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【阪神・淡路大震災20年 復興の経験を世界と共に】5「地域住民と作る災害につよい街」〜コミュニティファシリテーションの手法を教える中田コースリーダーに聞く〜

研修中の中田さん

特定非営利活動法人ムラのミライ代表理事を務める中田豊一(なかた とよかず)さんは、「ボランティア未来論」(参加型開発研究所出版)や「途上国の人々との話し方(みずのわ出版/和田信明共著)などの著書を持ち、長くNGOで仕事をされてきた、住民参加型開発ファシリテーションの先駆者のひとりです。JICAでも、ラオスでの専門家を始め様々な案件に携わっていただいています。研修事業では、過去10年間JICA関西(当時はJICA大阪)で実施してきた「JICA-NGO連携実践的参加型コミュニティ開発手法」研修のコースリーダー、2014年からは「紛争解決と共生社会づくりのための実践的参加型コミュニティ開発」研修のコースリーダーとして、紛争地域からの研修員を対象に住民を巻き込んだ平和な社会づくりの手法を教えています。また、防災関係の研修でも、「災害に強いコミュニティづくりに向けたボランティアマネージメント」コースのコースリーダー、2015年1月に始まる防災分野の新規研修「災害に強いまちづくり戦略」コースでも講義を担当し、地域住民参加型の防災対策のため、コミュニティファシリテーション手法を指導しています。今回は、中田さん御自身の阪神・淡路大震災原体験によって何を感じ、NGO関係者として、災害発生緊急時のボランティア組織ネットワークをどう立ち上げたのか、何が大切なポイントなのか、我々は何を学ぶことができたかなど、体験に基づく気づきをどう現場に活かしてきたかについて語っていただきました。

阪神・淡路大震災の発生時に

2012年度研修「災害に強いコミュニティづくりに向けたボランティアマネジメント」コースの研修員と陸前高田市を訪問(左端が中田さん)

JICA:阪神・淡路大震災発生時には、どのような活動をされていたのでしょうか。

中田:震災が発生した時は、東京から尼崎に引っ越して3週間目で、どこにも所属していませんでした。震災時の揺れは激しく家具が倒れてきたり家財道具が壊れるなどの被害はありましたが、幸い、自分のいた集合住宅自体の被害はそれほど大きくありませんでした。神戸の三ノ宮あたりの被害がひどいと聞き、そのあたりで建物が残っていた「神戸YMCA」に行ってみることにしました。周囲のビルや住宅は倒壊し、道路もぼこぼこに穴が開き、電柱が倒れた道を歩いて、何とかたどりつきました。そこで、以前から知り合いで財団法人PHD協会(現在は公益財団法人)の総主事をされていた草地賢一さん*1にばったり会いました。草地さんからは、我々は直接救援活動をするのではなく、これから日本全国で様々な人々が救助活動を始めるだろうから、緊急援助活動をする団体のネットワークが必要になるので、それらの団体のネットワーク組織を作ろうとしているのだが、いっしょにやらないかと誘われました。断りきれない私は一緒にやることになりました。当初は、神戸YMCAの施設を使わせてもらい、「阪神大震災地元NGO救援連絡会」を立ち上げました。草地さんはPHD協会の総主事であったため、神戸YMCAの主事の方に事務局長になっていただき、私は事務局長代行になりました。最初は自宅にあった自転車を使って通っていましたが、道の崩壊がひどく、タイヤがすぐにパンクするなど困難をきたしたため、マウンテンバイクを購入し、自宅のある尼崎から通っていました。その時の生活は、連絡会議事務局に何泊か泊まり込んで活動しては、自宅に帰って必要な身支度をし、また、翌日事務局に行って泊まるといった毎日です。三ノ宮でも地区によって被害の状況が違い、淡路島からつながっている平地部分は活断層があるためか、被害が大きく、一方、北野坂の上あたりはそれほどの被害でもありませんでした。

活動を始めた最初のころ、PHD協会でボランティアをしていた人々が集まり、連絡会議としての活動を始めました。私自身は関西に引っ越してきて日も浅く、この地域のことも地名も固有名詞もわからず、最初の頃は、自分の無力さに苛まれる日々でした。

衝撃的なことは、以前バングラデシュに赴任していた頃から通算して10年間というもの、安全と防災対策のために肌身離さずアーミーナイフと懐中電灯を枕元に置いて毎晩寝ており、いつ何が起こるかわからないという意識で生活していたのですが、関西に来てからはすっかり安心してしまい、その習慣もやめてしまっていました。そんな時にあの震災が起こりました。関西には地震がないと言われていたことを鵜呑みにし、あんな大きな地震が起こることは夢にも思っておらず、そんな中で、あの地震に遭遇し、世の中何が起こるかわからないのだということを、身を以て痛感した出来事です。

JICA:震災後、具体的に被災者支援に関してどのような活動を始められたのですか?

