カンボジアの「戦い!」 キリングフィールド編 キリングフィールドで見た、ポル・ポト派の残虐

首都プノンペンの中心街から南下する道を走ると、だんだん路面が悪くなっていきます。

穴ぼこが開いていたり、大きな水たまりがあったり。でこぼこ道をけっこうなスピードで走るので、私はずいぶん頭を車の天井で打ちました。

赤茶けた道を左折して、まばらに林が残る施設の前に着きました。

キリングフィールドに到着です。

なぜこの地がキリングフィールド、虐殺の地と呼ばれるのか? そもそもカンボジアで何があったのか?

現在のキリングフィールドは、一見のんびりした観光地です。欧米人、中国人、韓国人、そして日本人。

多種多様な国からやって来た人々が、音声ガイドを耳にあてながら、虐殺された人々の頭蓋骨を納めた慰霊塔や、その幹に赤ちゃんを打ち付けて殺したキリングツリーなど「虐殺の現場」を訪ね歩いています。

自国民を大虐殺したポル・ポトとは何者でしょう?

彼自身は、カンボジアのとある地方の豪農の生まれで、かつての王室の血筋も引く「お坊ちゃん」でした。1949年、パリに留学した若きポル・ポトはかの地で共産主義に出会い、魅了されます。帰国後の彼は、クメールルージュ(カンボジア共産党)を率い、中国の毛沢東の理論に感化されていきました。

一方、フランスから独立してシアヌーク国王の統治下にあったカンボジアは、隣国のベトナムがアメリカと戦争を始めたことに翻弄されます。東西冷戦下のカンボジアは、どちらの陣営にも属していませんでした。

ベトナム戦争中も、どちらの陣営にも肩入れしないようにしていましたが、北ベトナム軍がカンボジア領内を通って南ベトナムに入っていくのを黙認していました。大国ベトナムに逆らうわけにいかなかったからです。

自分たちの言うことを聞かないカンボジアにしびれを切らしたのがアメリカです。アメリカは、シアヌークがモスクワを訪問している間に、ロン・ノル将軍を擁立し、軍事政権をカンボジアにつくってしまいます。故郷に帰れないシアヌークが頼りにしたのが、ポル・ポト率いるクメールルージュでした。

1973年、アメリカはベトナム撤退を宣言し、同時に事実上カンボジアへの内戦干渉も止まりました。やがてロン・ノル軍事政権は崩壊し、1975年、ポル・ポトがクメールルージュを率いてプノンペンに乗り込みます。 

このとき誰もがカンボジアの民主化を夢見ました。

でも、実際に行われたのは、ナチスやスターリンの大虐殺をも超えるともいわれる20世紀最悪の自国民大虐殺だったのです。

毛沢東に感化され、極端な共産主義を信奉する一方、常に疑心暗鬼のポル・ポトは自分のシンパである農村部の人間を除くあらゆる都市住民、とりわけ教師や専門家といった知識層を徹底的に殺しました。メガネをかけているだけで殺したのです。復讐を恐れ、老若男女から赤子に至るまで殺しました。

人間を殺しただけではありません。宗教を禁じ、寺院を破壊し、教育を否定したので学校も潰し、病院も閉じ、共産主義の敵ということで貨幣もなくしました。

実はこれ、中国でかつて毛沢東が行った「大躍進」と「文化大革命」ととても似ています。毛沢東は直接の虐殺は行わなかったものの、「大躍進」時代の非科学的な農業の導入で数千万人を餓死させ、インテリを田舎に追いやる下方政策のせいで欧米に大きく差をつけられました。

ポル・ポトは毛沢東の二番煎じの策をとったわけです。

もちろん、こんな状態が長く続くはずはありません。1979年にはポル・ポト軍の幹部だったヘン・サムリンがベトナムに助けを求め、ベトナム軍がカンボジアに侵攻してポル・ポトを追い出し、新政権がスタートしました。そして次第にポル・ポトの大虐殺の真実が海外に漏れ伝わり、日本でも報道されるようになったのです。

キリングフィールドには、ポル・ポト派によって虐殺された人々の頭蓋骨が展示されています。ぎっしりと並べられたその多くは陥没しています。撲殺されたのです。

カンボジアの人たちは非常におだやかで、のんびりしています。およそ戦闘的な国民とは思えません。そんなカンボジアの人たちが、お互いに殺し合った。誤った政治は、いとも簡単に人々を凶暴にさせる。しかも、その政治の目的は一見高邁(こうまい)だったりする。

ポル・ポトによる虐殺を目の前に、人間の本性についてつくづく考えさせられます。