日本—バングラデシュ国交樹立40周年記念インタビュー 絆がつなぐバングラデシュ結核対策の歴史— Go to the people(人々のもとへ)—

2012年7月19日

  • 石川信克氏(結核予防会結核研究所所長)へのインタビュー
インタビュアー:
佐藤真司:JICA人間開発部保健第4課 課長
平岡久和:JICA人間開発部保健第四課 主任調査役

結核は貧困病とも呼ばれ、社会的弱者に患者が多いことは広く知られている。

バングラデシュにおいて、結核は未だに脅威であり、世界保健機関(WHO)の推定によれば、バングラデシュで結核による死亡はインドに次ぐ2番目であり、その数は年間6.4万人にのぼっている。

他方、バングラデシュでは全患者の7割が、自分の住む地域でDOTS(患者の痰検査による発見や、結核患者への標準的治療の徹底などの複合的結核対策)による治療を受けており、結核有病率(注1)も結核死亡率(注2)も1990年より減少している。また日本の結核予防会結核研究所でJICAの研修を受けバングラデシュの結核対策を推進してきた人々は64人に及び、WHOなどの国際機関で重要な役割を果たしたり、アフガニスタン等の国々での結核対策を推進するなど世界で活躍している。

この背景には、1978年からこの国で結核対策を支援してきた石川信克医師(現結核予防会結核研究所所長)の活動がある。コミュニティで結核患者の結核薬の服薬確認を徹底するなどのDOTSの普及・定着、郡保健病院が提供する結核医療サービスの導入、大都市部での結核対策等を、日本で研修を受け入れや人々とのネットワークを活かして、約40年にわたって支援されてきた石川医師に、バングラデシュの結核対策と日本の関わりを振り返ってもらった。

(注1)493人(1990年)→411人(2010年)人口10万人対,(Global Tuberculosis Control, WHO Report)

(注2)58人(1990年)→43人(2010年)人口10万人対,(Global Tuberculosis Control, WHO Report)

1970年代—40年前—

【写真】

村の保健ボランティアから結核の話を聞く石川所長

【写真】

結核対策課長とDOTSフィールドパイロット試行を地域医療従事者に説明

【写真】

保健ボランティアで村会議員に選ばれた女性を訪ねる

日バ国交樹立40周年を記念して、私の個人的な体験を軸に、日本人がバングラデシュの結核問題にどう関わってきたか、そこにJICAがどう関わったか、整理してみたいと思います。

私は1978年から1986年まで、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)というNGOからバングラデシュに派遣されて、主に結核も含めた地域保健の仕事をNGOの立場から行いました。当時は、独立して間もなく、まだ国も落ち着かない時でしたし、赤軍派によるハイジャック事件の直後でした。ムジブル・ラフマン大統領が暗殺された時に、その家から逃げてきた人が、私たちの家の庭でこんな風に倒れていたと再現してみせたりしたこともありました。

まだ物も本当に不足していて、トイレットペーパーをはじめ何を買うのも大変でした。私は4歳と5歳の小さい子どもがいたので、クリスマスプレゼントなど3年分買って段ボール箱何十個だか持って行った、そういう時代でした。民間の団体でバングラデシュの現地特に末端のキリスト教教会付属のクリニックを支援して、地域保健、プライマリ・ヘルスケアを促進するということで行ったのです。私は結核対策の勉強を10年ぐらいやった後でしたので、結核をバングラデシュからいかになくすか、特にコミュニティレベルでどう減らすか、自分の課題にしていました。

1978年というのはアルマ・アタ宣言(注3)というのがWHOで出て、そのプライマリ・ヘルスケアという事を全面的に出した時代でもありました。その頃は、「安全な飲み水」だとか「トイレ」だとか「簡単な病気を治す」とか、そういった基本的な保健サービスが末端まで届いていない。専門病院とか大学病院とか大きい病院もあるけども、そこまでは人々はとても到達できないというので、もっと末端のプライマリ・ヘルスケアをしなければいけない、という考えが強調され、そういう中で私は、西欧の教会が支援して現地の教会が作ったつくった団体で、クリスチャンヘルスケアプロジェクト(CHCP:後にコミニュティ・ヘルスケアプロジェクトと改名)という団体のコンサルタントとして入りました。

(注3)1978年9月12日・カザフスタン共和国アルマ・アタで行われたアルマ・アタ会議は、WHOとUNICEFの共催で開催され新しい健康に対する概念としてプライマリ・ヘルスケア(PHC)を提唱し、アルマ・アタ宣言を採択した。このアルマ・アタ宣言は、人間の基本的な権利である健康に関して格差や不平等は容認されるべきではないという基本精神に基づき、健康教育や母子保健・家族計画などのPHC基本活動に取り組むことをうたっている。この宣言が出されたことによって、PHCがそれ以後の世界的な健康戦略の基本となった。

岩村昇先生との出会い

その団体で働いていた時に指導を受けたのが岩村昇先生でした。岩村先生は日本で有名な国際協力の元祖のような方ですが、公衆衛生医として1963年からネパールでずっと働いておられました。鳥取大学の衛生学の助教授でしたが。それをなげうってネパールに行かれました。ネパールの山々でいろいろ仕事をされながら、「とにかくコミュニティのこの人たちに最低限の保健医療が届くようなシステムを」ということをずっと考えておられ、私は結核医になることを勧められました。「結核は、アジアの健康問題の中で1番大きな問題の1つだし、君は結核の専門家として、結核を入口にバングラデシュの末端の地域保健についてやりなさい」と岩村先生に言われて、私はバングラデシュに行きました。

