自宅近くにて
役職名 土木技師(Civil Engineer), BIコンサルティング (BI consulting)
名前 Mr. ABEL Larry (ラリー)
研修コース名: インフラ(河川・道路・港湾)における災害対策
研修期間:2016年5月17日から7月15日まで
妹の卒業式で家族と(一番左)
私はこれからコミュニティにそして世界に自身の足跡を残したいと思っている、2年前に大学を出たばかりの若くエネルギー溢れるエンジニアです。私は南太平洋のオーストラリアとフィジーとの間にあるバヌアツ共和国の小さな島で育ちました。5人兄弟のうち、私自身も含めて3人が社会人として仕事をしていますが、私だけがエンジニアです。日本と同じようにバヌアツの親にとっても高い教育費は負担です。そのため私も兄弟も奨学金を受けて大学へ進学しました。バヌアツの利点は教育が英語若しくはフランス語で行われており、第二言語を6歳から7歳から学びはじめることです。オーストラリアの都市や日本を訪れ、バヌアツ出身であることはラッキーなことだと感じました。というのはバヌアツについて詳しく説明する必要がないからです。グーグルイメージで検索すれば私が生まれ育ったところがどんなところか見ることができます。そして人はそこを「手つかずの楽園」だと言います。
もしあなたが今まで大都市に住んできたとしたら、バヌアツはあなたの知っている場所とはかけ離れた世界でしょう。首都はポートヴィラという小さな町ですが、人口は27万人ほど。50万人にも届きません。私は世界中を旅したわけではありませんが、新しい街を訪ねるたびにショックを受けてきました。街の灯り、混雑した通り、ごった返す雑踏、町じゅうに張り巡らされ複雑に入り組んだ道路と喧騒。目新しく面白い場所が大好きな私はそれほどホームシックを覚えることはありません。私は東京やシドニー、ブリズベンや他のどこにいても楽しんでいるよと言葉では言いますが、そこに住もうとは思いません。夜になるとバヌアツのわが家に帰ってベッドに潜り込み、窓から見える満天の星空の広がる暗い空をながめ近くの草むらで鳴くコオロギの声に耳を澄ませたいなと考えるのです。
デッサン
静物(アクリル彩)
私は楽観的な人間で、人が何と言おうとやりたいことは何でもできると信じています。従兄たちもそうなのですが、小さなころから私は父親譲りの芸術的なスキルがあったようです。私の親族のほとんどがアーティストでありミュージシャンなのです。ですから私が技術者になるというのは、自身の芸術家魂が選ぶであろう道とは違っていました。私は大学で学びエンジニアとして働いていますが、絵を描き、音楽を奏で、歌い、写真撮影をすることを趣味として続けています。アートやクラフトの新しいスキルを学ぶことは私の楽しみでもあります。技術者の仕事は非常に心に負担のかかることがありますから、アートでリラックスしてバランスを取っているということになるでしょうか。絵を描き、ピアノを弾くととても寛ぎます。音楽を聞くことも絵画を見ることも好きです。絵を見ることは自分自身の作品へのインスピレーションを得ることにつながります。
私がエンジニアを目指すことになったのには、父の影響が大きかったです。というのは、父が建設業に携わっていたからです。子供の頃、私は父の働く建設現場について行っていました。その頃から興味はあったと思いますが、土木技師になろうと決めたのは高校生になってからです。高校での成績が良かったので、南クイーンズランド大学で学ぶための奨学金を得ることができました。工学分野(エンジニアリング)を学ぶのは難しいという人もいます。確かに大変な分野ではありますが、それは学び続けることをやめてしまった場合に限ると私は思います。土木技術はエジプトのピラミッド建設に始まるもっとも古い産業分野ですから、多くの学びがありますし現に私は今も学んでいます。常に新たな方法が模索され、新しい材料が共有される分野なのです。私にとってエンジニアと呼ばれることは嬉しくもあり、誇りに思っています。
