24 NOV 2000
JICA客員国際協力専門員 杉下恒夫
11月9日に開かれた与党三党の政策責任者会議で、自民党の亀井政調会長が来年度ODA予算を今年度比30%削減することを提案、三党はODAのあり方を見直し、予算削減の方向で一致した。どちらを向いて話しているのか、時々、わからなくなる亀井さんの政治的発言とはいえ、新聞でいきなり「ODA予算三割削減」という見出しをみたときは、びっくりした。河野外相は翌10日、「国際社会は日本のODAに大変期待しており、ODAの重要性は増しこそすれ、減ることはない」と反論、14日の自民党外交関係合同会議も「混乱を避けるためにも、来年度のODA予算概算要求は変更しない」という方針を決めるなど、ODA支援派は対策に必死の様子だ。
幸い、このニュースに対するマスコミの反応は亀井発言に概ね懐疑的だ。たとえば、12日付けの朝日社説は「いくら亀井さんでも」という見出しで、「荒れ球得意の亀井氏とはいえ、あまりに暴投だ。同氏は派手な行動で周囲を驚かせてきた。今度は、予算折衝での『政治主導』を誇示するのが狙いだろうか。ODAの果たしている役割について論議が不十分なまま、『削りやすそうだ』とやり玉に挙げるのは安直にすぎよう。ODAの受益者は外国の人だ。だから削減しても参院選で票が減る心配はない、といった計算があるとすれば、さもしい発想といわざるを得ない。ODAは日本の大事な外交手段であることも忘れてはなるまい」(筆者要約)と亀井提案に首を傾げていた。
私も亀井提案には賛成できない一人だが、なぜ、あのような提案が行われたのかを今、考えている。私の個人的見解ではあるが、一つは国際派といわれる議員には個性の強い族議員が少なく、ODA予算削減に手をつけても党内であまり大きな波風が立たない分野だということだ。その無難(?)な分野に大ナタを振るうことで、政府の財政改革の姿勢を内外に示すという計算があるのだろう。だが、今年度当初のODA一般会計予算は1兆円強で、予算全体の約0.12%にしかあたらない。ODA予算を30%カットしたところで、約3千億円の歳出カットにしかならず、本気で財政改革に取り組む気なら、もっとほかに考えるべき大口分野はいくらでもあるのではないかとも思ってしまう。
二つ目は、新聞論調にもみられるように、ODAは外国のことだからカットしても直接、政府・与党に不利な反応がないという計算だ。また、政治家がODA予算削減を言い出しやすいもう一つの理由として、日本が9年連続世界一のODA供与国の座を保ち続けていることと、国内経済の長期停滞がある。国民のなかには「援助はもう十分にやった。海外援助よりも国内の景気浮揚を」と言う人も多い。だから、政治家もほかの予算に比べ、ODA予算を削減しても国民の反発は少ないと読んでいる。
だが、もし、来年度から30%という巨額のODA予算をカットすれば、日本国民が将来、計り知れない損害を受けるということはあまり話題にされていない。援助額が減れば、当然ながら日本がこれまで長期にわたって世界各国に培ってきた信頼と友好関係は大きく減退する。そのマイナス面は今すぐには生活に影響してこないかもしれないが、将来、必ず自分たちに降りかかる負の問題として残る。それをもっと多くの国民に自覚してほしい。
今回のODA予算が財政改革のやり玉にされる政治的、社会的状況は、3年前に政府がODA予算の削減を打ち出したときと似たようにみえるが、今度は、もっと深い背景があるように思える。政府の財政構造改革という大きな流れのなかの政策として実施された3年前のODA予算削減に対し、すでに“聖域”ではなくなり、減額されたODA予算を実力者といわれる政治家がさらに削減を提案するのは、財政問題だけではなく、現在の日本のODA政策の基本的なあり方に内外から疑問が投げられているからではないだろうか。
今回の亀井提案に対し、マスコミの論調が削減回避に有利とはいえ、与党のODA予算カットの動きが止まっているわけではない。自民党外交関係合同会議も来年度予算はともかく、2002年度のODA予算編成では見直しを行うことを確認したし、15日に行われた衛藤・自民党対外経済協力特別委員長と亀井政調会長との会談では、亀井会長が再度、来年度ODA予算の削減を表明、党内に作業部会を設置する方針を示し、改めて協議することになっている。
世界には人間らしく生きるために日本の援助を必要としている人たちが数多くいる。日本がODA予算を大幅に削減すれば、失意の声と、再考を望むアピールが開発途上国を中心に世界中からわき上がってくるだろう。そうした世界の人たちの期待を裏切らないため、日本は、今後もいっそう充実したODAを実施してゆく国際的責務がある。われわれも亀井提案を「暴投」と一蹴せず、発想を転換して、なぜODA予算がそう何度も削減の対象にされるのか、日本のODAにわれわれが気づかない何らかの問題があるのではないのか、と考えてみるのもODAの質の向上の一助になるかもしれない。