私達の暮らしが途上国の貧困と無関係でないことに、普段の生活の中でアンテナを張っていただけたら

【画像】熊谷 雄一さん

青年海外協力隊員OB(国:ブルキナファソ、職種:野菜栽培指導)
熊谷 雄一さん

 岐阜大学農学部卒業後、青年海外協力隊として2001年〜2003年まで西アフリカのブルキナファソで野菜栽培指導に取り組む。その後、ハイチの日本大使館専門調査員として現地に滞在。現在は名古屋市のNGO「ハイチの会」の現地プロジェクトマネージャーとして農業支援に従事。
2010年1月12日ハイチでM7.0、死者23万人以上もの犠牲を出した震災が活動中に発生。
帰国後もハイチに足を運び今後の支援内容を模索。愛知県春日井市出身の熊谷雄一さんにお話を伺います。
  (聞き手:愛知県国際協力推進員 佐藤 江梨子)

青年海外協力隊から帰国後ハイチの会(事務局:名古屋市)で働こうと思ったきっかけは何ですか。

 国際協力の仕事を続けたいと思っていたところ、ハイチの会から声がかかりました。それまで全くハイチのことは知りませんでしたが、フランス語が公用語で貧しい国ということを知り、自分の協力隊での経験が生かせるのではと思いました。

ハイチの会の活動について教えて下さい。

 ハイチは1日1ドル以下で生活する国民が56%もいます。その多くが農民です。農村ではわずかな現金収入を得ようと、炭を作るために森林伐採が進み、今では森林率は1%強、見渡す限りの禿山が広がっています。環境破壊が進み、農地は減少、悪循環が続いています。
ハイチの会はこのような貧しい農村の支援に関わってもう23年になります。日本で農業研修を1年間受けたハイチ人青年が代表を務める地元団体「住民家族共同体」を通して、7ヘクタールの共同農園、330名の児童が在籍する小学校、マイクロクレジット、植林、公衆衛生事業などの活動を行っています。初めは30世帯で始まった組織もいまは200世帯が参加するまでに成長し、地区ごとにグループを作って活発に活動しています。「ハイチの会では善意により寄せられた寄付金をもとに、都市部から地方に避難してきた多くの被災民に対し食料配布などの緊急支援を行っています。
 今後も、(前述の)住民家族共同体をパートナーとして、長い目で見た復興支援に取り組んでいきたいと考えています。

2010年1月12日におこった被災時の人々や現場の状況についてお聞かせ下さい。

 地震の起きた当日の朝、私は震源地から10kmのレオガンという町で接ぎ木の講習会を行っていました。夕方に農場訪問を終え、仲間とともにトラックで移動中に、同僚が突然血相を変えて叫びました。「地震だ!」。すると前方の住居が崩れたことによる土埃が高く舞い上がりました。道路の左手の広場には住民があちこちから避難してきました。「子どもが中にいたのに家がつぶれてしまった」と泣き叫ぶ女性、恐怖のあまり泣きわめく子どもたち…。広場は騒然とした雰囲気に包まれていました。

一晩中、10〜20分おきに余震が続き、建物の中は危険なので仲間と野宿をしました。暑いハイチでも夜になると冷えるので、寒さと余震で、ほとんど一睡もできずに次の朝を迎えました。

 明るくなるとすぐに、前日まで宿泊していたホテルに向かいました。交通機能は完全に麻痺していたので、2時間ほどただひたすらに歩きました。コンクリート造りで立派だったホテルは、建物の1階部分がつぶれて見る影もありませんでした。仲良く話をしたミゲルさんというホテルの従業員が、1階にいて生き埋めになったと聞きました。近所の同僚の家に行くと、同僚の母と甥っ子がうつぶせの状態で亡くなっており、家族が悲しんでいました。

首都はひどい有様でした。爆撃を受けた後のような瓦礫の山。白い布に包まれた何十もの遺体。病院の前では、もともとの入院患者に加え、地震で怪我をした人がいましたが、誰も治療できない状態でした。

私は日本大使館に無事を知らせ、知人宅へ身を寄せました。それから2晩避難所生活をしました。その間、避難所では赤十字以外の支援は一切なく、人々は空腹で過ごしていました。人々の間で交わされる会話は、「誰々は生きている」「誰々が死んだ」というのがほとんどで、皆悲しみに暮れていました。地震が起きたときにどこにいたかで生死が決まってしまう—、そんな非情な現実を突き付けられました。その後、陸路でドミニカ共和国へ移動し、1月23日に日本に帰国しました。

震災後の復興にむけてのハイチの支援活動はどのように進んでますか?

 4月に再びハイチを訪れましたが、人々の表情は明るく、市場なども活気を取り戻していました。しかしテントや食料の供給は追い付いておらず、避難所では下痢、皮膚病、風邪などの病気が増加していました。現在は雨季のため、感染症の蔓延が懸念されています。首都の大きな避難所には支援物資が多く供給されていますが、農村部の小さな避難所には支援が届いていませんでした。今回の地震では首都が壊滅的被害を受け、支援活動の中心を担うべき国連機関のスタッフや政府の役人なども被災してしまいました。海外から多くの援助関係者がハイチに入ってきていますが、彼らは被災者への緊急援助に加え、地震の前から存在する貧困の問題にも立ち向かわなくてはいけません。多くの支援金が国際社会から集められましたが、円滑に資金を活用できるだけの体制が整うにはまだ時間がかかりそうです。また、現在は農繁期ですが、農業分野への影響も大きく今後の食料不足も心配されます。

いま被災現場で求められていることはなんだと思いますか?

 前述したとおり、農村部では支援が届いていない地域がまだ多くあります。そういう地域に対して、NGOが率先して入っていく必要があります。地震から約半年が過ぎているにもかかわらず、未だにテント生活の住民が多く、住居の建設もあまり進んでいません。また、ハイチはもともと失業率が6割とも言われていますが、地震後はさらに多くの人が仕事を失いました。公的な資金を生かし、国際機関などによる雇用の創出が期待されます。
最貧国の一つと言われるハイチの最も大きな問題は、貧困の格差です。今後の復興へ向けて、最も困窮した生活を強いられている農民らが軽視されるならば、根本的な問題の解決にはなりません。

この様な状況におかれれいるハイチの人達に対して、私たち一人ひとりにできることはなんですか?

 日本にいてできることは、ハイチを支援している団体への寄付です。復興には10年以上かかるといわれており、継続した息の長い支援が必要です。ただハイチだけではなく、貧困は多くの途上国に存在し、世界には栄養が足りないために1分間に17名が亡くなっています。そのうち12名は子どもです。それが現実です。この状況は人々の「無関心」により助長されています。私達の暮らしが途上国の貧困と無関係でないことに、普段の生活の中でアンテナを張っていただけたらと思います。状況を飛躍的に変えることはできなくとも、一人ひとりの行動は何かを変えていけるはずです。

最後に、熊谷さんの今後の目標をお聞かせ下さい。

 自分の専門性を高め、弱い立場の側に立った発信力を持つ人間になりたいです。例えば現在、ニジェールでは旱魃による飢餓が発生していますが、報道もされず日本ではほとんどの人が知りません。飢餓が発生しても十分に支援が行われていない現実がありますが、深刻な食糧不足が起きる前に予防、対処する、そんな役割を目指していきたいです。

どうもありがとうございました。

 

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