるのでしょうか。
- (石井)
- 「教えること」から「学び」への転換というのはキャンペーンとしてはよいのですが、実際には教師は教えることの責任を放棄していい訳ではなく、子供の学びを見守り、必要な時には介入する必要があります。教師の成長の根幹は「見えること」、つまり子供の学びや内面を理解し想像する力にあります。同じレントゲン写真を見ても医師によってキャッチするものが違うように、ベテラン教師と新人教師の違いは「見えている」ことの違いとして露になります。この視点はコロナ禍のオンライン授業でこそ重要で、画面の向こうの子どもたちの手元や心情などを想像して、「こころの温度」が上がるような応答的な支援が重要です。コロナ前夜の日本の学校現場で起こっていたのは、アクティブ・ラーニングや学び合いの名の下、めあて(学習目標)と課題を提示し、子供たちをグループ分けし、ストップウオッチで時間を測って話し合いや活動に取り組ませ、その結果を交流するという授業です。そこでは子どもは能動的に学んでいるようにみえるのですが、指示して子どもを動かすだけで、子どもの思考を受け止めて、整理や問いかけがなされないなら、学びの責任を子どもに丸投げしているのと同じで、深まりもありません。
地域における学校の社会的役割・機能
- (森下)
- 先生は先ほど、保護者の学校への信頼の低下についても指摘されました。JICAはアフリカ地域で「みんなの学校プロジェクト」を実施し、コミュニティと学校の協働による学校運営に取り組んでいます。地域住民・保護者と学校の信頼関係を基盤に、学校を取り巻く課題を解決していくこのアプローチは、日本におけるコミュニティと学校の関係にも通じるものがあると考えています。今、日本の学校では保護者の信頼が低下しているというお話がありましたが、なぜそのような状況に陥ってしまったのでしょうか。また、学校への信頼を取り戻すにはどのようにしたらよいとお考えでしょうか。
- (石井)
- 日本で学校制度が始まった頃、特に農村部では、親たちは農作業等の働き手となる子どもたちを学校に行かせることに抵抗感を抱いていました。学校は地域の慣行やつながりを取り込むなどして、その抵抗感を払拭し、地域や家庭の生活の中に学校を根付かせていきました。たとえば、それまで村社会が担ってきた社会化機能・イベント等を学校行事として組み込む形で、学校教育の中で特別活動的なものが発展してきたわけです。こうして、日本の学校は村社会的なものを含みこんだコミュニティ(支え合い、学び合いの場)として発展したという経緯があります。これは、日本の学校が学業などの知育だけでなく、まるごと一人の人間を育てる徳育に重きを置いてきたこととも密接に関係しています。また、一斉授業といっても、学級づくりの土台の上に、子どものつまずきに寄り添ったり、問答したり、子どもたちの多様な思考をつないだりしながら、全員で思考を練り上げていくというスタイルの「創造的な一斉授業」を追求してきたことが日本の授業の質の高さと言えます。
こうした授業の質の高さは、教師の質の高さによって支えられてきました。日本では戦後、教員免許の取得要件が師範学校卒(中等教育)から大卒へ引き上げられました。待遇も一般公務員よりも高く設定され、それが高度経済成長期の日本の教員の質の高さを支えてきました。しかし、高学歴化が進み、大卒の保護者が増えると学歴面で教師の優位性は下がり、保護者の学校への期待もサービスを求める消費者、つまりやってくれて当たり前というものに変容してきました。部活などの負荷の高い業務も学校がやって当然という意識が生まれ、どれだけ業務を担っても保護者から感謝もされないという状況が教師の仕事を難しくしています。
しかし、コロナ禍による休校は、多くの保護者にとってコミュニティとしての学校の機能を再認識させる機会となりました。子どもの学びをどう継続できるのかという共通した不安を抱えている今だからこそ、子どもたちを中心に一緒に取り組む連帯意識、コミュニティである学校を保護者もともに支えていくという当事者意識を育んでいくことができるかもしれません。例えば、教師は子供の学びをしっかりと支援したいから、コロナウィルスの感染防止のための教室の消毒などについては、学校運営協議会に助けてほしいと言ってもよいでしょう。消費者から当事者へ、学校にサービスを求める市場的視点から自分たちの学校をよくするという公共性の視点への転換が信頼回復の鍵と言えます。
