青年海外協力隊50周年記念特集  〜世界と地域を結ぶ。グローカルな協力隊員50名 リレーインタビュー 〜 vol.10 松本 久幸 さん

ご自身は東京都出身ですが、現在は青年海外協力隊長野県OB会会長として県内の協力隊OBをまとめてくださっている松本久幸会長。なぜ長野県へ移住されたのか、そしてそれが協力隊とどうかかわっているのかなどをお聞きしました。

【写真】松本 久幸 さん (まつもと ひさゆき) 出身:東京都、塩尻市在住平成7年度2次隊 派遣国:ニジェール 職種:自動車整備
松本 久幸 さん (まつもと ひさゆき) 出身:東京都、塩尻市在住

協力隊をめざしたきっかけ〜日本にいながら途上国の貧しさを知る。

「自分が10歳の頃のことですが、まだ電話を引いている家があまりない中、自分の家には電話があり、出稼ぎに来ていた近所の人たちが電話を借りて泣きながら話している光景を良く見ていました。その後、大学生の時、1つの狭い電話ボックスに4人の外国人らしき人たちが一緒に入り、祖国へ国際電話をしながら涙を流している姿に遭遇したました。その時、途上国の貧乏というのはこういうことなのかと。これが10歳の頃の経験と重なって、日本もかつでは貧乏だったし、まだまだそのような国もあるということに気づきました。その経験が協力隊を目指したきっかけですね。

 就職してからもずっと協力隊に行きたくて、当時郵政省に勤めていて現職で参加できる方法を探していました。協力隊の職種に自動車整備士があることを知り、自動車整備の学校に通って車両管理責任者になれば郵政省の車も修理もできると思い、仕事をしながら資格を取りました。その後、実務経験が必要であることを知り、塩尻市で自動車整備士の募集に応募し、東京から長野県に移住。そしてその3年後やっと協力隊に合格しました。」

ニジェールで孤軍奮闘

「配属先は首都のニアメの公衆衛生省で、主に病院の救急車の修理を担当したり、ニジェール人の同僚に技術を指導したり。また、ニジェール中の病院を回って救急車を修理にも行きました。自動車が動かなくなり、お母さんとおなかの子供が亡くなるというケースが何度もあり、自分がもっと早く行ってあげられたらと、悔しい思いをし、そのたびに、絶対故障しない自動車にしてやろうと頑張りましたね。とにかくモノがなく、なんでも自分で作らなくてはいけない生活でした。協力隊のドミ(宿泊所)では綿あめ製造機を作りましたが、あまりの暑さで(気温50度を超すことも)綿あめが出来た瞬間に溶けて部屋中の壁に砂糖がへばりついたことも良い思い出です。」

ご家族と協力隊

松本さんはご家族をお持ちになってから協力隊員となられました。ご家族の反対は「特にありませんでした。」と。当時お子さんは小学校6年生と4年生。その当時は家族呼び寄せ制度があり、6日間の日程で家族もニジェールに来てくれたそうです。
「子どもたちには、ニジェールの良いところ、悪いところ、全て見せました。乗合タクシーに乗せ、カヌーで川を渡り、対岸ではロバの荷車に乗ったらお尻の皮がむけたり。自分の子どもには、分け隔てなく人と付き合うように教えてきましたが、ニジェールに来てから、自分たちは日本人と外国人を知らない間に区別していたんだ、ということに気付いたようです。」

松本さんにとっての協力隊の魅力

「協力隊の魅力とは、自分がやった行為を笑顔で受けとめてもらえること、ということでしょうか。自分の活動中、全てのことが良かったと思えますね。普通は帰国する際は、後輩隊員や在住の日本人らが見送りをしてくれるのですが、私は2年3か月の派遣中、ほとんど日本人と話さなかったので、帰国する際の見送りは現地人のみ。それでも、空港までの道のりで、自分が教えた子どもたちが自分で自転車を直しているのを車の中から見た時、本当にうれしくて、来てよかった、と感極まりましたね。」

「ニジェールにいた時、同じ西アフリカのシエラレオネから飛行機の倉庫に隠れて搭乗していた二人の子どもが凍死体でイギリスの空港で見つかったという事件がありました。その胸ポケットにつたない英語のメモがあり「僕たちは勉強したいだけなのです。」と書かれていたと。このことは勉強することの尊さについて教えてくれました。途上国にいたからこそ、貧しくて学校に通えない、勉強ができない子どもたちを目の当たりにし、教育のありがたさを身に染みて感じることができました。」

OB会の会長として

昨年の松本市での国際交流イベントにて、参加者に国際理解ワークショップを行う松本さん(中央青の民族衣装)

「青年海外協力隊長野県OB会の会長を7年間ほど務めていますが、この間で協力隊になる若者たちも変わったなと感じています。あまりグループ行動を好まなくなりましたね。でもいろんな方々がいるからこそ魅力あるOB会になると思っています。他県のOB会の方々とお会いする機会があり、様々な方々と意見交換ができることなど、とても貴重な経験をさせていただいています。」

 「自分は会の中で、会員相互や関連団体とのインターフエイスになるつもりでOB会の代表をしてきました。手紙やメールの終わりに「盲腸・脱腸・OB会腸」とふざけて書いていますが、これは前職の職場上司の言葉を借用しています。知識才能技術人間性に優れた人たちが集う所は、代表が居ても居なくても組織は成長発展して行く。かえっていることが集団の邪魔になることがある、と言う事。まさしく青年海外協力隊長野県OB会は、人間性に優れ、技術才能知識をそなえ、加えて、好奇心と勤勉性に富む人たちの集まりです。貴重な方々を結びつける事。これを僕の会長理念としてやってきました。これからのOB会としては、この理念を基に、企画力のある主張ができ存在感のある団体になってもらいたいです。」

 「任期4回8年にわたり会長をしておりましたが、もう一度、途上国へ行きたいという夢が消えず、そろそろ自分の為にも時間を使わせてもらおうと思うようになりました。OB会との関わりは保ち続けつつ、灼熱の太陽の下で働く自分の姿を現実にしていきたいと思っています。」

 来年度は会長を退任されるご予定の松本会長ですが、国際協力への意志はさらに強くなられているご様子です。