注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
vol.234 3 June 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫
フランスでイスラム教徒の女性が着けるブルカやニカブを巡って、大論争が起きている。新聞などの報道によれば、5月11日の国民議会(下院)で「ブルカ、ニカブ着用を法律で禁止すべき」という決議案が圧倒的多数で採択されたのに続き、19日にはサルコジ政権が公の場で顔を隠す衣類の着用を禁じる法案を閣議決定した。今後、ブルカ着用禁止法成立を目指すという。
公の場の範囲をどこまでに規定するか、さらに人権、宗教問題などが絡んだいろいろな論議が巻き起こることは必至で、この一風変わった法案は簡単には成立しないだろう。だが、もし成立すれば、在仏のイスラム女性がブルカなどを着ける機会が少なくなることは間違いない。
フランス政府がブルカなどの着用を禁止する理由は、女性への差別解消などにあるが、それは表向きの理由で類似の法案が成立直前のベルギーと同じくテロや犯罪防止の狙いが見え隠れする。しかし、もっと大きな理由はフランスが国是とする普遍主義が崩壊することへの恐れではないだろうか。
フランスのシラク元大統領は、1995年の大統領選などの場で「個々の違いを認めず、等しく人間として処遇する普遍主義こそフランス共和国の活力の源である」と主張している。元大統領がイメージするフランスの普遍主義を平たく言えば、みんながフランス語を話し、フランスパンを食べ、フランス風の衣服を着ることによって差別を内在化することだ。
最近、フランスでブルカを着用する女性は、アラブ系女性だけでなくイスラムに改宗した仏人女性の数も多いという。もはや文化は人種の壁を超えてしまっている。ましてブルカ禁止を法制化することは、国民に余分な対立軸を作る。差別の内在化によって国家のパワーを維持してきたフランスの普遍主義を異質のものにする危険もあるのだ。
ブルカ禁止法の動きの背景にはもう一つ、今春行なわれた地方選で勢力を伸ばした極右政党封じ込め対策もあるという。文化の香りが溢れる国として世界から尊敬されてきたフランスが、国内政治のために異文化を否定する法律を制定したら、輝ける歴史に泥を塗ることにならないか心配だ。
20世紀までの社会において国家を統一するためには、同じ文化の中で同じ価値観を持った人々の存在が欠かせなかった。普遍主義という考え方も国家一体化の縁(よすが)として機能してきた。だが、フランスのブルカ論争を見ていると、普遍主義は文化が多様化・共存する21世紀の社会ではもはや通用しない、時代遅れの思考という気がしてならない。星条旗のもと、統一に強い拘りを持ち続けてきたアメリカも、20世紀末から西海岸に急増したヒスパニック系住民によって統一の基本である言語すら多様化する流れになっている。一つの国家の国民が一つの価値観を共有するという考え方は、もう多くの国で崩壊寸前と言ってよい。
そもそも普遍主義には、どの文化・価値観が普遍なのかという極めて難しい問題がある。産業革命以降約3世紀、世界は先進技術を独占して富める欧米が世界をリードしてきた。だから、長い間、欧米の文化が世界文化の基準となった。ウエストミンスター・デモクラシーなどと揶揄される英国型の民主主義が世界の基本だという考え方もその一つだ。
当然ながら欧米諸国による普遍主義の押し付けは開発援助の世界にもあった。欧米型文化を途上国に広く行きわたらせる(普遍)ことが、開発だと勘違いしていた時代がずいぶん長く続いていた。しかし、長年、慣れ親しんできた自分たちの文化・慣習を欧米型に変えろと指導されても、人間の心は簡単に変えることができない。近年、欧米諸国にもやっとそれが分かり、援助の世界において普遍主義は姿を消しつつある。
相手国の文化、歴史を十分に読み取って個性ある援助を実施する。日本は欧米の援助国には泥臭く見えるかもしれない手づくり援助を得意としてきた。しかし、最近はOECD/DAC内での摩擦の中などで、日本の援助も欧米的価値観に毒されつつある。
「普遍」の反対語は「特殊」である。文化が多様化する現代国際社会にあって、個性ある特殊こそが光を増す。少なくとも日本の援助はブルカを禁止するような時代錯誤の理念に染まらないようにしてもらいたいものだ。