日中関係改善にODA人脈活用は?

注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。

vol.304 14 Jun 2013
フリージャーナリスト 杉下恒夫氏

新聞などによると、6月はじめに中国を訪問した野中広務元官房長官が、会談した中国共産党の劉雲山政治局常務委員に「1972年の日中国交正常化交渉のおりに、尖閣諸島の帰属問題を双方が棚上げすることを確認している」と述べたという。後日の記者会見でこの発言に関する質問を受けた菅官房長官は「今は自民党員でも、現職の国会議員でもない一個人の発言と思っている。そもそも日中間に領土問題は存在しない」と、完全に無視する姿勢を取った。

尖閣棚上げ論はあったのか、なかったのか、私のような部外者にとって唯一、縁(よすが)となるのは公式文書だ。そこで、当時の外交記録を読んでみると、周往来首相が田中角栄首相に対して「今、これを話すのは適切でない」と述べたなどという記述があるだけで、棚上げの文言は見当たらない。尖閣諸島は日本の領土であり、公式文書にもそのような事実が記されていないのなら、日中国交正常化交渉の場において棚上げ合意は、なかったと思いたい。しかし、当時交渉を補佐した外務省幹部の中には「首脳のレベルで棚上げに対する暗黙の了解が成立していた」と主張する人もいて、悩ましい問題でもある。

現在の野中氏に自民党幹事長時代のような政治的影響力はない。帰国後、野中氏は「冷え込んだ日中関係を改善するために訪中した」と語っているが、現役時代から自民党員とは思えない野党的な発言が目立ち、親中派とも見られていた野中氏を招いて、中国に都合の良い発言を引き出したと見るのが妥当だろう。中国側に利用されたことは否めない。

この野中氏に対し「政界を引退した87歳の老人が、今更、日中関係に波風を立てるようなことをしないでくれ」という声もある。だが、私は野中訪中を単純に否定はしたくはない。中国は、同時期にシンガポールで開かれていた「アジア安全保障会議」(英国戦略研究所主催)に出席した人民解放軍の戚建国副参謀総長が「(尖閣問題は)我々よりも知恵のある次の世代に人に解決してもらうべきだ。棚上げという過去の選択は賢明だった」と語り、棚上げの気球を打ち上げている。野中氏を北京に招いたのも、こうした最近の中国の動きとまったく関係ないものではない。

戚副参謀長がシンガポールで打ち上げた尖閣棚上げ論は、周辺国との領域摩擦が絶えない中国が、中国脅威論を払拭するための融和策とされる。野中氏の棚上げ発言も、尖閣問題解決のきっかけを捜すため、野中氏の口を借りて発した一つのシグナルだ。批判はあっても野中氏は結果として、日中を繋ぐコミュニケーションの一媒体になった。現在、公式交渉のきっかけすら掴めない状態の日中両国間にあって、微かでも声を流したことに意義がある。日本は今後、野中氏を招いた中国側の意図を精査すべきだ。

数多くの有能な外交専門家を抱える日本政府が、日中関係改善に無策であるとは思っていない。だが、裏ルートだけでなく、もっと国民に見える場所でいろいろなチャンネルを使って解決策を模索、国内外世論の反応を見たらどうだろうか。失敗を恐れることはない。70年代初頭の米中ピンポン外交の故事を引くまでもなく、外交チャネンルはたくさん作ったほうが良い結果を産むのだ。

4月上旬、中国海南省・ボアオで開かれた中国版ダボス会議「ボアオ・アジア・フォーラム」に出席した福田康夫元首相(フォーラム理事長)が、習近平国家主席と20分ほど会談した。取り立てる成果はなかったが、日本の要人が習氏の主席就任後初めて会ったことだけで評価されるだろう。アメリカでも、たびたび北朝鮮を訪れるビル・リチャードソン元ニュー・メキシコ州知事に対して、ワシントンは野中氏の訪中同様、「一個人の訪朝」と突き放している。だが、同氏の対北朝鮮チャネンルが、米朝関係改善の重要なツールであることは、米政府も十分に承知しているはずだ。

留意すべきことは、多様な外交チャンネルは両刃の剣でもあることだ。意志が統一されていないと混乱を招く。また、民主党政権時代に散見されたように、そのチャンネルが的から外れたものであったら、外交的損失が逆に大きくなるからだ。

JICAの中にはODAが外交ツールと呼ばれることを好まない人もいる。それも一部正論だろう。だが、ODAが基本的に外交ツールであることは否めない。外交交渉のツールには政治力、経済力、文化力などのほか、軍事力もあるが、ODAは最も回避すべき軍事力を除いた国民の総合力を使ったツールでもある。平和国家日本という国の姿に相応しい平和的な外交手段がODAなのだ。

過去、対中ODAは日中関係の円滑材として大きな役割を果たしてきた。現在、か細く繋がっている日中ODAルートを通して聞こえてくる中国一般人の声には、日本のODAに対する感謝の念もあり、決して反日的なものばかりではない。こうしたODA人脈が硬直化した日中関係を融和する糸口にならないだろうか。中国が日本の援助から卒業したとはいえ、長年培った人の繋がりは、まだ各所で生きているはずだ。

JICAは尖閣問題に、直接、容喙(ようかい)しなくても、外務省と協力しながら独自の外交アセットを動かす時ではないのか。日中摩擦の解消は、日中のみならず世界中の人々が切望している。今は日本が持つあらゆる力を結集すべき火急の中にあることを自覚したい。