CHCPは、資金は海外からくるのですが、活動はベンガルの人たちが中心に全国のクリニックを通して地域保健を推進するやりかたをしていたのです。そこに結核対策を入れたらどうかと、漠然と何もわからずに行きました。しかし、行ってみるとキリスト教の慈善診療所が教会に付随して全国25か所に点在していたのですが、それらを全部回って、そのクリニックでやっている仕事を支援したり、そこに結核の患者も来るので、そのアドバイスをするというようなことも始めました。教会の周辺、2〜3万人ぐらいの地域の患者さんが来て、家族計画を主に下痢とか風邪とかの病気も診ました。そこに結核の患者も多いからというので行きましたが、だいたいが結核患者は数名いるかいないかという感じでした。現実的には栄養失調の子ども、ほんとに骨と皮みたいな子どもがいっぱいおり、そういう全国のクリニックを回るなかで、まだ結核対策というきちんとしたものが無い状態が分かってきました。

その当時1980年頃は、バングラデシュには、ダッカに2つの大きな結核センターがあって、1つはシャモリという所に「TB(注4)Control Project」という名前の結核センターがあり、そこに患者さんが来てそこで外来治療を受ける。そこには検査する仕組みもあって、それは一応国全体の結核対策課を兼ねていたわけです。だから、そのシャモリの結核センターの所長さんは、結核課長の役割がありました。またダッカにもう1つの結核センターがあり、ダッカ大学のすぐ脇にチャンカルプールという所にTB Control and Training Instituteというのがありまして、診療と研修を中心にやっていました。パキスタン時代よりも前にできたと思います。

この二つのセンターを含めて、全国に44の結核クリニックがありました。各県に一つずつあったので、当時人口はだいたい9千万人位でしたから、一つのクリニックがカバーしている人口が203百万人の単位でした。結核患者がそこにやっとたどり着いて、細々と治療を受ける。私はNGOで全国を回る傍ら、シャモリやチャンカルプールのTBセンターを定期的に訪問しました。そこには私どもの結核研究所でJICAの研修を受けた卒業生が数名ずついました。年齢的には私よりは上の人もいましたが、結核研究所の先生が来たというので大事にされました。

チャンカルプールのアッサンアリ医師は日本で最初に研修を受けて帰ったばかりでした。シャモリのノビ医師もその後研修を受けました。いずれにしてもそういう専門家がいて、そこに来た患者を治療する。治療するといっても、まずその病院の門番からはじまって、ドクターのところに行って、診察を受けるまでが大変な負担が掛かります。各所でお金を掴ませないと中も入れてもらえない。最後に診断を受けても、薬は必ずしもないので、処方箋を書いてもらうだけのこともある。その処方箋を持って薬屋に行って買うか、あるいは、センターにある1番安い薬ユニセフ錠(「ヒドラジド」と、「ティビオン」の合剤)をもらって帰る。この2剤のほか「ストレプトマイシン」という3つ目の薬がないと治療効果が上がらないのですが、多くのセンターには「ストレプトマイシン」がないから、これを買いなさいとだけ言われて処方箋を渡される。私が最初に赴任した当時、センターに行くと全国から来た患者があふれていました。地方での自分の仕事の傍ら、時々その両方のセンターへ行って、国の結核対策はどうやられているのか見ていたわけです。先のNGOでは結核専門医としての私の出る幕がなく、栄養、プライマリ・ヘルスケア、家族計画などで巡回指導をやっていました。

(注4)TB: Tuberculosis(結核)の略

丸暗記で覚えたベンガル語で指導

その頃CHCPの村の診療所で保健師さんの金田洋子さんが働いていました。金田さんを訪ねていくと、「石川さんはそこにいてくれりゃいい。医師がいるっていうことで、人は信用するんだから」と言われ、栄養だとか、家族計画だとか母子保健とかを脇で見ながら、いい勉強をさせてもらいました。またその間にベンガル語を多少しゃべらなければいけないので、語学学校で習いました。しかし村に行くと、「あなたのベンガル語はなんで下手なんだ」、「日本では何年生からベンガル語を教えるんだ」と言われたりしたので、更に個別レッスンも受け一生懸命勉強しました。「結核の講義をする」ので英語で内容をしゃべるとその先生が、さっとベンガル語で喋ってくれたのを、テープにとって、それを丸暗記する。あるいは紙芝居を作って「結核予防の話」を作り、それを丸暗記して行く。何回も同じ話をするので、だんだんスムーズにできるようになりました。それから、プライマリ・ヘルスケアの中身や人々の病気のことが分かるようになり、私にとっていい勉強、結核対策の準備期間ともなりました。

1つの村からもう1つの村へ行く時も、小舟で船頭が竿で漕いで行く。その水路の横を人が走ってきて、うちの子どもを診てくれって追っかけてきたり、単純な病気のために人々がどんなに苦しんでいるかよくわかるような経験をしました。それをふりきって、次のクリニックに行く。猛暑の中あせもだらけになったり、サイクロンが来て大風が吹く中で、その小舟がいつひっくり返るかもわからないそういう様々な危険にも会いました。そのうえ夜はいつ強盗に遭うか分からないというような、非常にプリミティブな生活でした。ある夜、私が寝ているクリニックの部屋の近くに、強盗らしいものが来て大声を出している、もうとにかく命だけは助けてもらわなきゃいけないと、持っているものはカメラだろうがお金だろうが、全部出して、絶対抵抗しない、そういう覚悟で一夜を過ごしたこともあります。ダッカに帰ってくると結核センターに行って、結核の仕事を手伝う。現地のお医者さんたちは優秀なのですが、自分の目の前の患者さんたちをいかに診るか、ということだけが中心でしたので、国や地域の結核対策らしいものはほとんどなかったと言えます。私はまず調査をしてみようと思い、結核センターに来る患者さんたちにインタビューをしてみました。

