ドミニカ共和国における日系社会について

第二次世界大戦後、日本政府は海外移住振興策を打ち出し、ブラジルへの移住が再開されたことを契機として、その他の中南米諸国への移住も相次いで始まった。このように、日本で海外の新天地を目指す気運が高まる中、ドミニカ共和国においては、トルヒーヨ政権が、ハイチとの国境地帯の防衛強化を目的とした入植・開発計画を打ち出していた。

そうした両国政府の意向が最終的に「日本人のドミニカ共和国への農業移住」という形で結実し、1956年7月26日、日本人移住者第一陣28家族185人を乗せたブラジル丸が25日間の航海を経て、サントドミンゴ港に到着した。そして彼らは、7月29日、夢と希望を持ってダハボン移住地に入植した。その後1959年9月までの3年3ヵ月間に13回にわたり、8入植地に合計249家族1,319人(うち5家族32名は漁業移住者)が入植した。

しかし、当時、国境地域の入植地は農業に適さない不毛の地も多く、その過酷な自然環境とも相まって、農業で定住することは困難を極めた。その結果、他の南米の国へ再移住する者(南米移住70世帯376名)、夢を諦め日本に帰国する者(集団帰国133世帯611名)が多数出る中で、ドミニカ共和国での農業移住に夢と希望を持ち続けた移住者達(残留約100世帯500名)は、開拓精神と日本人としての誇りと尊厳を保ち、不屈の精神で多くの諸困難と立ち向かった。

今、半世紀の時を経て、これら移住者は今日の日系社会の礎を築き、日本人の信頼を不動のものとし、東洋野菜の普及に代表されるドミニカ社会への大きな貢献を果たした。

現在は、当初移住地で農業経営をする移住者家族が減りつつあり、移住者家族の多くが首都サントドミンゴを始めとする都市に住んで農業以外の事業をしている。

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