ODAと一般競争入札の危険

vol.146 11 July 2006
JICA客員国際協力専門員 杉下恒夫

エレベーターに乗るとどこのメーカー製のものか、車内に目を見やるのが癖になった人が増えているようだ。かく言う私もそうした一人だ。幸いなことにトラブルが続いたシンドラー社製のエレベーターには、まだ乗り合わせたことがないが、もし、シンドラー社のものだったら多少の不安をもって行く階のボタンを押すことだろう。

日本で事故が続いたからといって、世界中で使われているシンドラー社製のエレベーター本体に基本的な設計ミスがあるとは思えないが、施工方法、その後のメンテナンス等に問題があったから元気な若者の命が奪われるという悲劇が起きたことは間違いない。その伏線にあるのは、今回のシンドラー・エレベーター事故の周辺で散見された価格が全てに優先される近年の入札方式ではないか。

談合の温床になりやすい随意契約は、いまや官民癒着の代名詞のように言われる。たしかに血税を使って行われる公共事業等を安く仕上げるという考えに反対をする人はいない。だが、価格と質の問題は、一面で金と命の重さの比較でもあり、公正な一般競争入札の中で安全性・質をどこまで担保出来るのか、極めて難しい課題が浮かび上がってくる。

前回の本コラムでも別の視点から触れたが、インド洋津波で日本のODAを活用する復興支援事業にからみ、インドネシア公共事業省が技術力に不安がある現地事業に有利になる応札基準に疑問を持ち、入札をやり直したことが日本の新聞に報じられていた。被災した現地企業に少しでも仕事を与え、地元民の雇用機会も増やしたいという日本側の配慮が逆に災いした形だが、未曾有の被害に遭った現地の行政担当者が「今度こそどんな自然災害にも耐える上質のインフラを」と願う気持もよくわかる。

談合は公共事業においてあってはならぬことで、公正な一般競争入札の実施が望ましいが、価格を重視するあまり、命を軽視するような工事が行われては元も子もない。ましてODA事業には援助を行う国に対して日本の技術力の証明というもうひとつの課題が付く。以前、取材で訪れたボリビアで、大雨に見舞われ川に架けられた大半の橋の橋脚が傾いたのに、日本の無償資金協力で建設された橋だけがびくともしなかったと、日本の技術力を賞賛する声を地元の人たちから聞いたことがある。

日本の会社が受注してODAで行われた橋の工事は当然、地元業者が行った工事より多くのコストがかかっていたと思う。しかし、大雨が降るたび、同じものを作り直すことは、かえって無駄な出費になるし、住民の利便、安全を考えると多少コスト増であっても、しっかりしたものを作ったほうが、はるかに喜ばれるだろう。

最近、学校建設などの問題で無償資金協力のコスト高が話題になることが多い。しかし、コストを下げれば錬金術でも身に着けない限り、事業は投入された資金に見合った成果しか出てこないのが当たり前だ。個人の努力で資金不足を克服せよなどというのは、戦中の竹やり突撃にも等しい精神主義だ。粗悪でも建設費が安い学校を建てるのか、コストはかかっても安全で勉強にも集中できる快適な学校を作るのか、ODA事業の場合はそのプロジェクトが持つ目的を明快にしないと、中途半端な事業が展開される恐れもある。

茨城県土浦市が近く条件付一般競争入札の一部を指名競争入札に戻すという。地場産業育成のためにと思って実施した一般競争入札だったが、思うように入札の参加業者が増えず、請負業者を見付けにくいうえ、落札率も下がらないからだという。

一般競争入札か、随意契約か、二者択一のステレオ・タイプの判断をするより、時と場合に応じて入札方式を使い分けることが望ましい。特にODA事業は複眼的視点が必要な事業だけに、ケース・バイ・ケースで柔軟に対応することが肝要だ。