無名の異邦人ボランティアが活動していくには

【写真】黒岩 春地(くろいわ はるじ)さんセントルシア国シニア海外ボランティア
黒岩 春地(くろいわ はるじ)さん

2016年5月の「人」明日へのストーリーでご紹介した黒岩春地さんがカリブ海に浮かぶ島国セントルシアのシニア海外ボランティアとして赴任されてから1年以上が経過しました。佐賀県の国際・観光部部長として県内での国際協力推進に貢献された黒岩さんご自身がJICAボランティアとして赴任し、活動現場で経験されてきたことや感じられたことについて現地にて語っていただきました。

赴任先/担当職種としてセントルシア/コミュニティ開発を選ばれた理由は何でしょうか?

日本を紹介ー特別支援学校の生徒たちと

 実は、毎年、JICAの応募職種を見ていましたが、私のキャリアで応募できるような職種は見あたらず、JICAシニアボランティアは無理かなあと思っていました。それがたまたま、退職を控えた前年に、私でも受けられそうな、特に専門を要しない、コミュニティ開発という職種が一つだけあり、喜んで応募しました。小さな島で視覚障碍者の自立のお手伝いをする、という要請内容にも強く惹かれたのを思い出します。
 本当は、地方自治に長くかかわってきたものとして、地方自治、住民自治制度づくり、のような仕事があればいいなあ、と思っていたのですが、今は、これまで経験したことのない分野で、毎日学びながら仕事に取り組んでいる感じです。

これまでどのような活動を展開して来られたのでしょうか?

隊員仲間が作ってくれた寄付ノートのちらし

ニカラグア東洋医学大学 八巻学長

 昨年10月2日に赴任し、一か月の現地語学研修を経て、11月1日からセントルシア視覚障碍者協会に勤務するようになりました。協会の行う、教育部門、クリニック部門、リハビリ部門などへの応援のほか、ルーティン業務として、ウエストバージニア大学が実施する緑内障患者治療チームの受入担当をしています。年に3回、ボランティアでセントルシアを訪問し治療していただいているのですが、100人を超える患者たちとの調整で、毎回、治療にあたる1週間は大わらわ。こちらが必死になってしゃべっているのに、相手がぽかんとしているのを見て初めて、自分が日本語をしゃべっていたことに気づくということもありました。
 ルーティン業務とは別に、今年3月に、これまで考えてきたことを「Oriental Touch Therapy Project (オリエンタル タッチセラピー プロジェクト)」としてまとめました。10年計画で、セントルシアに視覚障碍者のための指圧研修センターを作りたい、というプロジェクト計画です。観光の島として、たくさんの外国人観光客が訪れるこの国に、オイルマッサージはあっても、本格的な指圧などはまだ存在しません。協会内でも何度も議論を重ね、セントルシアJICA事務所とも相談しながら、ようやくこのプロジェクトが動き出そうとしたとき、残念ながら、思いもよらぬ事態が起きてしまいました。
 7月中旬、「視覚障碍者協会、近く閉鎖か?」というニュースが流れたのです。まさに寝耳に水でした。協会を頼りにする人には、貧しい人も多く、治療費を払えない人も沢山います。活動の8割をボランティアで行っている協会が、政府や外国からの支援が細る中で、追い詰められていくのは、自然の成り行きだったかもしれません。もうプロジェクトどころではありません。その日から、全盲の理事長が政府や民間団体に支援を呼びかける一方で、私は協会で作ったオリジナルノートをリュックに詰めて学校などを回り、ドネーション含みで買ってもらう活動を始めました。同じ国に派遣されていた青年海外協力隊のメンバーも、みんな親身になって応援してくれ、仲間の有難さをつくづく感じています。

 ローテーション勤務で閑散とした職場で通常業務をしながら、チャリティイベントの手伝いや寄付集めを続けていたとき、ニカラグア東洋医学大学の八巻学長から、視察に来られませんか、というメールをいただきました。9月のことです。思いきって、10月末の1週間、ニカラグアに行ってきました。ニカラグア東洋医学大学は、八巻学長が、ニカラグア内戦時代から血のにじむような努力の末に立ち上げられた大学で、視覚障碍者に向けた、指圧コース(2年)も開設されています。以前から是非一度見てみたいと思っていた大学でした。実は、八巻学長を紹介してくれたのも、そこで働いていた、全盲のシニアボランティア、綱川章さんを紹介してくれたのも、以前佐賀県庁で一緒だった、高田ニカラグアJICA所長でした。何という幸運。ニカラグアで、佐賀県人二人、夢を語り合うことができました。ニカラグア東洋医学大学「指圧研修コース」を卒業した目の不自由な人たちは、先生として残ったり、独立して開業したりと、しっかり働いていました。八巻学長との話の中で、セントルシアの留学生をこの大学で受け入れる案も飛び出すなど、すぐにとはいかないまでも将来に向けて、きっと道は開ける、そんな感じを持つことができました。
 今は自分に何ができるかを問いながら、一歩一歩、前に進もうと思っています。

現地で活動/生活を始めるのに当たって苦労されたことは?

