鹿児島の「内なる国際化」を目指して

【写真】弓場 秋信(ゆみば あきのぶ)氏弓場貿易株式会社 代表取締役社長
弓場 秋信(ゆみば あきのぶ)氏

今回の『「人」明日へのストーリー』で紹介するのは1992年から本年3月末まで、JICAボランティアの帰国隊員に進路相談を行うカウンセラー(鹿児島県担当)としてご活躍頂いた弓塲 秋信(ゆみば あきのぶ)さんです。弓場さんは青年海外協力隊員として1972年にマレーシアに派遣され、帰国後は鹿児島の地で弓場貿易を創業なさいました。その後、「青年海外協力隊鹿児島県OB会」の会長や「鹿児島県青年海外協力隊を支援する会」の事務局長の要職を歴任されるなど、JICAに対しても多大な貢献を頂いております。また、今年5月には企業の経営者など社会のさまざまな分野で顕著な功績があった方に贈られる「旭日双光章」の受章や、今年7月には外務大臣表彰を受けられました。
是非、ご覧ください。

青年海外協力隊に参加した「きっかけ」を教えてください。

19歳の時に10日間、台湾に一人旅をしましたが、その後、もっと他の国も観てみたいと思っていました。
また、異なる環境に自分を置いてみたいというのがありましたね。
というのも、社会人として目標を立てるわけですけども、なかなかそれに向かって進んでいかない、努力しない自分がいたわけです。
それであれば「必然的に努力しなければいけない環境」に自分を置きたいと思ったのです。
そして24歳のとき、働いていたのは神奈川県の相模原にある富士製鐵(現:新日鐵住金株式会社)の研究所でしたが、大分に新しい製鉄所が出来るというので3か月ほど出張しました。その時にたまたま訪れた大分県庁で「青年海外協力隊募集」のポスターが貼ってありました。「いつかは海外に行きたい」という思いを知った会社の上司から「こんなのもあるよ」と協力隊の事を事前に聞いていたこともありますが、募集のポスターを見た時、直感的に「あっ、これだ!」と思い、出張中でしたが直ぐに協力隊の書類を取り寄せ、応募しました。

青年海外協力隊員時代にどの様な経験をなさいましたか?

協力隊時代の弓場さん(後列右端)

協力隊で派遣された任地はマレーシアの「コタバル」というところですが、マレー半島の方の北東部にあるタイとの国境に近い町で1941年12月8日に日本軍が第二次世界大戦の時に上陸した場所です。配属先は中等教育の学校で、日本でいう工業高校や職業訓練校にあたるところで4年生と5年生に溶接技術を教えるのが活動内容でした。
現地に行ってから最初のうちは言葉が伝わらず、本当に苦労しました。
授業はマレー語で行うのですが、協力隊の訓練所で3か月間マレー語を勉強したといっても、とても授業で話せるレベルじゃないです。
私が一生懸命、授業をするけれども生徒はみんな「ぽかーん」としていて反応がないので、「どうしたの?」と聞いたら、「何を言っているか分からない」というわけです。
そこで、言葉を覚える為には、いろんな方と話して覚えるしかないと思って、道端で出会った人でも話かける様にしました。
そしたら皆さんが親切に接してくださって「お茶を飲みなさい」と言ってお茶を出してくれた方もいたりして、人と人の交流の大切さを学びました。
また、現地には日本人は私一人しかいないので、「日本人とは」という目で周りの方はみているわけです。協力隊の目的の一つには「民間外交」という役割があると言われますが、結果的に実践していました。
大変なことも乗り越えられたのは生徒たちや近隣住民の方々のおかげです。
思い返してみると「自分自身で努力せざるをえない環境に自分を置きたい」と思って協力隊に志願したわけですが、まさにそのよう環境でしたので、良い経験をしました。
また、生徒たちのとの想い出深いエピソードといえば、全国学校対抗で技術のレベルを競う大会がありましてテーマに沿って作品を作るのですが、その大会で賞をもらったことがあります。「コタバル」はクランタン州というところの州都なのですが、「コタバルの未来」ということで、鉄板を溶接しコタバルの未来予想の模型を造りました。生徒達も非常に盛り上がり、一生懸命取り組んでくれました。
協力隊では様々なことを経験して、本当に視界が広がったと思います。また自分を客観的に冷静に見られるようになりました。