明らかになるバングラデシュの結核事情

そうすると、分かったことは、具合が悪くなってから、センターに来るまで7、8カ月かかっている。その間に3人ぐらいの「村医者」に診てもらう。「お医者さん」というのは、バングラデシュでは当時、いわゆる「クワック(偽医者)」でその村で自ら医者だという人や、薬屋さんとかが適当に診てくれる。それでも良くならないので、財産を投げうってダッカのセンターにやってくるっていうような人が多い。そういう時代でした。骨と皮みたいな結核患者さんによく会いました。結核病院に入院するまでにものすごい時間が掛かって、もう来た時には骨と皮と言うような状態でした。

ある青年の患者さんは、お父さんが付いてきて、センターに来るまでの経過を聞くと、「私には3人の息子がいました。最初の息子は結核で死にました。2番目の息子は学校の先生で結核になって、病院行ったけどよくなりませんでした。(きっと不規則な治療をしたんでしょう。) 3番目の、27歳のこの息子は田んぼを耕してくれると思っていたのですが、この子が血を吐いたんです。結核になったらしいので、この子のためにと思って、田畑を抵当に入れ、お金を持ってダッカまでやってきて、ダッカ大学の教授のプライベートクリニックに行って診てもらいました。どうしてかって言えば政府の病院は不親切だし、サービスが良くないからプライベートクリニックに行きました」と。そのお医者さんが、さっとと処方箋書いてくれたが薬代がものすごく高い。当時でも世界的な基準で、1番効く「リファンピシン」、「ヒドラジッド」という2つの薬と、「ピラジナミド」ともう一つの薬4種類の薬の組み合わせが効果的で、今は皆ただでもらえるのですが、当時は、国のセンターでは高すぎて出せず、代わりに1番安いユニセフ錠を出していました。ところがその先生は、大学教授だから「リファンピシン」を含む最高の処方箋を書くわけです。当時は男性の日当が10タカとか20タカ、その当時のお金で100円とかです。一方で1日分の薬代が300円ぐらいする。だから、普通の患者はとても4剤は買えない。しかしそのお父さんは、自分の息子のためと思って、その処方箋を薬屋に持っていき、高い薬を買い、息子に飲ました。すると1カ月もすると良くなる。そうすると薬をやめてしまう。本当は6カ月以上飲まなければならないのですけれども。だからまた具合が悪くなって、また買って飲ませる。そうやっているうちに薬が効かなくなるし、自分のお金もなくなる。それでその田畑も全部なくなって、息子も良くならない。それで仕方なくこの政府のセンターに来たそうです。「俺みたいな不幸な人間はいない」と泣きながら言いました。聞くも涙、語るも涙です。この人がもし最初から、同じお金でも半年飲むだけのきちんと指導がされていればきっとそれだけ金は出せた。きちんと飲めばきっと、土地がなくなってもこの子は助かっただろうと私は残念に思いました。

その教授は、僕が知っている人でしたので、彼に会った時に、「あなたの患者さんがこういう具合で、こんなみじめな思いをしているよ。どうしてあなたは最後まで、薬をきっちり飲ませるように指導をしなかったのか」と聞きました。今でこそ、DOTSというやりかたがあり、そのセンターでも患者が途中で脱落しないようにしています。しかし当時はそんな感じで患者は毎月20%ずつ脱落、最後まで治療を完了する人は、1割ぐらいになってしまうのでした。そのように結核の患者の治療実態はひどい状況で、まともな対策なんて行われていない。結局この男の人は死にました。今で言う多剤耐性になり、有効な薬もなくなって死ぬ。もう1人の学校の先生のお兄さんもその後亡くなり、この家族は3人の息子が結核で亡くなって、しかも財産も無くなり一家が破滅しました。それはまさに日本で、戦中・戦後、1930年、40年代に家族ぐるみで結核になって一家が没落するという悲惨な時代と、非常によく似ている。それが1980年代のバングラデシュや多くの途上国の実態でした。

一方、その結核センターでは、日本でJICAの研修を受けた医師たちも数人いたのでその医師達を励ます意味でも、少し研究的な事もやりました。この国で結核対策をどういう風にやれるのか、とにかくお金がないのですから、「リファンピシン」などは買えないわけです。仕方がないので、私はユニセフがくれるヒドラとチビオンの2剤合剤(ユニセフ錠)を中心に薬を使う。効果が弱いがやらないよりいい。いい薬をもらっても途中で脱落するよりは、効果の低い薬でも長期間最後まで飲ませ、コンプライアンス(患者が薬を薬剤規定どおりに飲むこと)を良くすれば、治癒するトータルな数は多くなると思いました。そこで、センターにモチベーションルーム作って、患者教育をやったのです。そこではまず患者から話を聞く。聞くも涙、語るも涙です。現地の結核予防会からボランティアを出してもらって、その人がそこで「結核の治療は最後まで治療しないと効果がない」という話をしてモチベーションをする。そしてMのスタンプを押してもらった人が最後に薬をもらって帰れる方式を作りました。