 やはり、言葉ですね。仲良くなるだけなら何とかなりますが、仕事をしていく上では、私の英語ではまだまだでした。特に現地の人の話す英語はアクセントが強く、スピードも速いので、何度も聞き返す毎日。いい仕事をしようと思えば、何にもまして言葉が重要だ、ということを身をもって痛感しています。それとパソコン、これも苦労しましたね。
 生活面では、料理をしたことがなかったので、あれこれ言いながら、頑張っています。最初の3か月で10キロ痩せました。しかしこの頃は食べ物にも、生活にも慣れ、すっかり元の体重に回復し、少々運動しなければ、と思っているところです。

これまでの現地の活動で達成感や感動を覚えたことがあればお聞かせください。

クリニック、アキラの看板を上げて頑張っておられたエンリケさん。指圧を心を込めてしていただきました

 全盲の方と連絡を取りたくて、何度も電話をし、すれ違いがあり、やっと会えた時、そして自分の考えているプロジェクトを是非一緒にやりたいと言ってくれた時は、本当に嬉しかったですね。
 小学校の校長先生から、ノート30部注文の電話をもらった時も、嬉しかったなあ。ノートをリュックに詰めて、重くてよろよろしたけれど、バスを乗り継ぎながら、ニンマリしたのを思い出します。
 ニカラグアで、全盲の方に、指圧をしてもらい、「私の人生を変えた、アキラ先生との出会いに心から感謝しています」と言われた時にも、涙が出そうになりました。彼に指圧を教えたのが、JICAシニアボランティアの綱川章さん。自らも全盲であるアキラ先生に指導を受け、生き方にも感銘し、彼は「クリニック、アキラ」という看板を掲げて、頑張っていました。

出発前は佐賀県国際・観光部長の立場でJICAボランティア事業を支援していただいていましたが、ご自身がJICAボランティアとして活動/生活されて新たにお気づきになったことはありますか?

 やはり自ら同じ環境に身を置くことで、隊員たちがよく言っていた、「いっぺん丸裸にならなくちゃだめだ」、「間違いではない、違いなのだ」「自分は何しにここまで来たんだろう、と思うことがあった」などという言葉は、今、良くわかる気がします。
 それと県庁で働いていた時には、県という看板を背に、働いていたんだなあと今更ながら感じています。地位も権限も予算も信用もない、おまけに言葉もうまくしゃべれない無名の異邦人ボランティアが活動をしていくには、人と人との信頼関係を、個人の力で少しづつ作っていくしかありません。そのことを今、痛感しています。
 異文化の中で、ぎくしゃくしながらも、信頼関係を築こうと踏ん張ってきた隊員の思いを、地方自治の現場に活かしてもらえれば、という考えは、今も変わりません。

現地での任期も後半に入られていますが、これからの活動/生活に向けての抱負をお聞かせください。

 協会の経営難は続きますが、新たにニカラグアへの留学生派遣事業を何とか進めていきたいと思っています。1年、ないし2年の研修を終えて帰ってきたとき、その卒業生を核に、指圧研修センターのスタートにつなげてゆく、というシナリオを、今考えているところです。時間とお金がかかることなので、焦らずじっくりいくしかないと覚悟しています。

これからJICAボランティア事業に参加したいと考えている市民の皆さんに伝えたいことがあればお願いします。

活動先の事務所にて

 日本を離れ、異文化の途上国で暮らし、その国のために活動をするということは、大変ですが、やはり素敵なことだと思います。ときには、ぎくしゃくや無力感を感じながらも、諦めず、少しでも前に進もうと頑張っていれば、その辛さを上回る感動が必ずそこにはあります。楽しいことも沢山あります。日本では経験することのない彩のある2年間を、自分の人生の1ページに加えることもいいのではないでしょうか。
私はここに来て、本当によかったと思っています。