- (森下)
- JICAも教員のプロフェッショナリズムに期待し、教員の質を改善することで教育課題を解決することを目指してきました。教育開発を行う上で、教員の質が重要な要因であることに疑いの余地はありませんが、一方で途上国では教師の社会的地位が低く、教師を続けること、同僚と学びあうことの動機づけが弱いのではないかと思うこともありました。日本でも昔は教師の給与も社会的地域もそれほど高くなかったのではないかと思いますが、なぜ教師の学びあいという文化が生まれたのでしょうか。
- (石井)
- 日本の教師文化には、大正期から実践記録を小説のようにナラティブに綴って読み合う文化がありました。綴ることで置かれている状況を意識化し、自由になる、教師としての自己を立ち上げるという、今でいう批判的リテラシーにもつながる、ボトムアップの教師による実践研究の文化や共同的な学びの機会が存在していました。また、最近は弱くなっていますが、上の世代の教師をななめの関係で憧れるという関係もありました。よいものを見て、憧れ、模倣する・真似る、技を盗むという、「まねび(学び)」の文化がありました。近年、他国でも注目されている日本の授業研究(lesson study)もまた、こうした日本の教師たちの職場での学び合いの文化の産物です。
- (森下)
- 現在、団塊の世代の教師が大量に退職する時代を迎え、世代交代が進む中、教師としての技術継承は体系的に行われているのでしょうか。
- (石井)
- ちょうど40代くらいの教師が現場に少なくなり、教師間で背中をみて学びあう機会は減ってきています。その分、教育委員会などが、特定のテーマに特化した研修を提供したり、マニュアル的な授業スタンダードを出したりしていますが、授業観や授業づくりの原理・原則的なものを伝えるものではありません。最近、私も『授業づくりの深め方』(ミネルヴァ書房)という本を出版しましたが、日本の授業づくりの技や知恵の分厚い蓄積を言葉にして残さないといけないという私なりの危機感の表れです。ベテランの教師の一斉授業とひとくくりにされるものの中には、表面的な学習形態にとらわれず、その教科の面白さを背中で語り、子どもたちとの問答で思考を深めていくような、高校であれば「学問の香りのする授業」を追求してきたものも含まれています。確かに、そうした授業は、すべての子どもたちにその価値を味わわせるものでは必ずしもなかったのに対して、学び合いなどの仕掛けを工夫することには、すべての子どもたちの学びを保障する意味があります。しかし、手法が先行しがちな中で、ベテランの授業の教材研究の深さや子どもたちとの問答の技などから引き継ぐべき部分を引き継ぐことも重要です。コロナの中で、テレワーク化が進むと、仕事は効率化されますが、教員の世界に限らず、職場で授業研究などを通してベテランの目線を学んだり、模倣したりする機会が失われがち、会合と会合の間のちょっとした雑談などを通して知恵を学び関係性をつくるような余白が削られがちで、そうした技や知恵の伝承機会の喪失には注意が必要です。
with/postコロナ時代の学校・教員の役割とは
- (森下)
- この対談の出発点として考えていたオンライン学習についても、少しお話を伺いたいと思います。冒頭で申し上げたとおり、オンライン学習は多様な学びを保障する観点から望ましい効果が期待される一方で、学習格差を招く懸念があるとも指摘されています。石井先生は、今後with/postコロナ時代のICTを活用した日本の授業のあり方はどうなっていくとお考えでしょうか。
- (石井)
