生活改善を目指して−初代女性ボランティア奮闘記−

2013年7月1日

松本智子(旧姓佐藤)

青年海外協力隊、職種:野菜隊員

派遣期間:1981年10月〜1984年4月(昭和56年2次隊)

配属機関:農村開発局(BRDB)、ジェソール県シャシャ郡

1.派遣当時の状況

派遣当時、バングラデシュには女性隊員が一人もおらず、男性隊員が当時のJICA駐在員に、イスラムの国に女性は無理と、かなりの反対をしたと聞いています。しかも農村地域とあって、あまりに危険だということで、畜産隊員の河内耕一さんがボディガードを兼ねて、セットになって派遣されました。
その頃のバングラデシュでは、女性が外に出るには、黒いブルカをかぶって顔をかくすのが当たり前でした。協力隊のトレーニング服だった真っ赤なトレパンで街中を歩いたり、貸与された真っ赤なオートバイに乗っていると、周囲にはいつのまにか人だかりができ、何度も交通渋滞を起こしてしまう状態でした。よほど珍しかったのですね。
電気がない、水道もない、ガスもないところで、まず生活の場を整えること。ベンガル語もおぼつかないまま、与えられた宿舎で、一から始めなくてはなりませんでした。朝、板の窓を開け放って光を入れようとすると、鉄格子の向こうに、たくさんの子どもたちの顔がならんでいるのを追い払い、手押しポンプで水を汲んで顔を洗うことから1日が始まりました。

2.活動内容

私は農村開発局が行っている女性組合で、生活改善をめざして家庭菜園を普及することを願って配属されました。
イスラム教の強いバングラデシュでは、男性隊員は村の女性たちの姿を見る機会がなく、女性の生活はナゾに満ちていました。配属先のカウンターパートの女性とともに、村をまわり、女性たちの生活を見ること、知ることから活動がスタートしました。
村の女性たちは家の周辺から外に出る機会はあまりなくても、子育ての傍ら、その生活の中で牛、ヤギや鶏の世話をしたり、米をついたり、牛フンから燃料を作ったりと、様々な仕事をしています。そこで家の近くに家庭菜園を作ることを勧めたり、健康のために野菜を食べることの必要性を説明したりしました。
栄養についてもっと詳しく知る隊員がいたら活動が拡がると思い、JOCV事務所に家政隊員の要請を出し、1983年に飯野美恵子さんが来てくれました。飯野さんが来てからは村の生活改善のために何ができるかを共に考え、活動しました。
まず、村々を回って健康のために野菜を食べること、工夫して野菜を作ることを普及するセミナーを開きました。また、彼女は地域の女性たちが上手に刺繍するのを見て、ダッカのクムディニ財団で行っていた刺繍プロジェクトに参加して、女性たちの収入向上を図ろうと開始しました。村から出たことのない女性たちを夜行バスでトレーニングにつれて行き、そこで様々な苦楽を共にしながら刺繍の仕事をスタートさせました。
飯野さんと、そこでできることを手探りでいろいろとやってみたことが楽しく思い出されます。例えば、NGOのMCC(メノナイトセントラルコミッティー)の大豆栽培普及を聞き、栄養改善に役立てたいと、シャシャ郡でも試作してみることにしました。マイメイシン農科大学やチュワダンガ県のMCC事務所から種と根粒菌を分けてもらいに行ったり、事務所近くにデモンストレーション畑を作り、農家に協力してもらって栽培に取り組んだりしました。また、地域の産物を加工して瓶詰めにできないかなどの試みもありました。
私は、1984年に任期終了でシャシャを離れましたが、活動は引き継がれ10年に及ぶJOCVの活動が行われました。
その後、協力隊活動としてBRDBシャシャに隊員は必要ないと言われ、協力隊の活動は終了します。

