注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
vol.231 27 April 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫
「永遠の正論」という言葉は、過去にもいろいろな論争の場で使われてきた。机上では完璧な主張ではあるが、現実とは遊離した理想論であり、実現することのない空論だ。これまで「永遠の正論」は、どちらかと言うと進歩派とされる人たちの、高みの見物的な主張に多く見られ、旧社会党などが主張した非武装中立などという国家像はその典型とも言えるだろう。
ところが最近の日本社会を見ていると、この「永遠の正論」が幅を利かせているように見えてならない。理想的な正論であるから、公の場で論争になった場合、一時的ではあるが「永遠の正論」を掲げるグループの方があらゆる局面で有利だ。
先の総選挙で、民主党が掲げた米軍再編、在日米軍基地の見直し、子ども手当て、公立高校の実質無償化、年金受給者の税負担軽減、高速道路の原則無償化、戸別所得補償制度による農山漁村の再生など盛りだくさんのマニフェストは、いずれも多くの国民が望む政策だ。
だが、国際政治、国家財政という現実を前にして、この理想の政策の甘い面が各所に露呈してきた。最近の政府の悪戦苦闘ぶりを見て、国民も世の中には理想通りにならないことが、山ほどあることを痛感しただろう。少なくとも現段階では、民主党のマニフェストも「永遠の正論」だ。業務が多岐に入込む行政組織に1円の無駄も許さぬ構えの事業仕分けの発想も「永遠の正論」に近い。行政機関などの瑕疵を言い立てるマスコミも「永遠の正論」論者と言えるだろう。このように現在の日本社会は「永遠の正論」の全盛期なのだ。
開発援助の世界においても、しばしば「永遠の正論」が幅を利かせる。
地球に住む全ての人が飢えから解放され、すべての住民が平等な権利を有する社会のもと、平和で健康的な生活を営み、必要な教育も受けられるという環境づくりは、誰もが抱き続けてきた夢だ。過去の歴史の中で宗教、イデオロギーなどによって、こうした理想を現実化しよういう試みは何度も行なわれた。だが、いずれも失敗に終わり、夢を完全に実現させた国家は未だにない。敗戦という全てがゼロの社会から脅威の経済成長を遂げた70年代後半から80年代前半の日本社会が理想に一番近づいた国だったのかもしれない。
援助の世界に「永遠の正論」を持ち込んできたのは主に欧米諸国だ。援助先進国でもあったこれらの国々は、まだ国家の形態も定かでない60年代、70年代のアフリカやアジアの途上国に、理想の民主主義、社会主義、市場経済などを押し付けた。熱帯性気候の国の国民に、ロンドンやモスクワと同じように厚手のスーツを着せれば、暑くて疲労してしまうのは自明だ。
最近はやっとその過ちに気付いて現地事情を考慮した包括的な開発政策が実施されるようになっているが、こうした教条的な理想主義は、今も時おり開発援助の世界に見え隠れする。
ODAを見る国民の目にも、「永遠の正論」の視点が感じられる。自分たちの血税を使うODAなのだから、事業の執行にあたって一銭の無駄も許さない。実施したプロジェクトはすべてが相手国の国民の役に立ち、喜ばれていなければならない。実施したODAは日本人にも受益しなければならない、など多くの注文が寄せられる。どの注文もその通りであり、だれも反論できない正論だ。
さらに開発協力には人道的側面があるため、国内の公共事業などに比べて一段と美しい結果を求める人も多い。だが、行政組織も、人材も十分でない遠く離れた途上国で、つねに完璧なODAの実施を求めても、それは不可能に近いのだ。ひとたび上手く機能していない部分が露呈すると、「永遠の正論」が激しく振り回され、ODA全体のミスと評価されることになる。
援助の世界においては援助をする側にも理想主義者が多く、持論に拘って相手の心情を読めない人がたまにいる。正論と正論、夢と夢がぶつかり合って、永遠に事業が進展しないと一番迷惑するのは、途上国の人たちだ。
最近の日本社会のように互いが重箱の隅ばかりをつつき合っていると、私も「永遠の正論」で武装したほうが得かなと思うことがある。しかし、現実と遊離した正論を主張しているだけでは、社会改革も開発も進まない。理論で勝つよりも現場で勝つ、これがこれからの日本の正しいあり方だろう。