帰国後に貿易事業を起業された理由を教えてください。

協力隊で沢山の外国の方と出会い、いろんな文化に触れると、「これを続けられたらな」という思いがありました。
海外から日本を客観的に見た時に「夢を見ることの出来る素晴らしい国」だと感じていましたので、自分も「やりたい事に対して素直に生きたい」と思い、特に知識があったわけではないのですが貿易業を始めることにしました。
また私の同級生は中学校を卒業したら半分以上が他県に集団就職する時代で特に女性は約7割が兵庫や愛知の紡績工場などに就職していました。それは鹿児島に職がないからなのですが、こういう現状を少しでも改善するために鹿児島の特産品を海外に輸出することで間接的に雇用に貢献できればと考えました。
最初はアパートの一室で始めたのですが、まず地域にどんな資源があるのかを調べるところからスタートしました。
当時、日本経済新聞に「小さな大企業」という連載記事がありまして、これは「売り上げが少なくとも扱う商品は日本一」というものにスポットを当てたものです。当時、鹿児島県内には焼酎や養殖のエサを造る会社など、18社ありました。それを読んだ時に、「日本で一番のものは世界に出しても評価されるのではないか。こういう視点で輸出するものを考えてみよう」と思い、孟宗竹や竹から派生する加工品、また、火山から造られる軽石など地域に根ざした特産品を輸出することにしました。
ちなみに孟宗竹の日本国内にある竹林面積は鹿児島県が50%以上を占めています。
また、輸出する相手国ですが、孟宗竹であればJETROに「世界企業年鑑」があったのでそれで調べて取扱商品に「bamboo」と書いてある海外の会社に売込みの手紙を送ったわけです。100通くらい出すと1通くらい返事が来ましたが、「興味ありません」というお断りの手紙でしたね。それでもその最初の一通の返事が来たということは嬉しかったです。そういうことを2年間程やっていました。
協力隊から帰国後に大阪で兄が経営していた会社で働き、貯蓄していたのですが、起業後2年間で使い果たしました。
でも、失敗しても日本では飢えて死ぬことはないわけで、会社員時代に蓄えたお金は夢の為に使おうと思っていましたから、不安は全くありませんでした。協力隊に参加していなければこういう発想にはなっていなかったと思います。(笑)
そして起業して3年目になると少しずつ安定してきて「貿易業でやっていけるかも」と思いました。それは孟宗竹のビジネスが軌道に乗ってきまして、鹿児島だけではなく、熊本や宮崎の商品も輸出するようになっていたからです。
また、その頃になると当時の知事が「鹿児島は日本の南の玄関口」と標榜していましたので行政も「これからは貿易にも力を入れなければならない」と海外に目を向け始めました。
そして鹿児島県が香港に知事を団長とした貿易使節団を派遣することになったのですが、30名位いる中で一番若手であった私が副団長になったのです。先日、鹿児島県貿易協会の理事を35年やっていることで「旭日双光章」を受章しましたが、これも当時の県の担当部長が「君は、海外はおろか国内でもまだ信用がないだろうから、理事になりなさい」と推してくれたのがきっかけです。そういった助けが大きかったですね。
香港で行われた商談会に初めて鹿児島県のブースを出展した際は県もノウハウがないので、「あなたがどういう風になるか決めていい」と言われ、出張費用も県が出してくれたこともありました。こういうのも協力隊を経験して常にポジチィブに考え、物事に物怖じしないようになっていたことが功を奏しました。

鹿児島県に帰ってこられてからどの様な想いで国際協力活動を行われたのですか?

【画像】鹿児島に帰って来てから長年、鹿児島県出身の協力隊OBで作るOB会の会長をやっていたのですが、OB会は会員の親睦だけでなく鹿児島の国際化の一役を担うような会にしたいという想いがあり、いろんな活動を始めました。
あるときには鹿児島の各市町村の国際協力を担当している職員を集めて話をしましたが、集まってきた人達は国際協力に関する知識が乏しい状況でした。ですからOB会で「内なる国際化をしていこう」を提案しました。
それで県の国際協力の担当者に「広報が一番大切です」と話しをして、マスコミの方々にいかに興味をもって貰うかということで、協力隊の隊員が派遣されている現地に県内の子供たちを連れていき、そこに記者の方も同行し記事にしてもらうアイデアを伝えました。
そしたら当時の担当課長も「それはいいアイデアだ」ということで、県も費用を出してくれました。その後も市町村や企業の協賛を得て今年で27回目7か国の途上国に346名の中高生を派遣しました。
あとは、「帰国隊OBと留学生が先生」教育プログラムを23年実施しています。小学校や中学校に年間約40回派遣し体験談を話してもらうことをやっていますが、これが現在ではJICAでも「国際協力出前講座」として行われていますね。
少子高齢化が進む現在は海外から研修生ということで、労働者の受け入れがどんどん進んでいますが、受け入れる側も多様な文化を理解するという事が必要なわけですので、私が30年前から言っていた「内なる国際化」というのが今後、益々必要になると思います。

先日まで担当された協力隊帰国隊員のカウンセラーはいかがでしたか?

20数年前に帰国隊員の就職のお手伝いをするカウンセラーをOB会等の組織がしっかりしていた国内の4拠点に増やすということになり、その中に鹿児島があったわけです。当時、私は「協力隊を支援する会」の事務局長もやっていましたので兼務することになりました。
鹿児島県から出発する隊員を募集説明会のときから見ているわけですので、隊員が帰国後も私には責任があると思っていました。
カウンセラーとして心がけていたのは「常に相手の立場に立ち、共に悩み、共に考える」というスタンスでしたが、多くの隊員たちが帰国後に「協力隊に行って本当によかった!」と言っているというのは嬉しいことです。

今後のJICAや協力隊に対する思いを教えてください。

いろんな経験を積むことで「国際性ゆたかな若者を育成する」というのが協力隊の目的の一つであると思います。
また、現地の方々はメイドインジャパンの物にふれる機会はあっても、日本人にふれる機会はなかなか無いわけですから、その機会を作っているのが協力隊だと思います。そういったことで世間の青年海外協力隊に対する評価がもっとされることを願っています。
現地で活動する隊員たちは眼が輝いていますが、日本に帰国してからも、その眼の輝きを失わずにいて欲しいですね。
現在、協力隊の参加を目指している方々には自分では見つけることができない「隠れた自身の可能性」を見つけることが出来るのが協力隊だと思いますし私自身がそうでした。
是非、「隠れた沢山ある自身の可能性」を見つけるために協力隊を活用して欲しいですね!