3.当時を振り返って

シャシャに入った当時は、食事をつくるのも大変。手押しポンプで水を汲み、薪で火を焚き、鍋でご飯を炊いて、まっ黒けになってようやくごはんが食べられます。生活するのが精いっぱいでこれでは大変とお手伝いの村の女性を頼んだのですが、これがまた、人を使ったことがないので、盗まれたりだまされたりと苦労しました。また、文化の違いからこんなこともありました。日本人がお酒を飲んだり、イスラム教ではないということを悪く言いふらす人があったらしく、村の未婚の女性が妊娠したときには、畜産隊員が疑われて、村人が襲ってくると言われ、本当に怖くてダッカに逃げたこともあり、今思い出すと、本当におかしいですね。
また家庭菜園を村で作っていたのですが、せっかく出た芽がヤギや鶏に食べつくされて、がっかりしたことが何度もありました。
ふと周りを見ると、屋根にかぼちゃを這わせていたり、家畜の害がないように工夫して野菜作りをしているお家があり「やはりその土地にはその土地の知恵があるのだな」と、だいぶ後になって気がついて、自分の経験がないゆえのなさけなさに頭を殴られたようでした。
飯野さんがダッカでの刺繍トレーニングに村の女性たちを連れて行った時は、始めての環境で病気になる人、天井についているファン(扇風機)で額を切る人、一生懸命刺繍しても、やり直し、と厳しく言われて落ち込んだりと、大変なことの連続で、それでも女性たちが強くなって自信を持って笑顔で帰って来た様子に驚いたことも忘れられません。
電気のない村、正確に言うと電線は来ているのですが、ほとんど停電であたりは真っ暗、蒸し暑さを逃れて、シャシャの宿舎の屋根に上がって、夜空を見上げたときの、満天の星空!今でも心に残っています。遠くで村の人のさびしげな歌声がかすかに聞こえ、ちらちらと灯油ランプの灯がゆれる。これぞ、バングラデシュ!懐かしいですね。

4.当時と現在のバングラデシュを比較して

私が派遣される前から、先輩隊員たちが稲作など様々な技術指導に熱心に取り組んできた結果なのでしょう、昨年シャシャ郡を訪れた時に驚いたのは、村のすみずみまで乾季の稲作が普及し、整然と田植えがされた田んぼが広がっていることでした。土地の利用は以前とは比べものにならないくらい高度になっています。でもその一方で、やはり農村の生活はあいかわらず、池で水浴び、洗濯でした。
ダッカの経済成長はめざましく、繊維産業の発達や携帯電話、車の普及など、すごい勢いで進んでいます。ダッカでは、かつて低層だったビルに高く高く建て増しされ、立派なオフィス街やショッピング街となっていました。そして、ダッカの繁栄とは裏腹に、農村の生活はおいていかれてます。経済格差が大きく、物価が高くなった分、大多数の農村の人々の生活は苦しくなっています。
協力隊員の任期が終わっても生活改善のために活動を願う有志が「日本・バングラデシュ文化交流会」というNGOを立ち上げました。その後村人の健康状態を調べてみると、栄養状態が悪く、特に6割の子供たちが貧血だというのがわかりました。そして周囲の協力を得て、地元産の大豆を使った大豆入り学校給食を、公立小学校1校で始めることになったのです。現在3校で実施しており、住民自らが参加し、継続してくことができるシステム作りを模索中です。自分たちの子供のために自分たちで負担することをめざして給食の支援をしていますが、まだまだ道は遠いです。日本の皆様の会費・寄付が必要です。ぜひとも多くの方に会員になっていただきたいと願っています。

5.最後に

1981年に私が派遣されてから、すでに30年以上が経ちました。心配された女性隊員の派遣ですが、皆さん元気に、バングラデシュの村でいろいろな分野の活動をしました。女性が外に出にくいイスラムの国だからこそ、女性隊員が必要とされるのだと思います。
思えば、協力隊には配属先と派遣目的があっても、配属先には具体的なプログラムや予算などはなく、悩みながら、何が地域のためになるのか、何ができるのかを考え、自由にさせてもらえたことは、本当に貴重な体験でした。
バングラデシュの人々とぶつかり、その時の駐在員に相談したり、先輩隊員にかみついたり、発展とは何か、協力とは何かについて、どっぷりとその文化につかって思いめぐらせて、なにより私自身が成長させていただきました。
バングラデシュの農村の生活をよくしたいと願って始まったシャシャ郡の活動は、30年以上経った今、地元の協力を得て、皆で自分たちの子どもたちの健康を守り、持続可能な学校給食を、という形でまとまりつつあります。つくづくすごいことだなあと思います。 シャシャの小さな試みが、全バングラデシュに広がっていきますようにと、心から願っています。

(日本・バングラデシュ文化交流会 代表)

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