【実施報告】ペルー日本人移民120周年記念講演会「マチュピチュ村を拓いた男 野内与吉とペルー日本人移民の歴史」

2020年3月13日

山口会場の様子

開催概要:各回とも13時から16時
・2020年2月22日(土)山口県旧県会議事堂
・2020年2月23日(日)(公財)広島県男女共同参画財団「エソール広島」研修室
・2020年2月24日(月・祝)岡山国際交流センター レセプションホール

主催:一般社団法人 野内与吉資料館、日本マチュピチュ協会、JICA中国
共催:山口県ペルー協会(山口会場のみ)
後援:在日ペルー共和国大使館、在名古屋ペルー共和国総領事館、マチュピチュ区役所、ペルー日系人協会(APJ)、JICA横浜 海外移住資料館、広島県、広島市、岡山県、岡山市、岡山市教育委員会、山口県、山口県教育委員会、山口市、山口市教員委員会、(公財)山口県国際交流協会
協力:ペルー日本人移住史料館「カルロス・千代照平岡」、天野プレコロンビアン織物博物館

日本人が開拓したマチュピチュ村

野内セサル良郎さん

 2019年はペルーに日本人が移住して120年の年でした。多くの日本人が新天地を目指し、様々な困難に遭遇しながらも、かの地で日系社会を形成してきました。ペルーといえば、年間100万人もの観光客が訪れるマチュピチュ遺跡が有名ですが、その背景には玄関口であるマチュピチュ村の開拓がありました。そのマチュピチュ村を創り、発展に尽くしたのが、福島から移住した日本人、野内与吉氏でした。
 野内セサル良郎(以下、セサル)さんは野内与吉氏の孫にあたります。ペルー共和国クスコの出身で、16歳で家計を支えるために来日し、働きながら学校に通いました。大学では、祖父の功績をまとめるべく、野内与吉氏と日本人移民の歴史を研究されました。
 21歳で契約移民としてペルーに渡った与吉氏は、マチュピチュまでの鉄道拡張工事に従事し、それを機にマチュピチュに移り住みました。当時何もなかった集落に小さなモーターを使った水力発電で電気をもたらし、たまたま温泉を掘り当てたこともきっかけとなり、ホテルを開業したそうです。それを自身のビジネスとして展開するだけでなく、建物の一部を村の郵便局として提供するなど、地域に貢献していきました。
 セサルさんは来日当初、生活習慣と言葉が異なる中、仕事も重労働で何度も挫折しかけたと言います。心無い人から「お前ら外国人のせいで俺たちの仕事がなくなるんだ」と言われたこともあったそうです。「でも、どんな過酷な労働環境でも、何事もあきらめなかった祖父を思い、頑張ることができた」と言うセサルさんは、2014年に日本マチュピチュ協会を設立し、現在も日本とペルーの架け橋となるべく活動しています。

移住の歴史と現在、そして中国地方との関係

広島県立文書館名誉館員の安藤福平さん

元日系社会青年海外協力隊員の森清将史さん

 山口、広島、岡山は全国的にも移民を多く輩出している県です。今回の講演会ではセサルさんの他、各会場にゲストスピーカーを招き、各県と移住の関わりをお話頂きました。
 山口会場には120名もの方が来場されました。そして、山口県ペルー協会副会長の湯田克治さんより、山口県の移住の歴史と現在同協会が行うペルーの日系社会への支援活動も紹介されました。
 広島会場では、広島県立文書館名誉館員の安藤福平さんに、広島から米国への移住の歴史を、多くの写真と資料をもとにお話頂きました。広島は全国で最も移住者の多い県です。その理由、背景なども解説して下さいました。48名の参加者からは「移住され、一生懸命生きた方の考え方や想いを知ることができた」「今の日本人が忘れてしまった大切な心を日系人が引き継いでいることが分かり、良かった」といった声があがりました。
 岡山会場では、日系社会青年海外協力隊員としてブラジルで野球の指導を行っていた森清将史さんが、たくさんの動画とともに、現在の日系社会についてお話下さいました。世界各地の日系社会の中でも、日本文化が色濃く残されているのがブラジルです。盆踊り、餅つき、少年野球の試合、カラオケ大会など、日系の人々はいきいきと、自身のルーツの文化を日本語で楽しんでいました。
 またすべての会場で、ドミニカ共和国で日系社会青年海外協力隊員として活動した経験を持つJICA中南米部の藤井寛之が、自身の体験を交えながら、JICAが行う日系社会支援事業を紹介しました。
 現在、日本にも多くの外国人が暮らし、言葉や習慣の壁で苦労している方が大勢います。移住者の歴史や日系人の足跡を学び、知られざるもう一つの「ニッポン」を見つめ直すことは、今後の地域の国際化や多文化共生の促進にきっと役立つことでしょう。