内乱のモザンビークに踏みとどまっていたトヨタマンの教訓

注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。

vol.235 16 June 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫

先日、アフリカ・モザンビーク出張から帰ってきたJICA職員に、目覚しい変貌を遂げているモザンビークの様子を聞いた。この国が政治の安定とともに着実な経済成長をしていることは知っていたが、近代的なビルの建設が続く首都マプトの様子などは、私が知る26年前のこの国からとても想像がつかず、ただ驚くばかりだった。

私がモザンビークに滞在したのは1984年6月の2週間だ。当時、モザンビークは南アフリカに支援された反政府武装組織、モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)の勢力が各地に浸透、独立以来一貫して社会主義政権を維持してきたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)との戦闘が激化して内戦状態に陥っていた。政府軍は首都マプトやテテ、ベイラなどの都市部を維持するのがやっと。3年続く内戦で国土の疲弊は激しく、特に食糧が不足して国民は飢餓に悩まされていた。

国際機関や日本など多くの国から食糧や医療品などの救援物資が送られたが、届くのは空港や港まで。食糧を地方に配る護送トラックが港を離れると、たちまち周辺を支配するRENAMO軍に襲撃されて奪い去られてしまう。このため、地方で多くの餓死者が発生、それが大きな国際問題となっていたのだ。

新聞社の記者だった私の出張目的は、系列のテレビ局のスタッフと共に現地に入って、飢餓に怯えるモザンビーク国民の姿をレポートすることだった。たどり着いた深夜のマプトの町は真っ暗だったが、海岸沿いを走る車の窓の向こうには、月明かりに浮かぶインド洋を背景にして椰子の並木の黒いシルエットが流れている。ポルトガル領時代、ロレンソマルケスと呼ばれ“夕陽が世界一の美しい町”と賛美された往時の様子が偲ばれた。ロレンソマルケスは第2次世界大戦の際、日独英米などの敵地に住む民間居留民の相互交換が行われた港としても知られている。

宿泊したホテルは、食糧難とはいってもさすが首都の一級ホテルだけに、食べるものはあった。だが、毎日同じメニューが名前を変えて出てくるだけ。3日もいると完全に飽きてくる。市内にあるドルショップに行って缶詰などを買って目先を変えるのに苦労したものだ。その後、アフリカ第3の大河、ザンベジ河沿いの町テテに移動した。この町は噂通りまったく食糧がなく、宿泊先のホテルでも3食小麦粉をお湯で溶かした糊のような食べ物を口にするのがやっと。数日後、河で採れた魚の干物を食した時は、3つ星レストランの魚よりも美味しく感じたものだ。

思い出話が長くなってしまったが、今回、伝えたいのはそんな厳しい状況にあったモザンビークに踏みとどまって仕事をしていた4人の日本人ビジネスマンのことだ。ずいぶん昔のことで記憶は定かでないが、4人は住友商事の駐在員2名と、小松製作所、トヨタ自動車のメカニックの方だったと思う。彼らは共同宿舎やホテルで自炊しながら職務に励んでいた。

彼らといろいろな話をしたが、特に印象深かったのは中年のトヨタの整備士の話だ。「なんでこんな悲惨な状況の国に残っているのですか」と尋ねる私に、ホテルの一室で電熱器を使って器用に米を炊きながら「この国にトヨタのランドクルーザーが1台でも走っているなら、サービスをするのがトヨタの義務なのです」と当たり前のように言ったのだ。

この方の話はアメリカでのトヨタ車リコール問題を新聞で読むたびに思い出している。ビッグ3に追いつき、追い越せと全社を挙げて進んできた会社が、世界のトップに立ったとたんに不祥事を起こした。心の隅に驕りが生まれたのではないかともいわれている。たった1台の車のために人間らしい生活も侭ならぬ国で1人頑張る中年の整備士。こうした人たちの地道な努力の積み重ねによって世界一の座を獲得した会社でも、栄光に包まれるとひたむきさが薄れてしまうのだろうか。

最近の日本社会の気の緩みは、なにもトヨタ自動車に限ったことではない。普天間問題など裏づけのない理想論を振りかざして迷走した鳩山内閣を筆頭に、日本全体に言えることだ。幸い具体的な話は聞いたことがないが、援助の世界も例外ではないだろう。

昨年末、20年以上も前にマレーシアで日本のODAプロジェクトのJICA専門家として活躍された方の話を伺った。モザンビークのトヨタマンの話と同じように、不自由な生活をものともせず、カウンターパートの懐に飛び込んで遮二無二に仕事をする往時の専門家の話に新たな感動を覚えたものだ。

これは個人的な印象だが、トップドナーの座を経験した日本のODAは、スマートになり過ぎた。トヨタは今、原点に戻って技術とサービスの信頼回復にまい進している。日本のODAも先進的開発理論を学ぶだけでなく、純粋な使命感が溢れていた初心を反芻する気持が欠かせないのではないだろうか。