「Go to the people」

何かをやろうとすれば、旅支度で外へ出てゆかねばなりません。旅をすると言っても、木製のバスの屋根の上にのるナチュラルエアコンディションです。こういう感じで旅をする。私も最初車がなかったので、旅が大変で満員のバスの中で、あせもができてベルトの下がまっかになったり、ダニにかまれたり、ひどい戦いでした。長距離バスに乗って、またローカルバスに乗り換えて田舎に行くわけです。活動の途中からは日本から車を送ってもらいましたが、それも運転手がいないとできません。そのうえ交通事故がものすごく多くて、1回の旅でだいたい3台ぐらいはバスやトラックが田んぼで水を飲んでいます。私はバングラデシュでもし死ぬことがあれば、多分交通事故だと思ったぐらいです。それから、雨季と乾季の間が大変です。雨季はまるっきりあたり一面が水で、南の方の地域は水田がずっとつながっていて、そこの水田の中を、手漕ぎの小舟を雇って、村々を回ります。乾季になるとそこはカラカラになる。雨季と乾季の間は地面がぬかっているわけです。このぬかるみの泥の中を歩くのがまた大変です。みんなこの地域の人たちと一緒にBCGや予防接種をして歩いたんですが、今から見ると随分危ないことやっていました。限りなく「go to the people」というのが私の1つのモットーでした。それは岩村先生から教わったことで、最初は良かったと思うのです。ほんとに奥の村まで行きました。それで、様々な病気の簡単な治療から予防など、なんでもやりました。ただ、結核のことは地域サイズが小さすぎでした。結核対策をやるにはちょっと10万人ぐらいを単位にした地域がないとモデルはできません。1人2人の患者を診ただけじゃ意味がない。そういうところまで気づいていくまでに少し時間かかりました。

人々から学ぶ

その頃の村では、沼や川の水を飲んでいる人も多かったのですが、徐々に井戸の普及も始まっていました。手押しポンプの井戸は、使われているもありましたが、時に壊れている井戸もありました。村人に「なぜ直さないの?」と聞くと、「お金が無い」と答える。「向こうの家にある井戸はちゃんと動いているではないか」と言うと、「いやあ、あれはあの人たちが自分で買ったんだ」と。「ではこの井戸はだれが作ったの」と聞くと、「ユニセフからもらった」というのです。その時、「人間は何をやるかも大事だけど、誰がそれをやるかというのはもっと大事だ」と、この現場で感じました。そのドナーを非難するつもりではなく、やっぱり住民参加(Community participation)でやる、機材は提供するけど土地と労力はあなたたちでやりなさい、というようなやり方をやっていくのはCommunity developmentの1つの方法だと思います。貧しいながらその貧しさの中にも緊張があり、ただでもらったと思わないようなやり方が重要です。

魚市場に行くと大小の魚を売っていますが、大きい魚は一匹10円、小さい魚は一山10円。これを健康教育の話題にして、「今日は栄養の話をしましょう、この小さい魚一山と大きい魚1匹とどっちがいいですか?」と聞くと、そこに来ているおばさんたちは、みんな「小さい魚がいい」という。「量が沢山あるのでみんなで分けて食べられる」と言うのです。そこで「よく分りましたね」と褒める。健康教育の話しが終わって、皆が何かいいながら帰って行く。だんだんベンガル語が分かるようになってきたら、「あの偉いさんはわしらが貧乏人だから小さい魚がいいって言うんだよな」「うんだ、うんだ」ってこういいながら歩いていくのです。「うちの父ちゃんはでかい魚じゃなきゃだめだ」と言っている。大きめの魚で肉味の大きいところは父ちゃんとか息子が食べて、その残りや頭とかを女が食べる、「小さい魚は確かに一緒におかゆに煮れば、みんなで分けて食べられるし栄養価もいい」とわれわれは教えますが、人々は建前は結構わかるけれど、本音は違うのだ、ということもだんだんわかってきました。

全国の44の結核センターには人口何百万人の中からたまたま来れる人が来て、ほとんど治療から脱落していました。結核対策とは無きに等しいものでした。もっと患者がちゃんと治療できるようなモデルはないだろうかと思い、全国を見て回りました。北部のボグラ県にシャリアカンディ郡があり、そこはちょうどジョムナ川が、インドの北から流れてきて、ガンジス川に合流するのですが、そのジョムナ川が、300年に1度ずつ、東西に移動する。この地域は今どんどん川が浸食して、数年のうちに水没してしまう地区で、既に多くの人の持っていた土地が川底になって、河原とか川端に追いやられている非常に貧しい地域です。そこに外国から資金が来ているフランス語系のNGOでBrother to All Men(BAM)という団体がありました。そこが結核対策をやっているっていうのでそこのクリニックを見学に行ったのです。もう僻地の僻地というところです。そこで、そこの責任者バシェット君という人から、掘立小屋みたいな診療所で、3日3晩話を聞いたのです。彼はファンドを外からもらっているけど、その地域の結核患者を百人ぐらい見ている。「患者の治療完了率は何割ぐらいか」と聞くと、「9割ぐらい」と。ダッカの結核中央センターでは9割が脱落、1割しか完了しない。「そんな高い治療完了をどうしてできるの?」と聞くと、「モチベーションする」。「どうやってモチベーションをするの?」と聞くと、「金をとる」というのです。それで「えー!?貧しい結核患者から、金取るの?」と言うと「ドクター、どんなに貧しくても人はただでもらったものは大切にしませんよ」と言ったのです。