中田:私自身は関西地域には土地勘がなかったので、神戸YMCAなどに間借りしていた事務局に陣取って、ボランティアの人たちに自分の足であちこち行って見聞きしてきてもらい、情報を得ていました。最初の頃のボランティアは、草地さんの(公財)PHD協会のボランティアの方々が中心となって集まってくれました。ボランティアの方々からは、例えば、あちらの避難所になっている公園には、すでにあのNGOが入って活動している、そちらの小学校には、別の団体が入って救援物資を配布している、などの色々な情報が入り、周囲の状況が少しずつ見えてきた頃、救援活動をする団体の情報交換の場として、震災から2週間後くらいに第一回救援連絡会議を計画しました。会議の開催を知らせるビラを作り、あちこちで配ったところ、当日は40団体ぐらい集まりました。当初、どれぐらいの団体が集まってくれるのか全く予想できなかったので心配していましたが、予想を超える数の人々が集まりました。あの時、救援活動をしている団体はみな孤立していたので、みんな情報が欲しかったのだと思います。みんなで集まって情報交換する場として、元町のビルの1階を借り、第一回の会議を実施しました。そこにはまだ電気も来ておらず、暗く寒い中、ぎゅうぎゅうに詰めて座り、集まった一人一人が、皆の前で、「私は〜です、今、どこそこでこんな活動をしています。私にはこういう技能があります。今不足しているものは〜で、〜を必要としています。」ということを話してもらい、集まった情報を記録して、データベースを作成しました。

このようなやり方には、草地さんや私が、以前途上国で緊急援助活動をした時の活動経験が活かされました。地元の情報がないと何が必要か、何をしてよいかわからないため、地元の情報を集め、外から来た団体に何ができるのかを知らせる役割を果たそうとしました。幸い、多くの団体が集まり、そこには、TV局を始めとしたメディアもたくさん集まり、多くの取材を受けました。

また、その活動から、たくさんのNPO が生まれました。例えば、「市民活動センター神戸」、「被災地NGO協働センター」などです。また、難民として定住しているベトナム人の方々が公園で野宿しているという話を聞き、外国人を援助する団体が必要だということで、「外国人救援ネットワーク」が設立され、その後も活動が継続しました。震災発生の3年後1998年には、特定非営利活動促進法(NPO法)*2が設立され、この緊急援助活動から発展して独立したNPOが多く立ちあげられ、テーマごとに分かれて独自のNPO法人として現在まで活動が継続されています。

私は、実質4か月ほど活動を続けました。その間に、事務所は毎日新聞社ビルに移り、記者部屋を活用させてもらい、皆で雑魚寝して泊まり込んでいました。その頃は、2~3泊しては、自宅に帰る生活が続きました。2週間に1回程度会議を開いて情報共有を進めるうちに、それぞれの団体が担うテーマが絞られていきました。仮設住宅の問題もまだ見えてこず、活動する中で、それぞれの仮設住宅が抱える問題が共有されだしました。行政との連絡に関しては、草地さんが行ってきました。

復興に携わった経験から、研修員に伝えていきたいもの

2014年度研修「紛争解決と共生社会づくりのための実践的参加型コミュニティ開発手法」コースのオープンセッションで(中央が中田さん)

JICA: 中田さん自身は、ここでの活動経験の後、関西でNGOに入られ、その後、JICAの仕事をされる中で、研修も担当されることになりました。この時の緊急援助活動経験を通じて、防災に関して伝えたいことは何でしょうか。

中田:経験がないと何か起こった時に対応するのは難しく、あの震災は、規模としても未曾有でした。明日どのように状況が変化するかわからず、日に日に変化するニーズに対して救援サービスが追い付いていきません。備えがなければ、何もできないということを身を以て体験しました。あのような都市型災害に対処するのはいかに大変なことであるかということを原体験から伝えていきたいと思います。


