1969年度(昭和44年度)3次隊 マレーシア派遣 職種:工作機械 ( 松本市出身)
中島 厳さん
数少ない長野県の初期の隊員のお一人である中島さん。青年海外協力隊長野県OB会の初代会長も務めたり、留守家族連絡会にも関わってらっしゃったり。帰国後も隊員のために長きにわたり力を注がれていらっしゃいます。
前列左から2番目が当時の中島さん。金属加工クラブでアドバイザーをされていました。
「当時松本で留守家族会の集まりがあることを新聞で知り、米国平和部隊との違いに興味を持ったので行ってみたのがきっかけでした。当時の会社が、社員をドイツへ研修生として送っていて、その応募も考えたのですが、より自由に活動できる協力隊を選びました。1ドル360円で海外には行くのは難しい時代でしたが、行ってみたいとは思っていました。」と当時を振り返ります。
「マレーシアでの生活費は月50ドル。派遣前年にはマレー人と中国人の暴動があり、夜は外出禁止という頃でしたが、配属先のペナンは比較的発展しているところでした。フリーポートだったので、モノもよく手に入ったし、下水道、電気も整備されていました。」
その頃は、約1週間の現地での研修終了時に、現地政府によって派遣地が割り振られたそうです。「日本出発時はどこの場所に行くのかわからなかったんです。家族との連絡は船便による手紙が普通。電話もなかなかつながりませんでした。」
配属先はTechnical Institute Penang, Malaysiaという日本でいう高専。米国平和部隊やドイツ人のボランティアもいるようなところだったそうです。
「現地で『〇○をしなさい」ということを当時は言われなかったので、半年ほど様子見でした。言葉は英語でしたが、現地の英語に慣れるのに時間がかかりましたね。中国系の生徒には漢字を書いてコミュニケーションをしたり。その間、援助で供与されていて未使用だった特殊な工作機械を使えるようにしたりしていました。
当時はまだ工業自体がマレーシアでは存在していないような状況で、自動車も作られていなかったので、自分でゴーカートを作って、生徒が車の仕組みを簡単に理解できるようにしたりしました。」
また、当時は医療キットを隊員全員が持たされており、マラリアの薬や正露丸、やけどの薬などが入っていて、実は周りにいた子どもたちの手当をするのに役立ったそうです。
帰国後、勤務先の会社でマレーシアの研修員を受け入れる担当をした中島さん
「帰国後、就職先を探すのは当時は一苦労。ただ、隊員の経験が活きて、一年後、大手の機械関係の会社に勤めることができました。その会社はマレーシアに工場を作るプロジェクトを開始したばかり。そこでマレーシアの研修生の受け入れをする担当に。会社の独身寮に泊まり込みで24時間彼らの世話をしましたね。イスラム教徒が多かったので食事の件で食堂とかけあったり、休日は東京見物へ連れて行ったり。マレーシアの隊員だったことで会社に貢献することができました。」
その後は海外課に配属され、現地資材調達、輸出、社員渡航の手続きなどにも携わり、現在はご自身の会社を経営されています。
実は帰国10年後、新婚旅行でマレーシアに行き、配属先も訪れました。「偶然以前の同僚に偶然会い、彼が多くの学校関係者や昔の生徒に連絡してくれ、大歓迎を受けました。シンガポール経由だったのですが、シンガポールの空港では自分が日本で世話をしたマレーシアの研修員が夜中にも拘わらず迎えに来てくれたりしましたね。」と奥様とともに嬉しそうに語っていらっしゃいました。
「帰国後1年後、各県でOB会を作るという動きが始まり、県内の松本近辺の隊員3人と発足会を松本の飲み屋でやりました。そこで私が会長に。駒ヶ根訓練所ができる前でした。当時は県内にいる隊員の情報がほとんどありませんでした。一般の人たちはほとんど協力隊を知らない時代。募集説明会もありませんでしたね。」
その後、長野県青年海外協力隊を育てる会が1986年(昭和61年)に発足し、会報「南十字星」をその年の3月に創刊。14号まで関わっていらっしゃいました。1996年(平成8年)の19号で終刊となりましたが、「当時の編集会議は県内各地からOBが集まり、私の自宅に泊まり込んでわいわいやっていましたね。」と当時を懐かしんでいらっしゃいました。
一昨年「日本国連協会松本支部」より、協会の立て直しをしようということで声がかかり、去年から総務部長に任命された中島さん。現在、会の名前にふさわしい活動をしようと模索しているそうで、駒ヶ根市の小笠原一博OB(バングラデシュ/農業機械)の行っているバングラデシュでの学校建設運営プロジェクトへの支援も検討しているとのこと。将来的には元協力隊員にもメンバーになってもらいたい、とのことでした。
今でも中島さんはJICA駒ヶ根のイベントなどに頻繁に参加してくださったり、毎年1月には候補生のために、「派遣国へ持っていってもらえるように」と、たくさんのカレンダーを訓練所に持ってきてくださったりしています。
長野県の誇れる初期の隊員として、まだまだ若い隊員に負けない活動、本当に頭が下がります。今後の活動も期待させていただきたいです。