「ODAジャーナリストのつぶやき」を書き終えて

注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。

vol.418 14 March 2018
フリージャーナリスト 杉下恒夫氏

2000年5月から書き続けてきた「ODAジャーナリストのつぶやき」も今回が最後となる。18年間通算で418回、1回の原稿の字数が平均で2100字程度だったから、400字詰めの原稿用紙に換算すると、約2200枚分の原稿を書いたことになる。単行本にすると、大部の本4、5冊にはなるだろう。年月の積み重ねの大きさに驚くと共に、良くこんなに書いたものだと我ながら感心する。

本来怠け者の私が飽きもせずに長期間、本欄を書いてこられたのは、開発援助という事業が途上国の人々の生活改善に役立ち、同時に国際社会における日本の評価を高めるものと、信じていたからにほかならない。もう一つ、私を督促した事由がある。それは、本欄を通じて一人でも多くの人に政府開発援助(ODA)を正しく理解してもらい、広範な国民の支持を受けたODA実施態勢づくりに助力したいという思いがあったからだ。

読者から「途中まで面白いと思って読んでいても、最後はODAの宣伝で終わってしまうので、面白くない」といったお叱りをしばしば受けた。ジャーナリストを名乗る身にとって、いささか堪えるお目玉ではあったが、ODAの良さを知ってもらうことが筆者の目的だったので、批判は甘受した。

実は、私も昔はODAに懐疑的なジャーナリストだった。ネジが一つ無くなっただけで港に放置されている真新しい漁船、ずさんな管理で設置早々に壊れてしまった最新電子顕微鏡などアジアやアフリカなどの国々で垣間見たODAの中には、首を傾げるものもあった。

だが、ODAを専門に取材するようになり、世界の各地でJICAやOECFのプロジェクトを訪ねているうちに、ODAの素晴らしさが見えるようになってきた。インドネシア東部の病院を訪ねた時、5歳ぐらいの男の子の手を引き私に寄ってきた女性が「未熟児だったこの子は、日本がくれた保育器のおかげで生きることができました」と、目に涙を浮かべ礼を言って去って行った。ガーナの海岸部で出会った少年は「日本が作ってくれた道路のおかげでバスが通り、今まで1年に1度ぐらいしか会えなかった山に住むおばあさんに毎月のように会える」と嬉しそうに笑った。タイ東北部の寒村では、10年も前に離任した女性青年海外協力隊員の名を、ほとんどの村民が覚えていて、しきりに彼女の消息を尋ねるので返答に窮した。

こんな経験は枚挙に暇がない。私の頭の中にODAの正の部分が次第に蓄積され、いつの間にかODA推進派になっていったのだ。ジャーナリストがODAの一部分だけを捉えて批判するのは簡単だ。観念的な自説に拘って管見な批判をするのは、もっと容易い。だが、マスコミなどの批判を気にして政府がODAに対して消極的になってしまうと、一番困るのは途上国の貧困層の人々であることを、忘れてはならない。ODAに瑕疵があると思うなら、政府やNGOらと協力、改善に向けて一緒に努力をすれば良いことで、水を差すだけの論調は、非人道的ですらある。

私がODAジャーナリストとしてODA・開発援助に特化して取材・執筆するようになったのは、読売新聞の海外特派員から帰国した1989年からだ。約30年前のことになる。先日、世界地図を見ながらODAの取材で訪ねた国を数えてみたら、98か国にもなっていた。概算だが、訪問したプロジェクトは1000件以上になるだろう。JICAの短期専門家として2度ほどプロジェクトに係わらせて頂いた経験もある。多端な中、未熟な私の来訪を受け入れ、丁寧に事業を案内してくれた各国のJICA関係者に改めてお礼を言いたい。

ODAを身近に見ながら、つねに「理想の開発援助とは何か」を考えていた。ODAは植民地支配が終焉、数多の独立国が誕生した戦後に確立された概念で、それほど長い歴史を持つものではない。その間、世界銀行などを通して各種の援助政策が試行されたが、未だに絶対といえる方策は見つからない。しかし、過去60年余、日本がやってきた相手の目線に立ったインフラ整備、人づくりを基調とする開発協力は、間違っていなかったと確信している。

強いて昨今の日本のODAの弱点を挙げるとすれば、年を重ねるごとに柔軟性に欠けてきていることではないだろうか。これまで大きな失敗が無かっただけに、前例に拘り過ぎ、執行方法が窮屈になっているように見えて仕方がない。前例や現行制度を超えた型破りのODAにもチャレンジして欲しい。失敗したら、またやり直せば良いだけだ。鋳型にはまってしまうと、成長どころか息詰まることを心配している。

18年前、新聞記者を辞めて大学教授に転職した際、「記事を書く仕事が無くなると淋しいでしょう。JICAのメルマガに連載記事でも書いてみませんか」と声をかけてくれたのが、当時JICAの総務部広報課長だった末森満氏(のち上級審議役など、現国際開発ジャーナル社社長)だ。タイトルの命名者も末森氏だ。「杉下さんは口が滑る傾向がある。つぶやきなら失言しても言い訳の余地があるから、『ODAジャーナリストのつぶやき』としましょう」というのが理由だった。このタイトルのおかげで長続きしたのかもしれない。以後、拙文の掲載を許してくれた歴代の広報課、広報室の皆さまにも深く感謝している。

日本の国際開発協力の嚆矢である大来佐武郎元外相を顕彰する「国際開発研究・大来賞」の今年の受賞者は、東京大学東洋文化研究所の佐藤仁教授だった。佐藤教授は授賞作「野蛮から生存の開発論」(ミネルバ書房)に、「開発はおもしろい」と書いている。

そうだ、開発はおもしろいのだ。老ジャーナリストになっても、一人のODAサポーターとしてJICA、そしてあらゆる開発援助の行方を見守っていきたいと思っている。

長年のご愛読、ありがとうございました。