【阪神・淡路大震災20年 復興の経験を世界と共に】2 2015年度新規研修「災害に強いまちづくり戦略」コースリーダーに聞く PART1

現在、公益財団法人 神戸都市問題研究所常務理事で研究部長を務める本荘雄一(ほんじょう ゆういち)さんは、JICA関西で2015年1月12日から3月 7日まで実施する「災害に強いまちづくり戦略」研修のコースリーダーです。阪神・淡路大震災発生時から20年間にわたって神戸市の復興に携わり、2007年からはJICA関西(当時はJICA兵庫)で実施した研修コースのコースリーダーも務められました。そんな本荘さんに、当時の業務を振り返り、防災研修にかける思いについて語っていただきました。

阪神・淡路大震災復興に携わって

研修中の本荘さん

研修員のグループワークで指導する本荘さん

本荘さんは、1995年1月の震災当時、神戸市職員として神戸市の長期計画(マスタープラン)策定に携わっておられました。同年1月 17日に阪神・淡路大震災が発生する直前まで、まさにその年1月末の公表に向けて準備中でした。この神戸市長期計画は、被災時の3年前から改定作業を開始しており、完成まじかでしたが、震災のため改定作業は凍結されました。そして、震災発生直後の業務は、初動応急対応として、ボランティア受入窓口を担当しました。

当時の地域防災計画には、災害発生時の応急対応のためのボランティア受入に関する項目はなく、受入窓口も決めていませんでした。しかし、阪神・淡路大震災は大規模災害であったため、災害対応には、市の職員だけでは手が足りず、ボランティアに協力をお願いすることとなりました。神戸市のボランティアの受入窓口は、急遽、「職員研修所」及び当時本荘さんが所属されていた「長期計画策定部署」が担当することになりました。

市では、それまで緊急災害時のボランティア受入の経験がなく、平常時の対応でボランティアを受入れましたが、受入に課題が生じました。その経験をもとに、ボランティアの受入態勢として、全国的に、社会福祉協議会を核としたボランティアセンターが設置されることになりました。

当時の笹山神戸市長が、震災から9日後の1月26日に、復興計画の策定を表明しました。策定にあたっては、長期計画づくりの実務経験を活かすべく、本荘さんも復興計画づくりにかかることになりました。そして、「神戸市復興計画」は、震災発生の年6月末に確定し、一般公開されるに至りました。

JICA:
阪神・淡路大震災の発生当時、兵庫県と市との連携はどのようになっていたのですか?

本荘:
初動応急対応は、「災害救助法」という法律に従って活動することになっており、「災害救助法」では、県が地域の窓口を担い、市はその補助執行という役割分担になります。また、各市が、独自に復興計画を策定し、それをとりまとめて、県が県の復興計画を策定しています。

JICA:
この出来事を経て、1995年はボランティア元年と称されました。日本社会でボランティアという言葉と行動が一般市民に受け入れられるようになった最初の出来事ではないでしょうか。震災直後のボランティア受入対応と「神戸市復興計画」を策定し、推進されてきたご経験は、JICAの研修の担当にどのようにつながっていったのでしょうか。

本荘:
復興計画の進行管理を10年間担当してきました。通常3年ぐらいで、市の職員は人事異動がありますが、私の場合、異動がなく継続して業務にあたることができました。その5年目、復興計画の折り返し地点で市民の皆さんと震災から5年間の復興の取り組みを振り返る検証を行い、さらに復興計画の終了を迎える10年目に、2度目の復興検証を行いました。復興業務に長期に就いたことで、様々な経験や教訓を得ることができました。丁度その頃JICAで復興支援の研修コース立ち上げ準備をされており、海外からの研修員の方々にこれらの教訓を伝えていくことが重要であるとの認識から、研修の担当者から声をかけていただきました。研修の実施委託機関は、財団法人 神戸市国際協力交流センターでした。プログラムのデザインや内容についてのノウハウを伝えるため、コースリーダーという形でかかわることになりました。神戸市は、震災後5年目、10年目の復興の検証において、世界からの励ましや支援への感謝を込めて、復興中に得た経験を次の世代、世界に対して積極的に発信していくことを打ち出しました。他の国で災害が起こった時に、阪神・淡路大震災の経験・教訓を活用してもらいたいという思いで、JICA研修を世界への発信の場としての位置づけと考えています。
そのような阪神・淡路大震災からの教訓を世界へ発信しているJICA関西が、「人と防災未来センター」などが設立された震災復興の街、HAT神戸にあるということは意義深いことだと思います。