ベトナム戦争、大虐殺、軍の圧政から立ち直った国々

ASEAN諸国にとって、日本はどんな存在なのでしょうか。

外務省のアンケート調査によると、ASEANの人たちの96%が「日本との友好関係が大切」だと答えています。さらに世界で最も信頼できる国は?という問いに対しては、33%が「日本」と答えています。2位のアメリカ合衆国が16%ですから、ダブルスコアの差をつけて、日本はASEAN諸国から最も頼りにされ、好かれている先進国だといえそうです。

ASEAN諸国が最初から「親日」だったわけではありません。

第2次世界大戦中、日本は東南アジア諸国を次々と侵略していきました。その後、連合国との激烈な戦闘が行われ、何の関係もない現地の人々が巻き込まれ、多くの人が命を落としました。

戦後、日本は贖罪(しょくざい)の意味も込めて、東南アジアを含むアジア諸国に対して戦後賠償やODAを活用した国際協力を続けてきました。空港をつくったり、道路を整備したり、学校や病院を建設したり。戦後、日本の国際協力でASEAN各国のインフラは確かに整備されました。

それでも当時は、ASEAN諸国の目は冷たいものでした。

1974年、田中角栄首相がインドネシアとタイを歴訪したとき、両国では激烈な反日デモが繰り広げられました。かつては軍隊で侵略し、今度はカネで侵略しようとしているのではないか、と疑念を持たれたのです。

それだけではありません。

ASEAN各国は、第2次世界大戦後からつい最近まで、世界で最も激烈な戦争と内戦の当事国だったのです。

ベトナムが見舞われたベトナム戦争については多くを説明する必要はないでしょう。南ベトナム解放民族戦線や北ベトナムと戦っていたアメリカの前線基地として、日本も半ばベトナム戦争の当事国でした。100万人を超える国民が戦争で亡くなり、枯れ葉剤などの影響で多くの障害者が生まれます。1975年の戦争終結から、市場開放して経済発展を始める2000年代初頭まで、25年の歳月がかかりました。

カンボジアのポル・ポト政権による自国民虐殺の記憶も新しいですね。1970年代後半に300万人の国民のうち少なくとも100万人が殺され、しかも学者や教師、企業家などの指導者層が集中的に虐殺されたため、カンボジアは国をリードする人材が一切いなくなったところから再出発しなければなりませんでした。

ミャンマーはアウン・サン将軍が暗殺された後、軍事独裁政権が1958年から始まり、アウン・サン将軍の娘で、民主主義勢力の指導者的立場にあったアウン・サン・スー・チーさんは1989年からおよそ20年にわたり断続的に自宅幽閉されました。スー・チーさんが解放され、市場が海外に開かれたのはほんの数年前の2011年ごろからです。ちなみに2015年11月、スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)が総選挙で圧勝し、さらなる民主化の波が訪れているのは、ご存じの通りです。

タイは、今回訪れた4カ国にラオスを加えたインドシナ半島5カ国で最初に経済発展を遂げました。首都バンコクに関してはすっかり先進国の仲間入りした感があります。ですが、絶対王政に対する1932年の立憲革命から現在に至るまで、何度となく政治的混乱と軍事クーデターが起き、その都度、国内で死傷者が出ています。これまでは、カリスマ的な存在感を持ち国民に圧倒的に愛されているプミポン国王が、水戸黄門のようにすべてを丸く収めてきたタイですが、いつまでもその体制が続くわけではありません。

インドシナ半島での戦争や内戦で、数多くの日本人が汗と血を流してきました。

ベトナム戦争の報道には、作家開高健さんをはじめ多くのジャーナリストが関わりましたが、ベトナムの戦地から歴史に残る報道写真を送り続けた沢田教一さんは、1970年クメール・ルージュが台頭する隣国のカンボジアで凶弾に倒れました。

ポル・ポト政権下で大量虐殺が行われたカンボジアは、90年代に国連監視下で民主化の動きが進みました。このときの選挙を監視した国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長特別代表は日本人の明石康さん。明石さんが率いるUNTACはさまざまな困難を乗り越え、カンボジア社会の復興をリードしましたが、国連ボランティアとして選挙の監視にあたった中田厚仁さんは1993年、現地で何者かに襲われ、命を落としました。岡山県警から派遣されていた高田晴行警部補(事件後、警視に二階級特進)も殺害されました。

軍事政権下で圧政の続いていたミャンマーでは、民主化の動きに対して軍が制圧をかけていました。2007年、ジャーナリストの長井健司さんは、僧侶や市民による反政府デモを取材中、至近距離から軍の兵士のライフル銃で撃たれて死亡しました。カメラを手にしていた長井さんが軍に撃たれたのは、どう考えても故意だったろうといわれています。

インドシナ半島の国々が政治的混乱を抜け出て、経済発展の道筋を見つけるまでには、実に長い時間がかかっているのです。