注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
vol.238 10 August 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫
安全保障には国防と呼ばれる古典的な領土の安全保障と、JICAの緒方貞子理事長らが主唱する人間の安全保障がある。冷戦終焉後は人間の安全保障のほうに国際社会の関心が集まる傾向があったが、今も領土を巡る争いは絶えず、世界を見渡して領土問題を抱えていない地域はない。
東・東南アジアにも竹島、北方領土、尖閣列島(いずれも日本名)、スプラトリー諸島(中国名・南沙諸島)、パラセル諸島(同・西沙諸島)など多くの領土問題が存在する。この地域における領土問題で他の地域にくらべて少しやっかいなのは、近年、地域内の軍事バランスの変化が大きいことだ。領土をめぐる武力衝突は、関係国間のパワーバランスが崩れた時に起こりやすい。
バランス変化の主因は中国が急速に海軍を近代化、外洋型海軍に移行していることだ。中国が日本との間で摩擦が起きている東シナ海ばかりか、南シナ海の取り込みにも固執するのは、台湾問題を有利に運ぼうという狙いがある。だが、それ以上に大きな狙いは海域の水産資源と原油、天然ガスなど海底資源の確保だ。
国家の領域には領土、領空、領海の3つがある。領土は河川、湖沼を含む土地、領空は領土、領海の上の空間だが宇宙との境界は未定だ。領海は領土から12カイリ(約22キロ)までの海だが、70年代に各国に広まった排他的経済水域(EEZ)は、領土から200カイリ(約370キロ)までの海域の水産資源、鉱物資源の開発と保全の権利を認めた。EEZの普及以後、国防の観点からはそれほど拘ることもなかった小さな島が、海洋利権を巡って関係国間の争いの場にもなっている。
一方的なガス田開発など東シナ海における中国の傍若無人ぶりも看過できないが、南沙諸島の実効支配などを目論む南シナ海での行動はさらに大胆だ。こうした中国の動きにベトナム、マレーシア、インドネシアなどの周辺諸国も、潜水艦、新鋭フリゲート艦の配備など自国の海軍力を近代化して中国海軍に対抗する姿勢を見せている。南シナ海では今、小さな軍拡競争が起きているのだ。
7月末、ハノイで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)では、スプラトリー諸島問題についてASEANが結束して中国との交渉に当たることで一致、話し合いによる解決の窓口が開設された。しかし、ARF以後も中国が力による南シナ海の囲い込みを緩めたという話はなく、緊張は継続している。
英領フォークランド諸島(アルゼンチン名・マルビナス諸島)をめぐる戦いは終戦して28年たったが、今もイギリスとアルゼンチン間のわだかまりは消えていない。仮に南シナ海で最悪の事態が起きれば、平和と繁栄が約束された東南アジアの近未来のシナリオも書き直さなければならないだろう。
アジアの海の平和維持のために日本ができることは何なのか。常識的な手段としてASEAN諸国と連携して中国に自粛を促すなどの政治交渉が考えられる。しかし、南沙諸島についてはASEAN4か国間内でも領有権争いがあり、ASEANが一つに纏まるのかという疑問がある。
浅学の身で今後、日本が採るべき対策についてこれといった知恵も浮かんでこないが、政府開発援助(ODA)を使ってASEAN内の意見調整をすることは出来ないだろうか。日本の援助理念を示す「ODA大綱」は、援助の目的の一つに紛争予防を掲げている。アジアの海の紛争予防は日本のODAには難しい課題であるが、地域内でさらなる平和的貢献を目指すなら、新たな認識のもとにODAの活用も視野に入れなくてはならない。
ODAを通じて深い関係を持つASEAN内に、南シナ海の海洋資源を共同調査、研究、管理する場の創設などの事業の立ち上げ支援は不可能でない。予算がないのなら、東南アジア漁業開発センター(SEAFDEC)など過去のODA事業の改組活用法もある。
アジアの海に拡大する中国の脅威に対抗する現実的な手段は、アメリカの軍事力を背景に日本プラスASEAN対中国という構図を構築することだ。日本は中国に余計な遠慮をすることなく、ASEAN内の結束を強化して紛争抑止力を高めるプロジェクトを主導することが望まれる。
東シナ海はもちろん、南シナ海も日本の平和に欠かせない利益線の中にある。アジアの海が一触即発の危機にあることは、われわれ日本人の日常生活にも関わる重大な問題であるのだが、日本人の関心は低い。南シナ海の領有権争いは、敗戦で日本が突然、領有権を放棄したことによって派生した問題でもある。解決に日本が汗を流す因縁があることも忘れてはならないだろう。