セントルシアに指圧研修センターを!

【写真】黒岩 春地(くろいわ はるじ)さん元セントルシア国シニア海外ボランティア
黒岩 春地(くろいわ はるじ)さん

今回の「人」明日へのストーリーは、2016年5月と2017年11月にご紹介した黒岩春地さんです。黒岩さんは、カリブ海に浮かぶ島国「セントルシア」にシニア海外ボランティアとして派遣され、2年の任期を経て帰国されました。今回は佐賀県の国際・観光部長として佐賀県の国際交流、国際協力推進に貢献された黒岩さんご自身が、JICAボランティアとして赴任し、活動現場で経験されてきたお話を伺いました。

[黒岩さんのご紹介]
2016年3月まで、佐賀県庁で国際・観光部の部長としてご活躍。
佐賀県職員採用試験(U・Iターン型民間企業等職務経験者)にJICAボランティア経験者枠を創設することにご尽力され、2012年度より2018年12月現在まで9名のJICAボランティア経験者が佐賀県庁に入庁。
また、「JICAボランティア事業の方向性にかかる懇談会」のメンバーとしてもご活躍。
定年退職を機に、シニア海外ボランティアに参加。2016年9月から2018年9月まで、中南米、カリブ海、「セントルシア」の視覚障害者協会で活動。帰国後は、2018年10月から(公財)佐賀県国際交流協会理事長に就任、現在に至る。

シニア海外ボランティアとして派遣された2年間を振り返っていかがですか?

佐賀県国際交流協会にて

 今改めてこの2年間の活動を振り返ってみて、何ていろいろなことがあったのだろう、と思います。そしてやっぱり行ってよかった、というのが正直な感想です。派遣先のセントルシア視覚障害者協会が、経営難のため閉鎖の危機に陥ったこと、ニカラグア東洋医学大学での八巻先生との出会い、OTTPプロジェクト(Oriental Touch Therapy Project 指圧研修センター開設構想)を立ち上げ、右往左往しながらも夢実現に向かって皆で頑張ったこと、隊員の皆がいつも応援してくれたこと、休みには隊員たちと会い、語らい、遊び、勇気をもらったこと、思い出すときりがありません。
 行って3か月で10㎏やせたこと、途中、片目がかすんで見えなくなったことなど、辛いこともあったのですが、今は楽しかったことばかり浮かびます。セントルシアの人たちが、私を受け入れてくれたことに、心から感謝します。そして、いつも応援してくれた隊員たち、JICAセントルシア事務所にも大変お世話になりました。
 定年退職後の参加でしたが、新しい人生を踏み出した、という実感を、今、味わっています。

セントルシアで一番想い出に残っていることを教えてください。

セントルシア視覚障害者協会理事長のMr.Avril氏とともに

 想い出はいくつも浮かんできて、どれをお話しするか迷うのですが、ボランティアの任期を終えてセントルシアを離れ、日本に帰国するとき、私が働いていたセントルシア視覚障害者協会理事長のMr.Avrilからメールが入りました。私はHaruと呼ばれていたのですが、「Haru、これは決してGood-byeではない。これからも一緒に指圧研修センター開設に向けて頑張っていこう!」と書かれていました。このメールを帰りの飛行機の中で読んだとき、思わず涙が出そうでした。どれか一つ、と言われれば、これでしょうか。

セントルシアに「指圧研修センター」を創ろうとおもったのはなぜですか?