JICA:中田さんにコミュニティファシリテーション手法の講師を務めていただく、「災害に強いまちづくり戦略」研修コースにおいて、研修員に対してこれだけは伝えたいものとは、何でしょうか。具体的にどのようなことを教えられるのでしょうか。

中田:災害を経験していない住民に対して、災害に対して強い意識を持ってもらうことは基本的にできないと思って臨まなければなりません。同時に、過度な期待をすべきではないという前提で進めなければなりません。また、経験があっても人は忘れやすい生き物であり、それを前提にして何ができるかを行政、地方の組織や団体で考えなければなりません。実質的に機能するものは何かを常に見極めていくことが必要でしょう。 その一つの例として、先日TV番組で見たのですが、インドネシアから東日本大震災の被害にあった東松島に来ていた研修員が、参加した研修で学んだことを、帰国してから、アチェ*3で実践しようと試み、災害に強い街づくりを進めています。しかし、すでに住民は生活のため、どんどん海側に家を建てている現状があり、住民にとってみれば、まずは自分たちの慣れた土地で生活を再建し、生活の糧を得て家族が生活していかなければなりません。もちろん、それで長期的な社会再建の計画が進むわけでなく、長い時間がかかっても、地域の住民と自治体が一緒に再建に向けて進んでいくことが大事です。少しずつ着実に若い世代に防災教育をしていくことは大切です。ひとつひとつできることは沢山ありますが、絶対やっておいてよいのは、避難訓練だと言えます。

あとは、事前にシミュレーションができていれば、過去の経験から学ぶことができます。例えば、老人用のおむつが足りない、と言われてこの情報を発信したところ、数日後には、続々と届くようになりました。そうこうしている間に、避難所に仮設トイレが整備され、それほど多くのおむつは必要でなくなったため、大量に余ってしまいました。このように、被災地の現場では状況が刻一刻と変わり、状況の変化が激しいということを知らなければならなりません。

今回、東日本大震災被災現場では、阪神・淡路大震災での経験から多くを学んでいるので、制度も機能もくらべものにならないほどに整ってきたと言えます。

また、昨今、情報通信の能力が変わってきたので、バックアップシステムをたくさん作っておくことも大切だと思います。私自身は、今回の研修コース(災害に強いまちづくり戦略)では、これまでの教訓を、いかに住民から引き出していくかという手法を教えます。防災に関しては、絶対的なルールがあるわけではなく、経験と教訓から学び、制度や手法について改善していくことしかないのではないかと考えます。


JICA:ご自身にとって、阪神・淡路大震災の緊急援助活動に携わったことで、どんな変化がありましたか。

中田:地震を身を以て体験したことで、その恐怖心は今でも覚えており、地震が怖くなったことは、非常に大きな経験です。私自身は、この活動を通して、阪神エリアの社会や人々にネットワークができて、地域社会に溶け込むことができました。その時にできたネットワークがその後の人生に大きく生きています。東日本大震災の後、ボランティアセンター立ち上げのときにコーディネーターのリーダーとして現場に行ったのは、全員この震災の時に活動した人々でした。20年前に阪神でボランティアセンターに直接かかわった人々が、それぞれの自治体の社会福祉協議会から送られたりもしました。日本全国どこの地域でも、まず、ボランティアの受け入れと活動の窓口である「社会福祉協議会」がしっかりしていることは、地域社会や住民の防災への備えについて重要な点です。

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*1 草地 賢一(くさち けんいち)さんは、YMCAやPHD協会で活動し、阪神大震災発生後、阪神大震災地元NGO救援連絡会議を立ち上げ、NGOの連携と行政との対等なパートナーシップを立ち上げた人物で、その活動は国内にとどまらず海外での災害発生現場に必ず足を運んでボランティア活動を行った牧師。1999年没。(出典:ウィキペディア)
*2 国のNPO法人認定制度は、2001年10月に、認定特定非営利活動法人(認定NPO法人)制度として創設され、翌年2002年には、兵庫県が、NPOの支援拠点「ひょうごボランタリープラザ」を開設。この時の活動から多くの市民団体が生まれた。
*3 2004年12月スマトラ島沖で発生した地震と津波によって、甚大な被害を受けたインドネシア、アチェ州アチェ市の職員が、東松島市の復興の経験を共有し、互いの復興に役立てるため1年間研修員として来日した。