検痰をして痰の中に菌がいる人に、政府からをもらってきた結核の薬を1カ月に1回ずつ渡し、それを観察していたら、多くの患者がその薬を捨てていることに気付いた。そこで治療する前にsecurity moneyと称して保証金を取ることにし、ちゃんと最後まで治療をした人にはこのお金を返すことにした。すると人々は、自分が治りたい事もあるけど、金返してもらいたいばっかりに、ちゃんと最期まで薬をのむようになった。彼に「患者でお金が出せなかったらどうするの」と聞くと「村長さんのとこへ行き、村長さんからせびってくる」と。また「村長さんをどうやって説得するのか」と尋ねると「あなた(村長)の村にこの人が保証金(だいたい3日分の日当)を払えないばかりに、治療を始められないんですよ。ひとつ貸してやってくれますか?この治療が終われば返しますから」と言う。すると村長はだいたい嫌な顔をする。「村長さん、貸してくれればみんなのとこへ行って、あの村長は親切だって私は言いますよ。選挙も近いですね。」と話す。これが一番効くと言うんです。Community involvement とか、何にも理論も習っていない彼がそう言って地域のリーダーを巻き込むのです。金を貸した村長はその人に会うと、「おまえ、ちゃんと薬飲んでいるか?」って確認する。そのうちに、その村長は、結核患者が治っていくのを目で見る。そうすると、今度なんか具合悪い人いると、「おまえ、あそこへ行って検査してもらえ」と言うようになるというのです。

私達はもっと勉強したい

そのようなやり方を今度は私のところに結核の相談に来る方に話しました。例えば「自分の団体では、結核患者がすぐ脱落してしまうが、どうやったら治療完了率をあげられるのですか」と聞いてくる。そんな時、「お金をとりなさい」と言うとたいていみんなが驚くわけです。「私は物をあげているけど、お金はとったことがない」。「物をあげるのは止めて、お金をとりなさい。そのかわり治療が終わったら返金する保証金方式です」と、さも私が専門家のようにアドバイスをする。そうやって多くの団体が、それを良いとしてやるようになりました。

村巡りをしている時、女性たちが集まって話し合いをしているところに出会いました。それはショミティ(グループ)とバングラデシュではいいますが、小グループをつくって、グループ活動をする。そのグループで何するのですかって聞くと、まずソンチョイ(貯蓄)ってsaving programをやるのです。自分がもって来たわずかなお金、10円とか20円とかのお金を貯める。つまりそこで貯金するのですね。すると10円でも20人で200円になる。そしてそのお金を他の人が借りる。うちの子どもの学費が要るとか、あるいはトウモロコシの苗を買いたいとか、そう言う理由で借りるわけです。

村はどこでもそうですが、高利貸しが牛耳っています。金を貸してくれる所が必ずあるのです。金は貸してくれるけど、すごい高利でだいたいが月10%、1年間で120%になってしまいます。そのお金が返せない場合が多くて、自分が持っているわずかな土地とか物をみんな失っていく構造になっている。それで、それをお互いがお互いに助け合うショミティ、グループづくりをするシステムが1980年代から始まりました。それまで援助の歴史では、例えば栄養が大事だ、農産物が大事なので、この地域に水が必要だというと、「池を掘りましょう。水路を掘りましょう」ということになる。ところがいくらやっても貧しい人が豊かにならない。なぜなら金持ちがそれを独占してしまうわけです。金持ちのうちの庭に、池を作っても金持ちは得をするけど貧しい人は全然得しない。そこで開発の中にオーナーシップというか、entitlementというか、そういう概念が出て来た。その流れの中でグループづくりをしながらお互いに、小さい助け合いをして守りあう、あるいは小額の資金援助、マイクロクレジットが出て来た。それから「自分たちはなぜ貧しいのか」という意識を向上させない限りいくらこの人たちに物を与えても、この人たちは搾取される構造の中から抜け出せない。一番貧しい人たちが、自分たちの意識を向上させない限り、地域の向上はありえない。その土地無しや極貧の人々をtargeted populationにする。男が毎日日雇いで百円もらってくる。そういう人たち自身が自分たちはなぜ貧しいのか考え合う、あるいは読み書きを習う。そこで貯金をする、貯金をした自分の名前を書く。名前が書けるようになる。こうして仕事の合間にちょっと勉強する。例えばトイレにいったら必ず手を洗いましょう。手もただ水でさっと洗うのじゃ駄目で、できればシャバン(石鹸)を使えばもっと綺麗になる、という事を1回の集まりでひとつずつ勉強するわけです。そういうグループに私はたまたま出会ったのです。その人々に「皆さんは何が問題なんですか」と聞いたりしていると、たいていが「食べることです」って言うわけです。食べることの次は、家とか着るもの、などで「健康」が出てこないのです。つまり少しぐらい下痢していたって別にそれは問題ではないわけです。「何か欲しいものがありますか」と半分おしゃべりの感じでしゃべっていた時にある人が「アムラ・アロ・シッカチャイ(私達はもっと勉強したい)」って言ったのです。その言葉を私は聞いた時に、「えー?」と思った。いつも何かくれ、何かくれってすがってくる人たちが、「アロ・シッカチャイ(もっと勉強したい)」と言ったことは大変なことです。このショミティで学習を積み重ねていく中で、学ぶ事は力なのだということを、彼らが会得したのです。そういうグループに対して、「保健ボランティアをつくりませんか。あなたたちの中に、保健係を1人選んでください。その人に、トレーニング(研修)をします」と提案したわけです。トレーニングをして、例えば下痢した時には、どうやって対応したらいいのか。そのために下痢治療の水(ORS)の作り方を教える。1杯のコップに塩ひとつまみと砂糖ひと握り。これはポカリスエットと同じような効き目が出るのです。こういうふうにして塩分と糖分を入れた水を飲めば脱水が改善できるっていうのを教えました。

