異文化理解の難しさ

7 MAR. 2001
JICA客員国際協力専門員 杉下恒夫

2月20日の新聞にインドネシアで起きた「味の素インドネシア」の豚酵素事件について、インドネシアのイスラム総本山、ウラマ協会が、味の素が新商品に豚の成分に代えて大豆成分を使用することにした改善点を評価して、2月19日にイスラム教徒が戒律上、口にしても問題がない「ハラル」の認証マークを与えたという記事が掲載されていた。あとは幹部の法的責任を追及する問題が残ってはいるものの、これによって年明け早々から続いていた豚酵素事件の騒ぎはやっと収まりそうだ。

結局、日本人3人を含む同社幹部ら8人が逮捕されるまでに至ったこの事件の記事について、私は発生当初から日本の経済協力とダブらせながら読んでいた。というのも、これはまぎれもなく味の素という民間企業に降りかかったトラブルではあるが、JICAなどが行う経済協力の世界でもかなりの確率で起こり得る出来事だからだ。

それぞれの国にはそれぞれ伝統的に守られ続けてきた習慣や価値観があり、異文化理解は、国際協力に携わる人間がやらなければならない最初の課題であることは、いまや誰もが承知している。こうした各地方の伝統的風習に宗教の戒律がからめば、異文化理解はいっそう困難なものとなり、失敗は許されない。イスラム教徒が豚を忌み嫌い、「ハラム」として食べないことは、異文化理解の第一歩の事例としてほとんどの日本人が知っており、当然、味の素インドネシアの関係者も十分に承知していただろう。だが、豚から抽出した酵素までが「ハラム」の対象になると知っていた人はそれほど多くはなかったのではないだろうか。一時は政権まで脅かしたワヒド大統領の「(味の素は)口にしても問題はない」という発言を聞いても、イスラム教徒のなかでもその見解は分かれるのかもしれない。

経済協力の現場で犯す危険性がある異文化摩擦問題には2つのケースがあると思う。味の素豚酵素事件は別にして、イスラム教やキリスト教の戒律のように国際社会に広く知られるものは、慎重に対応することで、かなりの部分で問題の発生を防ぐことができるだろう。だが、一部の地域に住む、あまり外の世界と接触がない少数民族の習慣や少数派宗教の信徒のごく細かい習慣、価値観となると、すべてまちがいなく対応するのは至難のわざといえる。しかし、現在、日本のODAは世界の隅々にまで広がっており、当然、多くの民族、多くの文化に接しなければならず、それぞれに適した対応が迫られる。たとえ、相手が少数民族で知られざる文化の持ち主だからといってずさんな対応をすれば、せっかくの経済援助もかえって反感を買う材料になってしまう。

こうしたあまり知られていない文化に対する異文化摩擦より、もっとやっかいなのはうっかりミスはないだろうか。私もこれまでに何度かこうしたうっかりミスを犯した経験がある。そのひとつは4年ほど前、タイの新聞記者と東京で開かれたシンポジウムの合間に会場近くの中華料理店で昼食をともにしたときだった。

後に失敗の原因を考えるとまず、仏教国である日本人の私にとってタイも同じ仏教国であるという意識が強すぎたのが悪かった。90年代半ば、ハジャイなど南部タイで、タイからの分離独立を目指すテロ事件がいくつか発生し、それらは日本のメディアでも報道されており、タイにもイスラム教徒が多いということは私も知識として知っていた。だが、目の前にいる温厚な顔をしたタイのジャーナリストの顔からはアラブ人に代表されるイスラムのイメージがどうしても浮かばず、私は勝手に彼は仏教徒であると信じ込んでいたのだ。

彼がイスラム教徒であることを知ったのは、私の薦めで注文した焼きそばがテーブルに運ばれてきたときだ。それまで温厚だった彼の顔は一変した。「豚肉が入っている」とひとこと言うと、黙ってその皿を机のはじに押しやった。みなさんも想像がつくと思うが、サラリーマンが昼食に食べる焼きそばにはそんなにたくさんの肉など入っていない。机上の焼きそばに目をやると、豚肉と思われる小さな肉片が麺と野菜の間から顔を出している。敬虔なイスラム教徒には小さな肉片でも豚肉がすぐに判別できたらしい。その日、夕方近くまでかかったシンポジウム会場で空腹を我慢して懸命に傍聴していた彼の顔を思い出すたびに申し訳ないことをしたと反省している。

これは日本人の日常的メニューである焼きそばとイスラムの戒律が頭のなかでまったく遊離して存在していたため、起きた失敗だった。異文化の存在は、それがわれわれの日常生活に近くなればなるほど意識が薄れ、失敗に繋がる恐れがある。さいわい、私の場合は友情を壊すほどの失敗にはならなかったが、場合によっては根の深い問題になってしまうケースもあるかもしれない。

味の素豚酵素事件の顛末を追うたびに異文化を持つ国の人と接するとき、特に経済協力においては、あらゆる場面、あらゆる時に文化、習慣の相違を頭のなかに入れておかなければならないと、つくづく思う。ODAの第一線に立つ人たちには味の素事件を対岸の火事とせず、わが身にも降りかかる問題として考えてもらいたい。