【1月号】国際緊急援助隊−日ごろの活動を被災地でも−

【写真】(所属部署:久居消防署)伊野 匠(いの たくみ)さん(左)三重県津市出身、在住 (所属部署:北消防署)中島 一晃(なかじま かずあき)さん(右)三重県津市出身、在住 三重県津市消防本部
(所属部署:久居消防署)伊野 匠(いの たくみ)さん(左)三重県津市出身、在住 (所属部署:北消防署)中島 一晃(なかじま かずあき)さん(右)三重県津市出身、在住 

2013年11月、フィリピン共和国を襲った台風30号(Haiyan)。JICAは、日本政府に対するフィリピン政府からの支援要請に基づき、緊急援助物資の供与と同時に国際緊急援助隊(以下 JDR)医療チーム(第1次隊から第3次隊)をフィリピンに派遣しました。
今回は、第1次隊(11月11日から24日)の医療調整員として三重県津市消防本部から同時に派遣され活動にあたられた、伊野匠さんと中島一晃さんにお話を伺います。

(聞き手:JICA三重県デスク 南出 幸子)

はじめに津市消防本部での業務内容、またJDRへ登録しようと思った動機についてお聞かせください。

(伊野さん)消防職員を志したとき「市民、県民のみなさんのために働きたい」という強い思いがありました。現在は指揮隊長として、火災・救急救助の現場で活動する隊員の指揮全般を行っています。部下を持ち、自分も初心に立ち返ったときに改めて「現場で働きたい」という思いが募りました。海外にも関心がありましたので、海外の大規模災害現場で活動するJDRへの登録を希望しました。

(中島さん)救急救命士として、火災・救急救助の現場で活動しています。以前から、災害現場の最前線で活動するJDRに興味があり、自身の知識やスキルを向上させたいという思いから登録しました。

JDR医療チームの第1次隊として派遣されましたが、台風30号で大きな被害を受けたフィリピンの現状を目の当たりにしたとき、どのように感じましたか?

被災地の様子

(伊野さん)とにかく、ひどいと感じました。明らかに復興にはかなりの年数がかかると思いました。

(中島さん)屋根が吹き飛ばされ、ヤシの木が折れ、悲惨な現場で、暴風、高潮被害の脅威を痛感しました。コンクリートなどでできた比較的丈夫と思われる建造物でさえ、残っているのは基礎のみで原型をとどめておらず、大変なことになっていると感じました。

JDR医療チームの活動、その中でのご自身の役割について教えてください。

診察を待つ人々の行列

(伊野さん、中島さん)甚大な被害を受けたレイテ島の州都タクロバンに到着するまで、天候や治安状況の悪化などに見舞われ、途中、足止めを余儀なくされました。先発隊が現地情報収集、活動内容、活動拠点選定・確保に向けた調整を進め、私たち本隊は14日にタクロバン入りし、15日から本格的な診療活動を開始しました。初日は、診療を心待ちにしていた被災者の方で行列ができ、途切れることなく応対しました。子どもの患者が多く、全体では、足に傷を負った方が多かったです。現地の人たちは普段、サンダル履きで生活していることから、避難するときや被災後にがれきの上を歩いたためだと思います。骨折してから1週間ほど経って診察にきた方もいて「今までよく我慢したな」と感じました。
私たちは医療調整員として、受診にきた患者の受付や問診、血圧測定のほか、治療の補助などに携わり、さまざまな症状の方、約1,000名の被災者の医療支援活動にあたりました。

現場でのエピソードや、活動を終えての所感をお聞かせください。

医療チームの仲間とともに

(伊野さん)受診に来た赤ちゃんが、生まれて4日目と聞き、高潮が引いたときに誕生した子どもだと知りました。亡くなる命がある中で、この世に生を受けた命。命の尊さを痛感しました。たくさんの方が被災されたなかで、一部の人としか接することができませんでした。しかし助けを必要とされている方に、日本の医療が提供できてよかったと思います。

(中島さん)医療チームの中に折り紙を持参した隊員がいたので、診察を待っている子どもたちに折ってあげました。子どもたちは大喜び!笑顔が溢れ、こちらも心癒されたひとときでした。初めての派遣で不安もありましたが、活動地までの道中、被災風景を目の当たりにし、とにかく何か役に立ちたいという思いが強まりました。東日本大震災では、世界中たくさんの国から援助をいただきましたが、今回はその恩返しとして少しでも支援活動に携わり、貢献できたことを嬉しく思います。今後も何らかの形で関わっていきたいと思っています。

ありがとうございました。災害が起これば突然の呼び出しでも、現場に駆けつけられるよう心の準備をしているというお二人。今後のご活躍を期待しております。