コリグラム村の「うんこ通り」という面白い話があります。この村では便所がなく、みんなが村の中の川端に来てうんちをする。私はそこを横切らないと移動できないので大変でした。ものすごい蠅で、ご飯を食べる時はもう蠅がわーっと私の手にたかってくる。その村では、いくら健康教育をしても効果が上がりませんでした。それで私はこの村で仕事をするのを止めました。しばらくして私はこの村を再び訪ねました。するとこの村の川辺にうんこが全然なかったのです。そして、家々に便所がついていたのです。どうしたのかと村に入ってみると村には前になかった小屋があって、そこにコミュニティセンターができていました。そこでみんながワーワーしゃべっている。「何をしているの」ときくと中で皆が、「我々は村の問題を話し合っている」と。「何の問題を話し合っているんだ?」と聞くと、「ワクチンが村で出来ないので、それをどうやったらいいかって話し合っている。」「以前、皆さんのところに私がワクチンをもって来たら、みんな逃げて行ったじゃないですか」と言うと「そんな事あったかね、ははは。」と笑いました。ただ物を持ち込んでも人々自身が必要と思っていないと受け容れられない。ここでもショミティの意義を確信しました。

コミュニティでの結核対策

そうやってグループづくりが大切ということ、その中で貯金をしたり学習をしたり、お金を借りたり返したりする中で人々の意識が上がり、そして保健ボランティアができました。これからが本論に入ってゆきます。ダッカから車で1時間ぐらい、50キロぐらい行った所のマニクガンジ郡という地域で、BRACというNGOが、コミュニティ開発の仕事をしていました。私はそのBRACと協力して結核の調査をしました。これは文部省(当時)の国別研究プロジェクトの一貫で国立予防衛生研究所(当時)の小関勇一先生から依頼されて協力したものです。人口は15万人ぐらいで、症状のある人から痰をとって、結核菌の検査をしました。結局850人に検痰をして全部調べてみたら、24人の患者が見つかりました。調査はそれなりの意味があるが、それで終わりでした。それで、見つかった患者をどうするのかということが出てきました。実は、その地域には既に約200人の保健ボランティアがいて下痢とか熱とかいう治療をやっていました。私はそのボランティアが結核の治療もできるのではと思いました。最初からそれを目指したわけでないのですが「あんた達がやる気ならこの地域で結核の治療をやりませんか?私がその薬を持ってきます。」と。これがCommunity based TB programというものの始まりでした。すると結構これがうまくいって、その村で今度は具合の悪い人がどんどん見つかり出したわけです。そしてその人達に、痰の検査の仕方を教えて、菌が出た場合は、この村に居る保健ボランティアを使って村の中で結核の治療をするということを始めたわけです。この時の薬は結核センターの所長さんで結核対策課長さんにあたるゴラム・ノビ医師から出してもらってこの人たちにあげたわけです。彼は日本で勉強したJICAの研修生で、このようにしてコミュニティベースTBプログラムの最初のモデルができたのです。結核対策を村のおばさんたちの手を借りてやるという試行ができました。国の結核センターがそのことをサポートしてくれたけれど、ただ依然として国全体をどうするかまではいきませんでした。

WHO・世界銀行のDOTS導入

その後、2000年頃からWHOとWorld BankがバングラデシュのDOTSプロジェクトというのを始めました。WHOがバングラデシュの結核対策を結核センターを通してではなく、15万人から25万人ぐらいの郡にあるプライマリ・ヘルス・ケアセンターであるウパジラヘルスコンプレックス(郡保健センター)を対象にしたのです。その頃WHOの結核対策部長になった古知新先生が、いくつかの国で結核対策をかなり強引にトップダウンで導入しました。それで、バングラデシュの結核対策もきちんとしなければということでプロジェクトは始まりました。私は1986年に日本に帰ってきて、小規模に結核の支援していました。BRACは独自のモデルを全国にどんどん広めていたのですが、これはNGOがやっているし、それからcommunity developmentとペアでやっていますから、結核対策としてはちょっとモデルになりにくいなと思っていました。

