帰国後、伊那市にある老舗の寒天屋に嫁がれ、旦那さんのご家族と一緒に家業に、子育てにとお忙しい小笠原さんにお話を伺いました。
平成 21年度4次隊 ブルキナファソ派遣 職種:行政サービス
小笠原 彩子さん(旧姓:中村) (東京都出身、現在は伊那市在住)
「以前イギリスの会社で働いていたことがあり、その会社の取引先のアルジェリアに長期滞在したことがありました。せっかくアルジェリアに行ったのだから現地の人たちと交流したかったのですが、治安がとても悪く、必ず外出は車か飛行機でボディーガードと常に一緒、一人歩きはNGで、かごの鳥の生活でした。クライアントが日本企業だったので、日本人対応要員だったため、会社(イギリス)とクライアント(日本人)にばかり注力してしまったことを後悔しました。せっかくアフリカに住むと言う貴重な経験ができるなら、もっと現地の人たちと触れ合いたい、役に立つ実感を得たいと思い協力隊に応募しました。」
「当時ブルキナファソの政府は戸籍の電子化を目指していて、その前段階としての文書管理の仕事をしに行きました。実はアルジェリアにいた際にも工事現場で文書関係の仕事をしていたので、この職種しかないと。これ以外は応募用紙には書きませんでしたね。僻地というところでの文書管理には慣れていました。生活は、現地の優しい人たちに囲まれ、どっぷりつかっていましたね。ただ、途中「アラブの春」と言われる治安の悪化のため、半年間退避ということで一時帰国していたこともありました。
フランス語には苦労しました。でも、よく耳にすることですが、アフリカに行くと価値観が変わります。中でも、家族の大切さを学びましたね。そんなに沢山ない食べ物でも「これ、一緒に食べよう。」と分けてくれたり、自分は古い洋服を着ているのに、新品の布を持ってきてくれて「これを仕立てて着なよ。」などと、貧しいながらも分け合い、自分の家族のように接してくれるような人々ばかりでした。
また、任期中に東日本大震災が起こったのですが、たまたま旅行中だったダカールで、道で会った知らないセネガル人に携帯電話を渡され、「早く家族に電話しろ!」と心配されたりもしました。アフリカの人たちは、本当に損得勘定も裏表もなく、ダイレクトに関わってきてくれて、それがとっても新鮮で温かく、人間の優しさのようなものを実感させられました。」
「『アフリカ式子育て』を実践中です。今2歳の息子がいるのですが、子どもは自分で自分の能力をちゃんとわかっているし、命の危険が無ければ大丈夫、大家族なので誰かが見てくれている、というおおらかな子育てですね。長野県ならではなのかもしれないのですが、家の周りが田んぼで水路だらけで水遊びし放題です。夏は泥だらけになって遊んでいますし、衛生的にどうか?と思われることもあるかもしれないのですが、アフリカの子どもたちを見ていたので気になりません。むしろどんどん外遊びをしてほしい、自然の中で命の大切さ、生きる力をつけてほしいと思っています。難しい勉強は、二の次でいいかな、と。もし自分で何かしたいと言うようになったら、できる限り相談に乗り、支援できる存在になれたら・・・と今は考えています。
ブルキナファソでは本当にモノがないので、いろんなものを自分で作ることを学びました。野菜も庭に作った畑でトマトやオクラなど栽培したり、鶏も自分で飼って卵やお肉を食べたりしていました。その経験もあり、今でも自分で食べられるくらいの野菜は作っています。実は協力隊に行く直前に、長野県の原村の農業大学校で農業研修を受け、基本を学んだことが活きています。アフリカで感じたのは、結局人間って、医療・農業・教育が一番大事で、これのどれかに関われば生きていけるって思いましたね。」
「まずは、子どもを世の中に出しても恥ずかしくない人として育てること。ただ、せっかく協力隊の訓練所のある県にいるんですし、協力隊に関わりながら、10年、20年後に協力隊の経験を活かしてアフリカのために何かやりたいと思っています。たとえば寒天をハラルフードとしてアフリカの人たちに食べてもらうことなども考えています。夫も自分の任地のブルキナファソまで訪ねてきてくれたこともあるんですよ。それもあって、今では、ブルキナファソのために何かしたいと、私よりも熱心に考えているようです。せっかくのご縁ですので、焦らずに今後も繋がりを大切にしていきたいと思っています。」
生まれも育ちも東京で、地方の生活は初めてだった小笠原さん。いまだに「東京の人だから」という目で見られることもあるそうですが、「でもここでの生活ができるのはアフリカに行っていたらからこそ。」とおっしゃいます。自然豊かな長野県の生活を、子育てと家業と、しっかり楽しんでいらっしゃいます。