注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
vol.250 17 Feb 2011
フリージャーナリスト 杉下恒夫氏
世界の耳目は隣の地域大国エジプトの政変に集中しているが、スーダン南部の分離独立確定もエジプト政変に劣らない大きなニュースだ。2月7日に公表された住民投票の最終結果は独立支持票が約99%を占め、アフリカ最大の国土を持つスーダンはスーダン共和国と、南スーダン共和国(仮称)に分かれることになる。アフリカでの新国家誕生は93年のエリトリア以来だ。
アラブ系民族のイスラム教徒を主体とする北部と、キリスト教徒のディンガ族などアフリカ系民族を主体とする南部の対立は、イギリスとエジプトがスーダンを共同統治していた時代から続く東アフリカの宿痾(しゅくあ)であり、やっと解決したという印象だ。しかし、2つの国の前途には厳しい問題が山積している。
スーダンは1956年の独立以来、一貫して北部のイスラム系住民が国政の主導権を握り続けており、産油地帯でありながら南部の開発は後回しにされてきた。しかも、政権がイスラム色を強めた80年代初頭から激化した内戦によって、南部のインフラは多くが破壊されたままで、新国家は無に近い経済・社会基盤の中からの旅立ちになる。いまだに続く内部抗争も不安材料だ。
一方、北部はどうかというと、こちらも決して明るい将来図を描ける状況ではない。最新のハルツーム発のロイター電は、今後の北部が抱える難題として1)石油輸出に依存して未開発の農工業と約400億ドルという多額の対外債務2)西部ダルフール地方の紛争処理と、南部の分離独立によって活発化することが予想される西部の反政府活動3)戦争犯罪、虐殺などの罪で国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出ているバシル大統領が、ICC非加盟国のイランやシリアとの関係を強化することで国際社会からの孤立—を挙げている。
確かに取り巻く環境は厳しい。しかし、私は南部スーダンの独立を清々しい明るい国際ニュースとして捉えている。そもそも、民族が自分の意志によって独立することは、何よりも優先されるべきことだ。何世代もの南部住民が憧れ続けた独立を心から祝福したいと思う。2つの国に分かれても、両国が石油、金などの天然資源を活用して共存体制を高めて行けば、数々の難題も解決することだろう。
中学生の頃だったろうか、世界地図を眺めていてアフリカ大陸の国境線がシンプルなのに疑問を持った。先住民の権利を無視して決められた南北アメリカ大陸の国境線も直線的だが、アフリカの国境線はより人工的だ。その理由は帝国主義に狂奔する欧州列強が自国の利権保護のため、そこにある民族、文化、宗教などを無視して自分たちの都合で国境線を定めたからに他ならない。
南部スーダンの誕生に触発され、ナイジェリアやソマリアなどで部族の分離独立運動が活発化、アフリカ全体が不安定化することも危惧されている。だが、今も固有の伝統的文化を守り、誇りを持って生きているアフリカの人たちが、自分たちの歴史や文化に則った真の故国を作りたいと思うのは当たり前の話で、非難されるものではない。
モロッコを除くアフリカのすべての国が参加するアフリカの統一機構、アフリカ連合(AU)は、残念ながら不安定化を招く分離独立を望まず、国境線の現状維持を基本方針としている。確かに分離独立運動は政治、経済、社会の混乱を招くばかりか、多くの犠牲者を生み、大量の難民も発生する。南部スーダンでも80年代以降、独立までに約200万の犠牲者を出している。とはいえ、AUが基本方針に従って不自然な国境線を守り続ければ、逆に紛争の大きな火種を残すことにもなる。民族を人工的に分断、あるいは統合すれば、そこには必ず摩擦が起きるからだ。AUは植民地時代の残滓ともいえる基本方針に拘ることなく、アフリカの長期的な安定に繋がる民族の独立、国境再編を積極的に支援すべきだろう。
生まれてくる新生国家に国際社会はどう対応すれば良いのだろう。中国は南部スーダンの首都候補都市ジュバに、早くも領事館を開設して支援の動きを見せているという。しかし、中国のように自国の影響力拡大や天然資源獲得を狙った援助は、新生国家の自立を助けることにはならない。21世紀初の独立国家として注目を集めた東チモールは、国連と日本など関係諸国の巨大な支援によって、やっとなんとか一人歩きを始めた。南部スーダンにも国際社会の民主的で大規模な支援が不可欠だ。
JICAもハルツームの駐在員事務所などを通して独立後の支援の準備を進めているものと思うが、東チモール支援で得た貴重な経験を活かし、南部住民の生活向上に役立つ誠意ある協力を実施してもらいたいと願っている。
私は1983年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のジャーナリスト・セミナーに参加して一度だけスーダンに足を踏み入れたことがある。その時の古い日記を紐解いていてこんな記述を見つけた。
「9月20日(火曜)夕方(ハルツームでの)セミナー終了後、ナイル河の渡し船に乗って対岸まで行く。船上で(記念写真の)カメラのシャッターを押してもらった同年輩のスーダン人としばらく話をする。彼はジュバという南部の町から単身でハルツームに働きに来ていると話していた」
今は老境に達した彼も、故郷の独立の歓喜の輪の中にいるのだろうか。