カンボジア編 「大虐殺」から30数年、一番新しいASEAN加盟国が目覚めるとき

2015年10月5日午前10時。

私は、ベトナムから南部経済回廊を自動車でひた走り、陸路でカンボジアに入国しようとしていました。朝の7時30分にホーチミンを出てから、2時間あまり。約80キロ離れた国境の町モクバイにたどり着きました。

片側2車線の1車線で、大型トレーラーが列をなしています。そのはるか向こうに見えるのが、カンボジアとベトナムの国境を隔てる出入国審査と輸出入通関手続きを行う国境ゲートの建物です。長い行列をなしているトレーラーが運ぶのは、ベトナム・ホーチミンの港で陸揚げされた、日本をはじめ世界各国からカンボジアへと運ばれるさまざまな貨物です。

カンボジアからも、たくさんのトレーラーが、ホーチミンに向けて走っていきます。カンボジア内に進出した外国企業の工場でつくられた製品や部品が、ベトナム国内での製品製造に使われたり、そのままホーチミンの港から海外へと輸出されたりするわけですね。

列をなすトレーラーは、カンボジアの経済がいま急速に発展しようとしている証拠です。このトレーラーの列を見ながら、私は感慨を覚えました。「よくぞ、あのカンボジアが」と。

カンボジアが、ASEANに加盟したのは1999年。いちばん新しいASEAN加盟国です。ちなみに今回の取材対象4カ国のうち、1967年のASEAN発足時に最初から加盟していたのはタイだけ。ベトナムが加盟したのは95年、ミャンマーが加盟したのは97年と、バラバラで、しかもわりと最近のことです。

なぜでしょう? インドシナ半島が、第2次世界大戦後から20世紀末まで、戦争や内戦、クーデターにずっと悩まされていた地域だったからです。

中でも、カンボジアは、第2次世界大戦後の世界において、もっとも悲惨な経験をした国でした。皆さんもご存じでしょう。1970年代後半、ポル・ポト政権による自国民の大虐殺があったのです。

当時600万人の人口のうち、100万人とも300万人ともいわれるカンボジアの人々が殺されたとされています。しかも、学者や教師などの知識人が軒並み殺され、学校なども破壊されたために、カンボジアにはまともな教育システムがなくなってしまいました。

その後も内戦続きだったカンボジアが和平に向けて動き始めたのは80年代終わり。ポル・ポト派軍と戦っていたベトナム軍が89年に撤退し、日本はカンボジアの復興において、主役的な立場になります。

1990年6月に日本でカンボジア和平東京会議が開かれ、対立し合っていた国内各派閥が91年のパリ和平会議で最終合意文書に調印。92年には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がスタートしました。事務総長特別代表を明石康さんが務めたのは記憶に新しいところです。また自衛隊が派遣され、道路や施設の補修作業などに従事しました。その一方で、93年、国連ボランティアとして選挙の監視にあたった中田厚仁さんと岡山県警から派遣された警察官の高田晴行さんが現地で何者かに襲われ命を落とす悲劇がありました。

1999年にASEANに加盟。それから16年がたちます。

内戦を続けた結果、ハードとソフトあらゆるインフラを、自らの手でなくしてしまったカンボジアがどんな復活を遂げているのか。これからどう成長しようとしているのか。日本の国際協力はどんな手を差し伸べているのか。

ベトナムとの国境を越え、この目で確かめてみましょう。