プロジェクトのリーフレット

 セントルシアは人口18万人の国ですが、そのうち約1万人が視覚障害者(うち2千人が全盲)と言われています。驚くほど多くの人たちが仕事もなく、家に閉じこもって生きています。そういった方々の自立支援の道を探る、というのが私に与えられたミッションの一つでした。
彼らが、自分一人の力で生きていけるために何ができるか?ずーっと考え続け、行き着いたのが「指圧」でした。 多くの人たちは、「目の不自由な人がそんな仕事できるわけがない」と思っていました。でも実際、日本では、多くの視覚障害者がプロとして働いているし、調べてみると、ニカラグアでもインドでもケニアでも、視覚障害者に指圧技術を教えるプロジェクトが動いていました。ですからきっとセントルシアでもできる、そう思ったのです。
 セントルシアには毎年クルーズ船に乗って、たくさんの外国人観光客が訪れます。彼らにオイルマッサージなどのサービスはあるものの本格的な指圧サービスはありません。観光で生きているこの島で、「指圧サービス」が生まれれば、きっと人気を呼び、仕事になると思います。タイ観光の目玉にタイマッサージがあるように、です。「視覚障害者の自立と観光の振興」の二つを同時に実現できるプロジェクト、さらに言えば、将来この「指圧」を視覚障害者協会の新しいサービスとしても実施していけるようになれば、協会の自主財源確保にもつながっていく、という一挙三得?の夢プロジェクトです。ニカラグア東洋医学大学の八巻前学長が全面的に支援を約束してくれたことも、「視覚障害者のための指圧研修センターを創ろう」という計画の大きな後押しとなりました。

「指圧研修センター」の実現に向けて、どういった活動を行ったのですか?

テレビで支援を呼びかけ

ノートを売って資金集め

 まず、プロポーザル(計画案)を作りました。これが協会内部で認められるか、合意できるか、が最初のハードルでした。「指圧」というものを知らない人たちが、視覚障害者に本当にそんなことができるのか?と不安がるのももっともなことです。
 ようやく協会内部の合意ができ、いよいよ動き出そうとしたとき、「協会、3か月以内に閉鎖か?!」というトップニュースが流れました。寝耳に水の一大事。自分はどうなるのだろう、と失意のとき、ニカラグア東洋医学大学の八巻前学長から誘われ、ニカラグアに渡ったのが、大きな転機となりました。
 ニカラグア東洋医学大学では、5年前から、視覚障害者のための指圧講座がスタートしていました。全盲の卒業生に会い、指圧をしてもらった時の感動は、前回のこのコラムにも書かせてもらいましたが、一生忘れられません。
この時、八巻前学長から、セントルシアから視覚障害のある留学生2人を派遣する案が提案されたのです。まずパイオニアとして彼らを育てて、セントルシア指圧研修の先駆者になってもらおう!と。
帰国後、留学生派遣に向けて、寄付活動を開始しました。協会のオリジナルノートを売ったり、チャリティイベントに参加をお願いしたり。活動の中で一番つらかったのはこの資金集めでした。今まで、直接お金の寄付をお願いする、という経験がなかったので、街頭でのお願いの時も、初めのうちはなかなか一歩が踏み出せず、声も出なかったことを思い出します。
海岸清掃活動でたまたま出会った台湾の大使に、この話をして寄付してもらったこともありました。やはり活動の中で一番心に残っているのは、この寄付金集めです。
まだまだでしたが、ようやく留学資金の目途が見えかけてきたとき、今度はニカラグアの政情不安で、隊員たちも全員ニカラグアから引き揚げとなりました。とても留学できる状況ではなくなり、留学プロジェクトは断念。
 それでも、雨降って地固まる、ではないですが、ニカラグアにとどまった八巻前学長と話をし、ニカラグアから講師をセントルシアに派遣してもらうことに計画変更して、プロジェクトを進めることになりました。本来2年間のカリキュラムを1年間に組み直し、卒業の証書も出せるように議論をし、併せて、JICAからも専門ボランティアが支援する道筋を立てました。
 この間、テレビに生出演して、寄付を呼び掛けたりもしました。スタジオで出演の機会をうかがいながら、もじもじしていた私の背中を「思い切って言ってみたら」と押してくれたのも、隊員でした。
 OTTPプロジェクトは私の後任隊員に引き継がれることになりました。これからニカラグアから、そして日本から指圧の専門家がセントルシアに来る予定です。私のカウンターパートのMs Deboraが、JICAの障害者自立支援の研修に参加することもできました。初めての日本で学んだ彼女が、これから視覚障害者協会を引っ張っていってくれるでしょう。プロジェクトの実現まで、時間がかかってもいいと思っています。もともと作ったプロポーザルは10年計画です。「指圧研修センター」は1年間に5人づつ育てる計画。一人でも卒業生が出て夢を実現することができれば、あとは自然に続くと思います。施術用のベッドも中古でもらってくればいい。どんな形でも、スタートさせたい、というのが私と八巻先生の思いです。セントルシアの視覚障害者の方たちもこのプロジェクトに期待しています。いつの日か、セントルシアで小さく生まれたこの「指圧研修センター」が寄宿舎も備え、カリブ海全体に広がる拠点になることを夢見ています。
 引き続き、スポンサー集め、資金集めは続きますが、まずはセントルシアの人たちが、自分たちの仲間を助けるために、頑張らなければいけないと思っています。そうしないときっとこの事業は続かないと思うからです。日本や他国からの支援を求める動きに魅力を感じながらも、地元でせっせと小さい資金確保に動いていたのは、そういう訳です。
 今後も日本からこのプロジェクトを応援していきたいと思っています。