ちょうどその頃JICAで研修を受けた人アーサン・アリイ医師が、新しい結核課長になりました。「その世界銀行とWHOがしようとしている結核対策がウパジラ(郡)レベル、即ち政府のプライマリ・ヘルスレベルで結核を見るようにする。このままでは一方的に強引に押し付けられるから、そのウパジラレベルの外来で結核を診断し治療するシステムのモデルを自分たちでまずやってみないか?その研究費は出すよ」ということで研究事業を開始しました。これは厚生省(当時)予算で国際医学協力研究「結核に関するプライマリ・ヘルスケアの研究」というテーマでやりました。まずダッカに近い2つのウパジラを選んで、そこに結核プログラムを始めてみたのです。それはWHO方式が始まる前の年にやりました。その時、運良く青年海外協力隊の保健師二人がシャモリのTBセンターに入ってきました。その協力隊の人たちがこの試行の担い手になりました。その二つの郡センターとシャモリの医師達を連れて行って、先週見つかった患者の治療について訪問しに行く。今までは結核患者は自分で診て自分で治療するというやり方しかやったことがない結核専門のお医者さん達が普段一般の患者を診ている医者を訪問し、どうやって結核を診るかを教えるのです。こうしてウパジラレベルのプライマリ・ヘルスケアの中での結核対策モデルづくりをしました。それは協力隊の谷敷時子さんと泊美奈子さんです。谷敷さんは、その後八千代市の市議会議員にもなった人です。そして下準備ができた所で、World Bankプロジェクトの結核対策を全国のウパジラでやるという活動が始まりました。ところがそれが、すごい勢いで拡大して全国のウパジラレベルでやるのですが、ウパジラはかなり広い。地域の端のほうの結核患者さんが遠いセンターに毎日服薬のために来ないといけない。1時間も歩いてくるのは大変なので、近くの患者さんしか受けられない。遠い人は対象にしない。センターの近くの患者さんだけを取れば、治療成績もよくなるわけで、そうすると「自分の所は85%の患者治癒率を達成しています」と言えるわけです。でも実際はもっと多くの患者が外にいるわけです。そういう問題が出てきた時に、初めてそのBRACのやっているコミュニティベースのものとこれをつなげれば、近くの人はそのウパジラセンターで、村の人はそのコミュニティで治療できる。そこに連携という言葉が出てきた。政府はNGOと一緒にやったりするのを最初は嫌がっていたのですが、今では、バングラデシュで見つかっている結核患者の6割(5万人強)ぐらいがそのシステムでやっています。そのマニクガンジ郡でモデルを始めるきっかけが、国立予防衛生研究所の小関勇一先生が調査をし、私がお手伝いしたことからです。しかしコミュニティベースプログラムをどうやってやるか、最初は分かりませんでしたが、コミュニティレベルの保健ボランティアが患者を見つけ、治療する、それを管理・監督する人がいる、そういうシステムをモデルができました。でもあまり良いので、BRACはそれを売りにして、世界中からファンドを得て全国展開して、BRACモデルっていうのをつくりました。

JICAの果たした役割

そういう中で私の仕事とJICAがどのように関係があるかと言うと、一番大きいのが、日本(結核研究所)でJICA研修を受けた人達が国の中央や要所要所にいて、私の仕事がしやすくなりました。BRACは、我々の支援で日本に留学し、JICAの研修も受けられたアクラム氏が中心になって、今ではアフガニスタンやアフリカ諸国でも活動しています。マニクガンジで1980年代から90年に一緒に働いた人たちと、アフガニスタンで再会しました。BRACはそこでもcommunity developmentをしていて、村にグループづくりをして、意識向上をやっています。バングラデシュの40年前と同じです。つまり村の女性達は人前で話もできなかったのが、だんだんできるようになり、読み書きも出来るようになってきた。そういう中に保健ボランティアもつくり「結核もやらないか」と言ったら「やりたい」となり、BRACとJICAプロジェクトがつながったわけです。

ネパールのJICA結核プロジェクトではDOTSをタライ地域でモデルとして導入、その中に私がバングラデシュでやったコミュニティベースの結核対策が応用できました。ネパールにはコミュニティの中に既に政府の家族計画を中心としたボランティがいたので、それを応用する方式でした。

カンボジアでも、コミュニティボランティアを使ったコミュニティベースTBプログラムというのをJICAのプロジェクトでやりました。2年前プロジェクトが終わる時に、その村まで行きましたが、驚くほど大きな成果が上がっています。

バングラデシュでは、数年前、ラボ(検査室)のEQAといって精度管理をするJICAの専門家派遣がありました。南川検査技師派遣され、3年間協力しました。

それが終わり、結核研究所に海外でセミナーを実施する予算があり、それでダッカの都市部の結核セミナーをやっています。他の研究費も併せて4,5年続けています。農村部の結核対策は比較的単純で、ウパジラヘルスコンプレックスがあり、しかもNGOがいて、だいたいシステムが単純です。ところが都市部では、医療保健のplayerが沢山いて、開業医もあれば病院もある、大学病院もあれば国立の結核センターもあり、複雑でしかも連携がなかった。患者はどこへでも行ってそこで薬をもらえるがフォローがないからすぐ脱落する。大学病院などは国の結核対策とはまるで無関係でした。システムは何もできていなかったのです。数年前から結核研究所のJICA研修卒業生のクルシド・アラム・ハイダー医師が中心になって、都市部の患者紹介システムをつくりました。患者がどこで見つかっても、住所に近い所のプライマリーケアセンター(ダッカの市内には母子クリニックというかたちで存在している)に紹介します。大学病院でも、自分のところに抱えないで、皆地域のセンターに返す。それはすごく良いモデルです。つまり見つかった患者が末端のクリニックで治療ができる。そしてそのクリニックが結核患者も治療できるようになる。住民の信頼も深まる。まさにそこがエンパワーされるわけです。結核の治療は、1回限りではなく、6ヶ月以上最後まで治療しなければいけない。そしてちゃんと治療したかどうか、治癒したかどうかの評価をする。これがDOTSのやり方です。こういう疾病管理というのは結核の他にはありません。マラリアでも3日程度の服薬で簡単ですし、日本の医療でも高血圧、糖尿病でも、最後まで見極めるというきっちりした管理ができているとは限らない。そういう意味では一つ疾病管理のモデルになります。人々もヘルスセンターを信頼する、あそこへ行けば治る。だからまさにヘルス・システム強化なのです。今都市部の保健システムは1番難しいテーマです。このダッカの結核対策はぜひもう少しやらなければと、私も続けてやりたいと願っています。結核対策課の人脈もあり、BRACもあるので体制はできています。東京もそうですが、地方自治体は1つの責任をもっていますから、東京でも都内の保健所というのは都でもなく、その区のものですから、いきなり、国や都がそこに行って何かしたりすることはできません。同様に、バングラデシュでも国といえどもダッカ市を干渉できないわけです。ダッカ市長がやると言わなければ許可が出ない。母子保健などは、比較的地方分権でいいのですが、結核等の感染症対策には向いてない。権限が分散すると効果が上がらず、やっぱり国が1つのシステムで統一されなければならない。感染症対策というのは軍隊や警察などと同じように統一されたシステムで連携しなければならない。そういう意味では、ダッカの市内で結核対策のplayerとしては、国、ダッカ市そしてNGOのクリニック、それから大学、大病院等があり、それらは皆、別の組織なので、連携システムを構築せねばなりません。

