【JICAボランティア活動記】 現地の人の想いを「形」にするお手伝い

2010年2月23日

渡利智子さん
(平成19年度1次隊/ブルキナファソ/村落開発普及員)

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環境教育授業の様子

 ブルキナファソから帰国して、早8ヶ月が過ぎた。日本での生活に追われ、現地での日々が遠い昔のことにように感じることも多い。
 先日、現地での写真を久しぶりに見ていたら、任地に赴任して3ヶ月にも満たない自分が小学校で授業をしている動画を発見した。そこには、単語も文法もめちゃくちゃなフランス語で、子どもたちに必死に伝えようとしている自分がいた。今更ながら、こんな言葉もできない外国人の私を受け入れ、見守ってくれた現地の人に感謝した。それと同時に、言いたいこともうまく伝えられない状況の中で、よくぞ臆せず現地に飛び込んでいったな、と当時の自分に拍手を送りたい気持ちになった。

ブルキナで一番暑い都市

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子どもたちと過ごす時間は楽しかった

 私が配属されたのは、首都ワガドゥグ(Ouagadougou)から北東に260km離れた、サヘル州の州都・ドリ(Dori)。ブルキナファソという国自体、年間降水量500mm前後の乾燥した国だが、その中でもドリは特に雨が少なく、全国転勤のあるブルキナファソの公務員が最も働きたくない州都ナンバーワン(独自調査による)だった。一年のうち、雨が降るのはせいぜい3ヶ月程度。雨が一滴も降らない月が最低7ヶ月はある。滑稽なことに、雨が99%降らない乾季にもテレビでは天気予報がやっている。もちろん、来る日も来る日も、全国の主要都市の上には真っ赤な「お日さま」マークがお目見えする。最高気温は私の町がいつも一番高く、「明日は最高気温が48℃」だなんて予報が出ると、天気予報なんて見なきゃよかったと後悔したものだった・・・。

配属先について

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女性グループのメンバー

 私の配属先は、環境・生活環境省サヘル州局。同配属先への協力隊派遣は私が三代目で、日本人ボランティアがどういう存在なのか同僚や近所の人たちは分かっていたため、とても活動しやすい環境だった。
 2年間という限られた期間。できるだけのことをしたいと、活動の芽を見つけてはいろいろなことに挑戦した。配属先は環境省であったが、「村落開発普及員」という職種の長所を活かして、枠に捉われない活動を目指した。試行錯誤した結果、村の女性グループとの収入向上活動と、小学校・高校での環境教育が活動のメインの柱となった。

「外部者」の可能性

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苗畑で子どもたちと

 赴任する前から、自分、つまり「外部者」の役割とは何か、について考えていた。特に村落開発普及員の私は、医療や農業などの専門性が求められる分野の隊員とはちがって、特殊な技術を持たない。そんな私が現地の役に立てることはあるのかと当初は心配ではあったが、その不安は杞憂に終わった。
 実際現地に行ってみると、素晴らしい技術と経験を持った「プロ」がゴロゴロいた。一方で、技術は持たないが、今の状況をより良くしたいという熱い想いを持った人もいた。ただこれまで、両者はつながることはなかった。そこに、「外部者」の私が関わる可能性を見出した。
 例えば、ある公立小学校の校長は、学校で野菜や苗木作りをしたいという想いを持っていたが、技術や資材を持たなかった。想いは想いのままで、彼の中で留まっていた。私は彼の想いを聞いて、ぜひ協力したいと申し出た。そうして彼との二人三脚での活動が始まった。近所で苗木生産を生業としている人や環境省の同僚などの「プロ」に技術面で協力をお願いし、ポットや種などは環境省から分けてもらった。ポットに詰める土や砂集めはPTAの協力を仰ぎ、牛糞は生徒が家から少しずつ持ち寄ってもらうことで、苗木生産活動が動き出した。苗木の世話は児童らの担当で、実践を通した環境教育を実現することもできた。一年目は数百本だけ生産し、校庭に植えたり生徒に配布したりした。二年目には約4600本を生産し、砂漠化防止プロジェクトに売って学校の運営資金を得ることができた。いつも資金不足に悩み、年度末には教室の電球を交換することもできなかった同校で、今頃は子どもたちが明るい教室で学んでいるのかと想像すると嬉しくなる。
 こうした経験から、「外部者」の役割は、現地に埋もれている資源(人、物、技術等)を結びつけ、現地の人の想いを「形」に変える後押しをすることなのだと学んだ。

世界観の変化

 2年間の任期を終えて現地を去るとき、涙はそれほど出なかった。もちろん2年間をともに過ごした人達との別れは寂しかったが、同じ地球上にいるのだからまたいつでも会える、という思いが勝っていた。2年前に初めてアフリカの地に足を踏み入れる前は、アフリカは遠い、「別の世界」のように感じていた。それが2年後には、「飛行機に17時間乗ればいつでも行ける場所」に変わった。協力隊として現地で過ごした日々が、私の世界観を大きく変えてくれた。
 今後は、国際協力の分野で恩返しをしながら、自分を生み育ててくれた日本社会のためにも働けたらと考えている。ブルキナファソで培ったもの、学んだものが絶対に活きてくると信じている。