タンザニアでの経験が今につながる— 私なりの国際協力

岡山県国際協力推進員
横山 明子(よこやま あきこ)

—国際協力のきっかけ—

大学3年でタイの大学に留学し、村落開発のボランティア活動を行った。(上段右端が横山)

子どものころに父親の仕事でタイに住んでいたことをきっかけに、将来国際協力の仕事に就きたいと思うようになりました。大学ではタイ語を専攻し、大学4年生のときから、途上国の社会開発を専門とする開発コンサルタント会社のタイ事務所でアルバイトを始め、卒業後そのまま就職しました。新卒の私は、会社の先輩たちがJICAなどの政府援助機関から受注した調査や評価、ワークショップの仕事のアシスタントをしていました。タイ語を使って、タイの人たちが日本の政府開発援助によってどのような影響を受けているのかを直接確かめることは、とてもワクワクする仕事でした。日本が戦後補償でチャオプラヤ川に架けた橋の上でバスを待っている人に話を聞いたり、舗装されていない山道をひたすら歩いてチェンマイの山岳民族の村々に行って暮らしが良くなったかを確かめたりしました。
大学卒業後、希望通り国際協力の仕事に就くことができたものの、社会人としてのマナーができていないと怒られることも多かったです。会社の先輩から「あなたは、タイ人にとって都合の良い人間でしかない」と言われて担当から外された時には、善意だけで国際協力の仕事はできないと思い知らされました。帰宅時はハイヒールからスニーカーに履き替えてダッシュで帰る、時には会社に残り徹夜で仕事、という毎日でした。

—アフリカでの経験—

タンザニア包括的マラリア対策プロジェクトの日本人専門家とプロジェクトスタッフ

県のマラリア対策プロジェクトの看護師対象の研修。講師は各県の保健局職員

コンサルタント会社で働き始めてから3年が経った時に、タンザニアのJICA包括的マラリア対策プロジェクトの研修コーディネーターとして赴任することになりました。アフリカに行くのは初めてでした。私の仕事は、タンザニアのプロジェクト対象15県で、現地の看護師や検査技師を対象とした研修を行うための調整業務を行うというものでした。プロジェクトは、常時、日本人2名、タンザニア人3名の5名体制でした。そして、プロジェクトの活動内容によって、日本からの専門家、タンザニアの大学教員や現地コンサルタントが加わりました。生活の拠点は最大都市のダルエスサラームでしたが、月に半分以上はプロジェクトのスタッフと一緒に地方を回り、研修を実施する生活でした。地方に行っても、来てくれてありがとうと言われることはあまりなくて「日本人がチェックに来た」と警戒されたり、タンザニア人の研修講師たちから「もっと講師の手当を増やしてほしい」と要求されたりすることの方が多かったです。それでも、一日10時間以上も車に揺られながら、ひたすら広がるアフリカの広大な大地を眺めていると、ふとした瞬間に「日本人とタンザニア人が同じ目的のために進んでいるのかな」と感じることもありました。3年間のプロジェクトで、看護師だけでも558人に対して集団研修や実地研修を提供することができました。JICAの事業として15県で実施した看護研修は、その後アメリカ政府の資金によって全国規模で展開されました。
タンザニアで働いているときに「アフリカでチャンスをつかむのは10年に1本来るバスに乗るくらい難しい」と聞いたことがあります。そのバスに乗るために必死になる人もいれば、バスに乗ることを最初から諦めている人もいると。私は10分に1本はバスが来る日本に住んでいて、途上国の人がチャンスをつかむことがどれだけ難しいことか、そして自分の目の前にチャンスがたくさんあることにも気づいていませんでした。アフリカに行って変わったことがあるとすれば「私が途上国の人のために何かをしてあげる」という一方的な支援を考えるのではなく、双方にとってメリットになる仕事の仕方を考えるようになったことです。そして、日々の生活では、勉強する機会があること、打ち込める仕事があること、家族と一緒に生活できること、そのひとつひとつに感謝するようになりました。

—推進員として—

出前講座や写真パネル展、勉強会、国際協力に関する相談をしています。

タンザニアから帰国してもう10年が経とうとしています。今は二人の子の母として、仕事と家庭を両立する毎日です。日々の生活に追われて「疲れた〜!」と思うときに頭に浮かぶのはタンザニアで逞しく生きるお母さんたちの姿です。私も負けていられないと、頑張る力が湧いてきます。国際協力推進員として、岡山県内の学校や公民館などを回り、タイやタンザニアで感じたことを知ってもらうことや、国際協力のきっかけづくりをしていくことを、これからも続けていきたいと思います。