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【研修レポート】日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画in広島〜マツダミュージアムと広島平和記念公園を訪問しました〜 Vol.3

2016年4月4日

日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画による33名の研修員は3月7日に来日し、約7週間、名古屋に所在するJICA中部にて日本語研修を受講後に、各研修員の専門分野の研修を受ける予定になっています。今回の広島訪問は2泊3日の日程で実施しました。広島での研修はどのようなものだったか、3月25日の研修の様子を紹介します。

平和都市ヒロシマの歩み

研修員の国の復興・開発・発展に活かせることは何か、平和で安定した国際社会の実現のために貢献できることは何かを一緒に考えることを目的に、藤井正一先生に講義をしてもらいました。ポイントは「未来に向けた都市作り」「市民の団結」「世界の人々の繋がり」の3つです。

まず、原爆が投下された広島の被爆前について、位置や西日本の政治・経済の中心であったこと、また軍都でありながら学都でもあり、製造業も盛んだったことが説明されました。

では、原爆の被害は どのようなものだったのでしょうか。
1945年8月6日 午前8時15分に広島上空約600メートルで炸裂した原子爆弾。熱線は、鉄が溶ける温度1,500℃に対し、原爆では約3,000 〜4,000℃(地表面)。爆風は、爆心地近くで秒速440メートル。放射線は、爆発後も長時間にわたり残留放射線を地上に残し、肉親や 同僚などを捜し、また救護活動のため被爆後に入市した人々が、直接被爆した人と同じように発病、または死亡するという、驚異的なものでした。死者数は、その年の年末時点で、14万人(±1万人)。2015年8月までに慰霊碑に記帳された被爆者数は29万2,325人です(※この中には外国人も含まれています)。建物は約90%がほぼ壊滅し、都市部に集中していたインフラもほぼ全滅しました。

この壊滅的な被害を受けた広島はこの後どのようにして復興していったのでしょうか。
大きな特徴としては、「軍都」から「国際平和文化都市」へ転換したということが挙げられます。行政、経済界、住民が一体となって「平和都市」というアイデンティティを形成しました。行政・警察機能が温存され、治安・秩序が保持できたこと、復興という目標に向けて、市民が一致団結し強い信念を持って活動できたことも大きかったようです。また国の復興事業として、いち早く戦災復興病院が設立されました。当初の復興計画では、財政難や人材難など様々な困難に直面しましたが、広島平和記念都市建設法が制定され、国からの特別補助があったことにより復興が推進できました。

インフラの応急復旧はどうだったでしょうか。
水は、4日後に送水ポンプが稼働したものの漏水などが続き、復旧まで9ヶ月。ガスは、8か月後に再開。電気は、2日後に一部送電開始しました。列車は2日後に一駅間開通、電車は3日後に一部区間で運行開始。金融は、倒壊を免れた日銀広島支店に、市内12の銀行が集まり、2日後に営業を再開。通帳、印鑑提示を求めず、預金の引き出しができました。全域での復旧には時間を要してますが、各インフラともに最初の稼動までの日数が戦災後あまり経ってないことに驚かされます。

復興計画の提案として、戦災翌年には、広島市復興審議会や新聞・雑誌などへ、34もの復興構想が提案されました。都市移転構想や河岸緑地化構想など多様性、理想を追求した意欲的なプランが多かったことが特徴です。

復興の過程の中で、伴ったのが痛みです。復興都市計画で、道路や公園に指定された場所には住む場所を失った人々が不法に住宅や店舗を建てていました。それを強制撤去しなければならないという厳しい現実。撤去する側も撤去される側も心が痛んだはずです。広島市は人口に対し、製造業が盛んな都市でした。事業所や労働人口が減少し、大きな打撃を受けたため、産業の再建には労働者の確保が不可欠でした。そのため、市外の労働者や女性労働者の雇い入れを積極的に行いました。軍事施設の民間転換や朝鮮戦争の特需などは製造業の経済を活性化する転機となりました。

これらの復興に大きく貢献した、広島の父とも呼ばれる濱井信三さんや海外からの支援もあり、平坦な道のりではないながら、前へ前へと前進し続けました。原爆被害の惨状を知り、直ちに連合軍司令部へ救援を要請したスイスの医学者、マルセル・ジュノーさんは有名です。他にもノーマン・カズンズさん、フロイド・シュモーさん、バーバラ・レイノルズさん、ハワイや北米、南米など広島県人会の方々の支援や協力、市民の復興しようとする強い意志や信念があったからこそ、広島は復興することができました。

平和都市となった広島は、記念式典開催・平和宣言、平和運動や平和教育、平和首長会議など、核兵器廃絶と平和の尊さを訴え続けてきました。平和首長会議の参加都市は161カ国・地域の7028都市に広がっています。これは、世界人口の1/7を占めています。(2016年4月1日現在)      

最後に藤井先生から、広島復興の大切な要素が6つ伝えられました。
【1】破壊は終わりではなかった
【2】復興は破壊前から継続していた価値を取り戻す営みであった
【3】平和を希求する姿勢を貫くことが大切
【4】多くの摩擦、対立、衝突を克服することが、より強固なものを生み出す
【5】問われているのは、市民ひとり一人の主体性
【6】人間が犯した過ちは人間の手で復興することができる

原爆により、「70年は草木も生えない」といわれていた広島市。戦後70年経った今の広島市はどうでしょうか? 立派に復興を遂げ、自然豊かな人口119万人の大都市へと成長しています。

研修の感想は?

【画像】この研修終了後、研修員を代表してクリスティーナさんに感想を聞きました。
研修全体の感想は、「広島で起きた原爆の事実を知ることが大事だと思った。個人的には原爆ですべて失った後に復興していった人たちの強さにひかれた。戦争はよくないこと。核兵器や原子力をなくしていく気持ちを持つことが大事」だと話します。一番印象に残った場所は、慰霊碑だそう。「公園の真ん中にあるし、亡くなった方全員の名前が書かれているし、亡くなった方の魂をなぐさめる壮大さがある。また、原爆ドームは、原爆が落ちたのに何で残ったのだろうという疑問もあるが、印象深い建物だった。」
最後に「平和を継続するためにはどうしたらいいと思いますか?」という質問をぶつけてみました。返ってきた答えは「tolerate」でした。
「違う文化や人種を理解・尊重する上で、許容することは大事。そういった(理解したい、尊重したいと思う)心を持ち続けたい。」と締めくくってくれました。

日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画について

1971年、当時の大統領だったメキシコのエチェベリア氏が打ち出した構想に基づき、両国間の相互理解と友好親善を増進することを目的に、日墨研修生・学生等交流計画(日墨交流計画)がスタートしました。日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画は、この交流計画を発展させた事業で、国際社会の平和及び安全、経済問題、気候変動、核軍縮・不拡散、経済成長の推進等の地球規模の課題に対処するための「戦略的グローバル・パートナーシップ」強化に向けた若手人材育成を目的に、日本・メキシコ双方の学生・技術者を対象に研修・研究を積む機会を提供するものとして2010年より実施しています。