振袖にこっそり砂糖を入れた日本人の心はどこへ行ったのか?

注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。

vol.240 31 August 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫

8月も終わるこの時期、現在私が教えている大学の多くの生徒は、海外研修などに出かけていて不在だ。たまに携帯電話のメールが入るから日本に帰ってきたのかと思うと、「from北京」などという小癪な文字が入っている。

私も以前勤務していた大学では毎年、夏休みになるとゼミ生を引き連れて海外研修に出かけた。ある年、本格的な復興が始まりつつあったカンボジアに行った。連日、JICAやNGOのプロジェクトの現場を見せてもらうなど意義ある研修だった。プノンペン最後の夜、トンレサップ川沿いにあるレストラン「FCC」で打ち上げを兼ねて食事会を開いた。ちなみに「FCC」はカンボジア内戦中、欧米などから取材に来た海外特派員(ForeignCorrespondent)の溜まり場(Club)になっていたことから「FCC」と名付けられた店だ。

われわれの打ち上げ会には、日本大使やJICA事務所長も参加してくださり、大いに盛り上がった。夜も更けていざ引き揚げようかとテーブルを見ると、まだ手付かずの料理がたくさん残っている。いくら体重が増えようが、食べ残しは厳禁というのが私のゼミに鉄則だったから、気の利く女生徒が手早くドギー・バッグを頼み、大量のサンドイッチや鳥のから揚げが箱に収まった。

店の前に出て出迎えのミニバスを待っていると、ドギー・ボックスを手にした女生徒がやってきて「先ほどから12,3歳の女の子が寄ってきて、しきりに食べ物を欲しがっている。これをあげても良いか」と聞く。無闇にものを与えるのは良くないと思ったが、そのときは許可を出した。

バスが動き出してふと横に座った先ほどの女生徒の顔を見ると、目に大粒の涙を浮かべている。びっくりして訳を聞くと「あの女の子は私があげた食べ物を、建物の影に隠れていた幼い弟や妹のところに持って行き、自分は何も食べずまた川のほうに歩いて行った」という。家族を思う幼い娘の優しい心に私も目頭が熱くなった。

JICAの横浜国際センターは旬刊で「海外移住資料館だより」という冊子を発行している。私は発刊以来ずっと編集委員を承っているので毎号、目を通してきた。最新の2010年夏号には占領下の日本各地の様子をカメラに記録したハワイ生まれの日系二世の兵士、リチャード・H・コサキさんのインタビューが載っていた。コサキさんは戦後、ハワイ大学教授としてウエスト・オアフ校の学長などを歴任された方だ。

すべてが興味深いコサキさんの話の中で、私は次の話が特に強く心に残った。ある年のクリスマス、コサキさんは占領軍の通訳たちと協力して日本の俳優や歌手、宝塚歌劇団を招いたクリスマス・ショーを開催した。ショーが終わったあと、コサキさんらは出演者へのお礼に懇談会を開いた。机上にはサンドイッチやコーヒーなど当時の日本人には夢のような食べ物を並べたが、多くの出演者はなかなか手を出さない。

不思議に思ったコサキさんが理由を尋ねると、彼らは目の前のご馳走を家族に持ち帰ることを望んだ。なかには振袖の中にこっそり砂糖を流し込む若い女の姿も見えた。コサキさんはすぐに自分たちが間違った対応をしたことに気付き、持ち帰れる米や缶詰、砂糖袋などを用意して家族へのお土産にしたという。この話を読んで、60余年前の日本人もカンボジアの少女のように家族を思う優しい心を持っていたことを知り、うれしくなった。

最近の新聞を読んでいると、子が親を殺し、親が子を殺し、老いた親の行方にも関心を持たない荒んだ日本の家族の姿を伝える悲しい記事ばかりが目に付く。もちろん、今でも家族を大切にする日本人は数多くいる。だが、一部の日本人の心が狂っていることも事実だ。そうした淋しい心の持ち主が急速に増えているようにも見える。

戦後、日本人は豊かさを求めて蟻のように働いているうちに、モノとカネに妄執する悪習が身に染みついてしまった。なかでも80年代の狂乱のバブル経済と、それに続く長期不況がもたらした閉塞感が日本人の心を変化させてしまったようにも思う。しかし、コサキさんの証言を待つまでもなく日本人は古来、家族との深い絆を持った民族だ。どこか置き忘れてきた情という人間の最も重要な感性を、われわれは捜しに戻らなければならない。心の再生は経済再生とともに、現在の日本人に突き付けられている喫緊の課題なのだ。

海外で研修中の学生たちには開発の勉強と共に、カンボジアのように途上国の人々の心に今も残る優しい家族愛に触れ、自分たちの社会に生かす何かを感じてきて欲しいと思っている。