30 JAN. 2001
JICA客員国際協力専門員 杉下恒夫
1月20、21の両日、実施された大学入試センター試験に監督委員として駆り出された。新聞記者時代、あまり教育問題を取材したことはないので、センター試験の会場に足を踏み入れるのは初めての経験だった。
大学受験センターの調べによると、今年のセンター試験には全国で約59万人の受験者が登録して、実際には約53万人が受験したという。私の勤める大学キャンパスでも高校生や、いわゆる浪人生など計6千人以上が受験した。監督委員は試験開始時間の2時間近く前に会場に到着して、いろいろな準備を整えなければならない。本来なら休日となるはずの週末、しかも寒い朝、大学まで足を運ぶのは私にとって正直、あまり気のすすまない出勤だった。
オーバーの襟を立てながら大学の校門に近づくと、まだ試験開始の2時間も前だというのに周辺は人と熱気にあふれている。遅刻を避けるため、バスや親の運転する車で早めにやってきた受験者が続々と校門に向かって歩いているのだ。道の両側にはノボリが立ちならび、歩道に陣どった高校や予備校の先生たちが自分の教え子たちに大声で励ましの言葉をおくっている。何十年も前から同じように続いている受験風景なのかもしれないが、初めて目にした私には新鮮に映る。仕事だから当たり前といえばそれまでだが、厳しい寒さのなか、早朝から立ち続けて生徒を待っている先生たちの姿にまず、感動してしまった。
試験開始の30分前に問題用紙を抱えて同僚の監督委員と試験場に入る。試験場にいるのは、渋谷や原宿を闊歩しているガングロ茶髪、耳には3つも4つもピアスをつけた若者とはまったく別の服装をした10代の若者たちだ。みな少し上気した真剣な表情でいすに座っている。ある者は最後までノートや教科書から目を離さない。また、ある者は天井の一点を見つめて精神統一をはかっている。40年も前にわれわれが経験した受験会場と同じ風景がそこにあったのだ。
姿形だけで人を判断する気はないから、ガングロ茶髪・ピアス族を特段、敵視する気はないが、最近、マスコミをにぎわす10代の少年といえば、自己中心的な犯罪を続発する少年が多く、ろくな印象はない。そうしたことから、私も無意識のうちに10代の少年たちをある種の色眼鏡で見る習性がついている。そんな私にとって目の前にいる少年たちは別の世界の人間に思え、まぶしくさえ見えた。
試験が始まり、答案用紙に必死に書きこむ彼らの姿を見ていると、「マスコミは一部の若者たちの言動のみを報道しているのに過ぎず、今でも日本の多くの若者は、目の前にいる少年たちのように真摯な気持ちの持ち主なのではないか-」という思いがわいてきた。そうなると悲観論渦巻く日本の将来像にも光が射してくる気がする。
「甘い。彼らはしたたかで、試験会場の姿だけで本当の気持ちがわかるわけがない」「今の子どもは偏差値には敏感だから、試験だけはまじめに受ける」などとわかったようなことを言う大人もたぶんいるだろう。だが、試験会場の少年たちのたたずまいは、マスコミで報じられる現代少年像とはまったく違う。自分に与えられた試練に真剣に対処する未成熟な人間の姿だ。
試験に取り組む少年たちの姿を直に見るという機会は誰にもあるものではないが、おきまりの若者論をしたり顔で語る多くの評論家や、私のように最近の若者に対していくらかの偏見を持つ大人たちは、試験会場に来て、現場の雰囲気に触れてみるといい。まだ、日本にはこうしたまじめな少年たちが大勢いることを知れば、社会の少年への対応も違うものになってくるはずだ。
試験終了のベルが鳴って答案用紙を回収する際、受験者一人一人が好成績をあげたことを祈りながら、同時に「希望通りの学校に入れなくたってかまわない。人生は18や19のときの試験結果だけで決まるものではなく、これからもいろんなチャンスがある」と心のなかで語りかけた。
今回は、センター試験の話にスペースを割きすぎて、経済協力の話がないと思われるかもしれないが、最後に一つだけ書いておきたいことがある。それは、センター試験最後の科目「公民」の問題中で、環境に関する出題はいくつかあったのに、政府開発援助(ODA)のことはたった一つ、正誤問題の例のなかに出ていたということだ。試験に出ないということは、平素の学校の授業であまり取り上げられていない課題であるということにもなる。高校の授業では、なぜもっと国際協力のことを取り上げないのだろうか。あの、試験会場にいたまじめな少年たちが経済協力の必要性を正しく理解して、推進者になってくれれば、日本の ODAの将来も明るいものになると思うのだが…。