40周年記念に寄せて

2013年5月10日

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ムンシ ケー アザド

元ベンガル語指導教官

勤務期間:1975.10から2006.3

広尾研修センター(1975.10から1979.3)
駒ヶ根研修センター(1979.4から1994.12)
二本松研修センター(1995.1から1996.6)
駒ヶ根研修センター(1996.7から2006.3)

日バ修交40周年を迎えられたことを大変うれしく思います。1972年2月10日、日本がバングラデシュ建国を承認したとのニュースは私たちベンガル人にとって喜ばしく、ラジオやテレビで大きく取り上げられたことを今でも良く覚えています。

日本の承認はバングラデシュの国際社会への扉を開きました。両国間の繋がりは、バングラデシュが英領インドだった時代に遡ります。当時から、私たちの同胞は頻繁に日本を訪れ、その文化に触れています。ハリプロバ・マリックは日本人(武田氏)との結婚を機に、1912年にベンガル女性として初めて日本の地を踏みました。そして1915年には、ベンガル語で初めての日本に関する本「ボンゴ・モヒラ・ジャパン・ジャトラ(バングラ女性日本へ行く)」を記しました。著名なラビンドラナート・タゴールも1916年をはじめ、5回日本を訪れています。

ベンガル人が日本を友好国として感じるのは、1971年の独立前からです。赤十字チームの一員として独立戦争時にバングラデシュを訪れていた吹浦 忠正氏は、その凄惨な様子を本に認めました。この本は現在、NHKワールドのベンガル局長である渡辺一弘氏により、「ロクト オ カダ(血と泥)」という名でベンガル語に翻訳されています。

日バの修交が始まるとすぐに、日本はバングラデシュにとって有数の援助国になりました。日本は戦火の灰の中から立ち上がる手を差し伸べてくれたのです。それは資金援助であったり、技術協力であったり、文化交流であったりと、様々なものでした。これら援助は経済やインフラの再建を支えてくれました。二国間援助の中でもボランティア事業は賞賛に値するものです。両国の人が共に働き、汗を流すことを始めたのです。彼らボランティアの活動は両国の友好を深めると共に、バングラデシュの若者に、より専門的でプロフェッショナルな技術を身につけるよう啓発しました。北西部ナトールに農業機械の専門家として1985年に派遣された小笠原一博さんが、日本のテレビ「地球感動配達人、走れ!ポストマン」で紹介されましたが、これは両国の友情を示す貴重なドキュメンタリーです。

ボランティアにより両国間の距離は縮まり、相互理解が促されます。また、彼らが任期を終えた後もバングラデシュとの繋がりを保ち、ホストファミリーや友人たちを訪れてくれることは喜ばしいことです。彼らボランティアはベンガル語を駆使してコミュニケーションを図ります。彼らのベンガル語能力は高く、スピ−チコンテストで賞をとる人も少なくありません。彼らは派遣前の研修でベンガル語を習得しますが、この研修では言葉の他にベンガル社会や文化についても学び、バングラデシュでの生活に備えるのです。バングラデシュでは他国からもボランティアを迎えていますが、ベンガル語を操るのは日本からのボランティアだけです。

1973年にボランティア派遣が始まってから1,000人以上が派遣され、彼らの誠実さや頑張りが両国の絆を作り上げました。私は駒ヶ根研修センターで彼らの研修のお手伝いができたことをうれしく思います。そして彼らボランティアを誇りに思い、彼らのバングラデシュへの貢献に感謝します。

※原文にはJOCVとあり、これは青年海外協力隊員のことです。バングラデシュには青年海外協力隊員の他にシニア海外ボランティアも派遣されていることから、ボランティアに統一記載しております。なお、現在、バングラデシュではシニア海外ボランティア3名、青年海外協力隊員71名が派遣され、さまざまな活動を繰り広げています。総派遣人数はシニア海外ボランティア16名、青年協力隊員1,105名の計1,121名となっています。

原文はこちらをご覧ください。
Celebration of 40th anniversary