友人と京都嵯峨を訪ねて
私には日本の文化についての知識があまりありませんでした。当初の日本についての私の理解といえば、特に技術面で最も進んだ国だということです。私には日本のような島国が短い間に健全な経済成長を遂げたのは驚きでした。日本の歴史を少し学び、日本は長い時間を掛けて産業革命に追いつき、その後戦争を経験したことを理解しました。日本は自然災害や経済危機を乗り越え短期間で復旧・復興を成し遂げました。
大事なことは、自身の過ちから学ぶことです。日本の歴史についての講義で「日本は第二次大戦で過ちを犯しました」と話す講師の言葉が心に深く響きました。日本人は友好的です。私は日本語を話しませんし、ほとんどの日本の人は英語を話しませんが、地下鉄や電車、通りで道に迷ったとき、人々はいつも正しい方角を指差して助けようとしてくれました。たとえ言葉は理解できなくても、互いに手や身振りで伝えあうことができます。日本に滞在するようになってから、私は身振りで何かを伝える術を身に着けました。口に出さなくても「もう少し大きいのはありますか?」または「どれが鶏肉ですか?」は身振りで伝わります。
日本にいて一つ嬉しいことは、相対的な背の高さです。バヌアツでは173cmの私の身長は職場でも家庭でもごく平均的ですが、ここ日本では高い部類に入るようで見上げられるのはちょっといい気分だったりします。
日本の人々はとてつもなく健康なことに気づきました。45歳を超えていると思われる人たちのグループとフットサルをしたとき、その中の一人に私は地面に叩き付けられたのには驚きました。私の国では40歳〜45歳になるとスポーツを楽しむという活動は選択肢にないのです。とにかく、日本人は素晴らしい。彼らと友達でいることは私にとって喜びです。
宮城県の復興現場にて
JICA関西ロビーでピアノを弾くラリーさん
私が参加しているコースは「インフラ(河川・道路・港湾)の災害対策コース」です。日本が津波、地震、洪水などの災害にどのように対処してきたのかを日本の専門家から学ぶことができるとても興味深いプログラムです。日本は過去の経験から多くのことを学び、災害への備えを十分備えているということに各国からの参加者は皆同意するでしょう。私たちは自然災害によるマイナス要因を如何に減らせるか、また学んだ新たな知識を母国でどう応用するのかを学ぼうとしています。コースに参加する中で、私たちは日本各地を訪ねました。土木技師として、日本のインフラ設備を見るのはとても興味深いものです。まず、一つ気づいたのは日本には巨大な構造物がたくさんあることです。巨大な橋、トンネル、ダム、タワーなど。日本は多くの自然災害に見舞われる国ですから、そこには災害の影響に耐える革新的なアイデアが使われています。同様の災害によって苦しんでいる国々にとっては、日本から学べることがたくさんあります。
最後に、日本は観光でもビジネスでも、素敵な訪問地です。日本の人々にもそうでない人々にも、すべての人に民族や文化の異なる国の訪問を勧めます。異なる環境に触れると新しいことへの気づきが生まれ、世界の見方が変わります。そうすれば、自分の持っているものに感謝し他の人々がそれぞれの国で経験していることを理解することができます。歴史、自然、公園、新技術…異文化、美味しい食べ物、美しい景色…興味の対象が何であれ、日本にはそのすべてがあります。
来日直後の自己紹介で「エンジニアですが、アーティストでもあります」と話した若くエネルギッシュなラリーさん。彼の文章から星の輝きと澄んだ海のきらめく“an untouched paradise”「手つかずの楽園」の魅力が伝わってきますね。ぜひとも一度訪ねてみたいものです。最終日、ギター片手に11名の研修員と関係者が輪になってと友情を謳う彼のギターソロに耳を傾けました。バヌアツの小さな島に打ち寄せる波の音が聞こえて来るような心安らぐひと時でした。
若きエンジニア、ラリーさんの今後の活躍を期待したいと思います。
JICA関西 研修監理課 有田 美幸