注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
vol.243 20 October 2010
JICA国際協力専門員 杉下恒夫
21世紀に入って日本人受賞者が続出しているせいか、最近のノーベル賞は沈滞が続く日本社会に爽やかな風を吹き込む秋の風物詩のようだ。
今年も10月6日に米・パデュー大の根岸英一特別教授と、北海道大学の鈴木章名誉教授の科学賞ダブル受賞が発表された。化学は高校時代に学んだが、H2Oぐらいしか頭に残らなかった私には、今でも思い出すだけで頭が痛くなってくる学問だ。そんな異次元のような世界で同胞が最高の賞を受けたことに畏敬の念と誇りを感じている。
今秋はノーベル賞に関してもう一つ、大きな驚きがあった。化学賞の2日後に発表された2010年平和賞受賞者に、中国で服役中の民主活動家、劉暁波氏が決まったことだ。中国政府にとっては爽やかどころか、不快と感じる風だったようだが、民主国家の国民の多くは、中国政府の圧力に屈せず劉氏に平和賞を贈ったノーベル賞委員会の勇気ある決定に喝采を送ったことだろう。
私はノーベル賞が外部の影響をまったく受けず、純粋に成果だけで選考されているとは思っていない。人脈、裏工作などの影響もあるだろう。なかでも平和賞は過去にアンドレイ・サハロフ氏、ダライ・ラマ14世、アウン・サン・スー・チーさんらが受賞したことを見てもわかるように、政治的な思惑が大きな影響を及ぼす賞だ。
平和賞受賞者には「なぜ、あの人が?」と思うような政治家も、時々混じっている。1994年のイスラエルのラビン首相、ペレス外相、アラファトPLO議長、2002年のカーター元米大統領、2007年のゴア元米副大統領、2009年のオバマ米大統領などはその類の受賞者だ。平和賞には受賞者が尽力している平和のための活動を後押ししようという意図もあり、オバマ大統領らは、その“期待平和賞”の受賞者なのだろう。
すでに多くの新聞が報じているように、今回の劉氏への平和賞授与は政治、経済、軍事など多岐にわたり世界に影響力を強める中国に対し、国際規約を守る透明性の高い責任のある国家になれと促すノーベル賞委員会からのメッセージだ。ノーベル賞委員会の期待は、劉氏自身の活動の成就というよりも、中国政府の変革に向けられている。
9月、尖閣列島沖で発生した日本の海上保安庁巡視船への中国漁船衝突事件で示した外交の常識を超える威圧的な対応、今回の劉氏の受賞に対してノーベル賞委員会ばかりか、委員会事務局が置かれているノルウェーの政府にも圧力かける高圧的な対応などを見ていると、今年の平和賞がすぐに中国の民主化に繋がるとは思えない。だが、この平和賞が時ともに重みを増し、いつか必ず委員会の期待が実現する日が来ると信じている。
劉氏への平和賞授与を決めたノーベル賞委員会からのメッセージは、中国だけでなく多くの開発途上国の指導者にも向けられたものだ。
最近の国際社会は、政治パワーの多極化、経済のグローバルリズム、ナショナリズムの台頭などによって、近来に見られなかったほど国家間の競争が激しい。多くの途上国には隣国よりも少しでも豊かになりたい、周辺国よりも少しでも強い政治力を持ちたいと願うリーダーがいる。そうしたリーダーたちが今、お手本とする国家像は中国だ。
茶会運動など保守派の勢いが増して、なかなかChangeの成果が出ないアメリカのオバマ政権、伝統的な二大政党制国家でありながらハング・パーラメントという不安定な政権が誕生したイギリス、今春の地方選挙で自らが率いる中道右派政党が大敗して、次の大統領選に向けて右顧左眄しているフランスのサルコジ政権、政権交代は果たしたものの党内の亀裂すら修復できず、経済、外交という国の基幹政策がふらつく日本。今の主要民主国家政府の姿は揃って頼りなく、世界を主導してきた経済も停滞気味だ。
それに比べ、飛ぶ鳥を落とす勢いで経済成長を続け、日増しに存在感を高めている中国、貧富の格差など多くの国内問題を抱えながらも急速な経済成長を続けるインドやブラジル。途上国から見ると、多様な世論に左右されて思い切った政策を実行できない熟成民主国家よりも、強権で国を動かす政府のほうが、成長と繁栄をもたらす政治体制であるように映る。
その証拠として民主化よりも、経済発展に政策の重点を置く政権が、アジア、アフリカ諸国で安定政権を築きつつある。途上国が豊かで強い国家を建設することに異論はないが、開発独裁という形で経済政策を優先、開発のために国民が持つ基本的権利を無視した国づくりに邁進するなら、それは正しい方向とはいえない。
ノーベル賞委員会は、劉氏に平和賞を贈ることで、経済成長だけを求める国づくりの愚を、途上国首脳に知らせたかったのではないか。民主化を怠り、経済だけが発展したいびつな国家は、決して国民に本当の幸せをもたらさない。それどころか、非民主的な社会制度は必ず破綻を起こし、政権の維持ばかりか国の混乱を招き、国民を再び苦境に追い込む危険性があることを伝えたかったのだ。
JICAも相手国首脳の開発至上主義の要求に流されてはいないか。もう一度点検する必要がある。自国の権益のために途上国が欲しがるものを与え、人権など難しいことを言わない中国などの援助に惑わされることなく、民主化支援という日本のODAの大義を優先する援助を忘れないようにしてもらいたい。劉氏へのノーベル平和賞授与は、各国の援助関係者への覚醒でもあると思っている。