棺の上に複数の国旗が掛けられる人生を

注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。

vol.301 26 Apr 2013
フリージャーナリスト 杉下恒夫氏

4月8日にイギリスのサッチャー元首相が亡くなり、17日には国葬級の葬儀が行われたことが内外のマスコミに大きく報じられていた。小さな政府に舵を切ることで、英国病に苦しんでいたイギリス経済を救い、ロンドンの金融街シティを国際金融のセンターとして復活させるなど、英国の国際的影響力を高めた業績を称える声が多い。他方、貧富の格差を拡大したなどというマイナス評価もあるようだ。

個人的には首相時代と引退後、2回のサッチャー氏の記者会見の片隅に座った思い出がある。いかなる話題にも確信を持った話しぶり、話の途中、身振りを交えて頻繁に飛び出す「Tremendous」という言葉が、「鉄の女」という呼び名とオーバーラップして、近寄りがたい政治家という印象を受けた。

サッチャー氏逝去の報に接して私の頭を過ったもう一つの顔がある。それは、ブエノスアイレスで話をした老アルゼンチン人の皺だらけの顔だ。サッチャー氏は、首相就任3年目の1982年3月から6月に起きたフォークランド紛争(アルゼンチン名、マルビナス戦争)を指揮したことでも有名だ。西側に属する国家同士の近代兵器が初めて交戦したこの戦いは、世界の耳目を集め、私も南極圏に近い南大西洋の島から流れてくる戦況に耳をそばだてたものだ。開戦当初は善戦したアルゼンチン軍だったが、イギリス軍の本格的な侵攻の前に劣勢となり、最後は一方的に敗れ去った。

日本人の中には大国イギリスに果敢に挑み、フランス製の空対艦ミサイル「エグゾセ」によってイギリスの駆逐艦が撃沈したアルゼンチン軍の戦いに喝采をおくる人も多かった。「エグゾセ」は、強力な秘密兵器を意味する隠語として、当時のサラリーマンの間で流行語にもなったと記憶する。しかし、アメリカをはじめとする多くの国がイギリスの軍事攻撃を支持(日本は事実上中立だった)、頼りの中南米諸国からの支援も僅かでアルゼンチンは孤立無援の状況の中での終戦だった。

紛争終焉後、自国領、自国民を守るために妥協を許さず、毅然とした対応を取り続けたサッチャー首相に国際社会の賞賛が高まった反面、ガルチェリ大統領には、無謀な奪還上陸作戦を企てたという批判的な声が多かった。遥か彼方の島での紛争ということもあって、日本のメディアは、ほとんどの情報を英米系のメディアに頼ったようだ。そのため、日本人一般のこの紛争に対する事後評価は、英米側とほぼ同じでサッチャー礼賛が大勢を占めたと思う。私もサッチャー首相の対応を見事だと思う一方で、ガルチェリ大統領の愚策には首を傾げた一人だった。

時が流れ、この紛争も歴史の中に消えかけていた2000年8月、私は南部南米諸国におけるJICA事業を視察するため、アルゼンチンに出向いた。ウーリンガム市での園芸開発プロジェクト(花プロジェクト)、パタゴニア・ラニン国立公園内のポカウージョ川での鱒養殖事業などアルゼンチンでのJICAプロジェクトは、ユニークで印象深いものだった。

アルゼンチンに行ったのは、この時が初めてだったので、仕事の合間には欧州の都市を髣髴させるブエノスアイレスの中心街を散策、市民が街頭で踊るタンゴの見物を楽しんだ。メーン・ストリート「7月9日通り(独立記念日)」を歩いている時、マルビナス戦争の犠牲者の大きな慰霊塔が目に入った。塔の下に立ち止まって眺めていると、脇に立っていた老人が寄ってきて、この戦争がどれほど悲惨なものだったか、私に話し始めた。「アルゼンチン兵は厳寒の地で十分な装備もなかった。凍える手で旧式の銃を英軍に向けたが、かじかんだ指が動かず、ただ相手の最新兵器の犠牲になるだけだった。兵士は10代の若者が多かった。彼らがどれほど苦しんで死んでいったか、それを思うと今も涙が止まらない」と言うのだ。

戦争は双方の立場から見ないと真実は分からない。以後、私のフォークランド紛争に対する評価は複雑なものになった。地図を引っ張り出してつらつら眺めてみると、フォークランド諸島は、アルゼンチンとは目と鼻の先にあるが、イギリスからはあまりにも遠い。イギリスとアルゼンチンの間にどんな歴史があったにせよ、諸島は基本的にアルゼンチンに帰属すべきではないか、と考えてしまうこともある。

「7月9日通り」で私に話しかけてきた老人は、おそらくもう他界していることだろう。だが、もし、生きていたらサッチャー氏の逝去をどう受け止めただろうか。快哉を叫ぶほど無礼なことはしなくても、涙は流さなかったと思う。葬儀で馬車に引かれたサッチャー氏の棺には大きなユニオンジャックの旗がかけられていた。彼女は英国の英雄ではあったが、世界の全ての人が、その死を悲しんだわけではないはずだ。

至る所でそれぞれの利害がぶつかり合う国際社会にあって、自国だけではなく、異国の国民にも喜ばれる人為はあるのだろうか。手前味噌の揶揄を覚悟で言えば、開発協力にはその可能性がある。私には今更無理だが、開発援助に関わる若い諸君には棺の上に日の丸だけでなく、多くの国の国旗が重なって掛かるような人生を送って頂きたいものである。