現地では他のJICAボランティアからの支えもあったようですね?

寄付集めに応援してくれた隊員たち

 はい。私の勤めていたセントルシア視覚障害者協会では、寄付集めのためのチャリティイベントを何度か行いました。一番多かったのは、チャリティウオーク。目の見えない人も一緒になって10キロメートル程歩く催しですが、いつも協力隊のみんなが参加してくれました。
 協会で、目の不自由な子供たちと一緒に作ったオリジナルノートを売ったり(1冊売れると160円の寄付になりました)、古紙を使ったペーパーバスケットを作って売ったりして支援のお金を集めていました。この、ノートを売るのも、ペーパーバスケットを作って売るのも、いつも協力隊の皆が手伝ってくれました。日本語教室や小学校にノートを紹介してくれたり、あるときは何も頼んでいないのに、隊員たちが仕事帰りに集まってペーパーバスケットをせっせと作ってくれていたり。
 プロジェクトを紹介するパンフレットや、寄付集めのためのポスターなども、すべて隊員の皆が作ってくれたものです。みんなが私の夢に自分の夢を乗せて手伝ってくれたことを、決して忘れません。隊員だけでなく、セントルシアJICA事務所の皆さんも、所長以下、本当に親身になって応援していただきました。もしこのプロジェクトがスタートしたら、きっとみんな喜んでくれると思います。

今回のシニア海外ボランティアの経験を今後どのように生かしていきたいですか?

佐賀県国際交流協会にて

 セントルシアでは、無名の外国人ボランティアである私を、彼らは「仲間」として受け入れてくれました。一緒に夢に向かって頑張った経験は、私には忘れられない大切な思い出です。
 縁あって、今、佐賀県国際交流協会で働いています。佐賀県には現在、6千人の外国人が生活しています。いろんな思いをもって佐賀に来た彼らのために、彼らが夢を持ち続け、生き生きと学び、働き、生活できるよう、今度は私が精いっぱい応援していきたいと思っています。

現在、海外協力隊を目指している方にメッセージをお願いします。

セントルシアのJICAフェスタにて

 今、セントルシアから帰国して2か月。まもなく日本で新年を迎えようとしていますが、向こうでは今頃海で泳いでいたのを思い出します。よくセントルシアまで行ったなあと思います。
 でも本当に行ってよかった。サラリーマン生活の中では、なかなか本音で生きられないこともありますが、協力隊では本音で生きることができるし、自分のやりたいことを一生懸命やれる喜びがありました。
 仕事を辞められるか、語学は大丈夫か(やはり苦労しました!)、健康はどうか(一時、片目がかすんで見えなくなりました!)、家族の問題(単身赴任でしたが、妻が2週間現地に来てくれました)など、いろんな心配ごとはありますが、もし環境が許すなら、思い切って異文化の世界に飛び込んでみるのもいいのではないでしょうか。
 開発途上国には、皆さん方の経験を生かす仕事がまだたくさんあるように思います。