システムを支えるのは人

ラボ(結核菌検査室)でもJICAの研修を受けた人がチャンカロプールにも、シャモリにもいるし、そういう人達は私が何かやろうという時に、カウンターパートになってくれます。彼らはJICA も結核研究所も区別しているわけでなく、私たちは、ALL JAPANでやっているというのが正しいでしょう。そういう意味で結核に関しては、JICAの主要な大きなプロジェクトはなかったけれど、JICAが要所要所で果たしてきた役割があったと思います。私はNGOでずっとやりましたけれども、仕事の時の現地でのカウンターパートにJICAで育った人材があちこちにいたこと、そのネットワークがすごい力になりました。手元にJICA帰国研修員のリスト(注5)がありますが、この中で、1番最近の成果は、クルシム・アラム・ハイダー医師がWHOのSEARO(South- East Asia regional office)のregional adviser(結核対策課長)になりました。そして僕をSEAROアドバイザーに呼んでくれ、バンコクで地域の結核会議をやりました。正式なメンバーが20名ぐらいいましたけど、そのうち7人(タイ、ミャンマー、バングラデシュ、インドネシアなど)が結核研究所のJICAコースの卒業生です。それからアーサン・アリ医師とは1978年の卒業生。この人はバングラデシュの結核対策の立役者です。この人も私と一緒によく働いてくれました。BRACのアクラムル・イスラム博士は結核研究所の予算でJICAコースに参加しました。彼は東大でPh.D.をとったのですが、今やBRACの保健プログラムの責任者になっています。私が育てた私の相棒で、行くと私にあれしろ、これしろと言う人です。セミナーも全部彼がアレンジしてくれました。

(注5)結核対策コース研修生は1970年代に4名、1980年代に21名、1990年代に20名、2000年代には19名がバングラデシュから参加している。

その人たちが何人もいて、そういう人たちを通して、あとは私の様なものがちょっと刺激をしたり、口をきいたりした事によって、バングラデシュの結核対策が現在を迎えています。バングラデシュは今世界エイズ・結核・マラリア対策基金(GFATM)から資金をもらって政府とBRACが国全体で結核対策を実際やっています。この活動は実質的にはこのBRACにいる帰国研修員人たちが中心的な役割を担っているといえます。

私は、長く関わるなかで、人間関係ができたことと、結核研究所という1つのinstitutionがあったこと、それでJICAのコースの人達がいたという立体的な関係の中でバングラデシュの今の結核対策ができあがってきたと思います。

BRACの人材に関しては、特色あるのは基本的な人達は全部non-medicalな人達です。医者は誰も中心にいない。医者は例えば私にしても、みんなresourceとして使うけれども、スタッフは皆マネージメントの専門家でnon-medicalな専門家達が地域開発をする。彼らが1番目指しているのは貧困対策で、貧農グループをターゲットにしながら、貧困をいかに無くすかを中心にやっている団体です。即ち、結核は彼らにとってはステップ、ツールであって、もっと先の事をやっているわけです。「結核はあんたのためにやっているんだ」と言われて。大笑いもしました。

最近はヘルス・システムが課題ですが、ヘルス・システムは目に見えるものではありません。人間がいてそれをいかにやっていくか、今述べたように長い間にできあがってくるものもあるから、これがあればいいというものではないし、終わりはありません。だから、結核研究所の研修の意味というのはすごくあると思います。研修コースのやり方もありますが、結核は、まだニーズがずっとあるので、人が替わっていきますから、続けて人材養成しながら、それが見えないところで、要所要所に働き手として残っていく。そして私達みたいな人間が時々訪ねて行ったりして、少しboosterというかインプットをして励ましてやれば、それがまた生かされる。

私は主にNGOでやってきましたが、NGOだけでは絶対できないし、NGOでなければこの試行錯誤はできなかったと思います。JICAプロジェクトなら期限が決まっていますから、この間に成果を上げなさいと言われたら、なかなかできなかった。でも私のようにしてフォローしながら長期にやり続ける、また研究所が1つの基地になったということも大きい。何もなければ自分一人で行ったってそんな大したことはできないと思います。「ボクは金が無いよ」って言うと、彼らが「じゃあこちらが出す」って言うのです。だから、フィリピンでもJICAプロジェクトが終わり「お金が無いからできない」と言ったら、「いや、自分たちには金はある」、「あなたたちに来てほしい」と言う。うちの研修を受けた人たちが、「ぜひ見捨てないでくれ」と言うわけです。やっぱり細く長くやる事の良さというのもあります。JICAの研修事業にも、帰国研修員のフォローアップがありますが、それで時々はいくつかの国に行ってきました。それも大事だし、細く長くつながりながらやっていくという部分も必要です。その中でJICAのいい点も活かされてきたと思っています。

(終わり)