- ICTの活用で留意すべきことの一つは「わかることの空洞化」だと思います。しばしば耳にする、知識の習得はAIで、対面では探究やプロジェクト学習で思考力を育てるという二分法の考え方は危ういと思います。AIドリルはあくまでドリルなので、計算問題などが解けることは支援できても、わかることを保障するものではありません。「わかる」というのは、知識をつなげたり、イメージしたり、解き方の意味を理解するということで、それなくしては、最終的に学んだ内容は残りませんし、生きて働くこともありません。そして、内容を伴わない形では思考力も育ちません。学ぶということは、わかっていたつもりのことがゆさぶられ、物事が違って見えてくることです。一つの問題や課題で立ち止まって、そこを掘り下げる経験が、その教科の本質的な価値を味わい、理解を深めることになるでしょうし、オンライン学習を生かして予習で学習内容のアウトラインを把握し、復習で定着させるとすれば、授業の目標は、自分で教科書を読みこなして学んでいけるために、あるいは、生活の中でいろんな物事に引っかかりを感じるようにするために、「わかる」ことを保障することであり、まさにここにこそ教師という人間が関わる意味があります。特に、学力的に厳しい状況にある子どもの多くは、意味理解でつまづきを抱えており、AIドリルで救うことは難しいでしょう。
また、ICTには「スマート化」と「フラット化」の二つの側面があります。「スマート化」はアマゾンのように、過去の顧客の購入履歴から最適な商品(教材)を迅速に提案(提供)するようなものですが、それでは子供は自分で考えなくなり、学びが深まりませんし、視野の狭さを生み出します。一方で「フラット化」は学びや出会いの機会の拡大を意味します。コロナ禍で地域学習、海外研修等ができない状況下であっても、ICTを用いることで簡単につながることができます。その気になれば、地域や大学の最前線の活動や研究にアクセスし、ホンモノとつながりながら、参加的に学んでいくこともできます(真正の学び(authentic learning))。これはある意味学びのチャンスです。タブレットなどの機材を教師が占有するのではなく、子どもに委ねることで子どもが自ら考え、ICTをツールとして自ら学校の外の世界とつながる機会を生み出していくことができます。
- (森下)
- ICTの活用が進む中、教員の役割は今後どのように変化していくとお考えですか。
- (石井)
- 学びの身体性、たとえば、指導者や憧れの存在やともに学ぶ他者の目線の先にあるもの、手元の動きを見ることは教育上とても大切です。基本的には顔だけしか見えないオンライン学習では、どうしても限界があります。オンラインは機能的であり、会議での活用などにおいては利便性がある一方で、冗長性、間、無駄、余白が必要となる、人を育てる営みとは矛盾する部分があるとも考えられます。他方で生身のやりとりで感じうるノイズ(雑音)やしがらみ(空気を読みすぎたりすること)をオンラインはカットする一面もあることから、結果として生身よりも程よい距離感で人とつながることができるメリットを感じる子どももいます。このようなプラスとマイナスの両面を理解した上で、ICTを使いこなすことが求められます。
冒頭で述べた「見える」は視覚ではなく、触覚です。子どもの表情、しぐさ、トーン、雰囲気など些細なものをキャッチできることが教師の力量です。オンライン学習は情報伝達の時間を短縮し、効率化を可能にします。しかし、学びをドリル化し、早く解いて進めるという効率性だけに目が向けられると、それが目的化されます。しかし、学びは身体的なもの、直観的なものという側面もあって、学んだことが世の中を見る眼鏡として生かせることを具体物を通じてわかるということが、子どもと世界との関わり方を変え、子どもにとっての伸びしろを準備します。効率性を重視する観点からオンライン学習を導入することには罠があり、効率化が内容の質を劣後させる可能性があり、本当に育てたいものが似て非なるものとなってしまう危険性があることに留意が必要です。
- (森下)
- コロナ禍によって、個の学びを重視した、新しい教育の在り方が模索されています。途上国でもICTを活用したオンライン学習の導入が不可避となりつつありますが、今回の対談を通じて、日本の経験など専門的見地からお話を伺う中で、オンライン学習は単なる新技術の導入ではなく、教員の質や教員文化、学校文化など既存の教育システムの大変革を迫るものであることを改めて認識しました。途上国の教育協力を担うJICAは、この大変革をサポートする大きな責任を有しており、見失ってはならない目標(子どもの学びの改善)をもってこの課題に向き合っていく必要があると気持ちを新たにしました。石井先生、本日はありがとうございました。
オンライン対談(左:京都大学石井准教授、右:人間開発部次長 森下)