monthly Jica 2007年1月号

特集 インド アジアの新時代を築くパートナー(1/3ページ)

目覚ましい経済成長で世界の注目を集めるインド。アジアにおいては近い将来、外交・政治・経済面で日本、中国と並ぶ大国となることが予想される。だがその一方で、世界の貧困人口の3分の1に相当する3億人以上の貧困層が存在し、人口増加・工業化に伴い環境汚染も深刻化している。インド政府は「公平かつ持続可能な成長」を掲げ、成長を通じた貧困削減や保健医療・教育の改善、環境保全との両立などに取り組んでいる。

日本とインドは、これからの新しいアジアの展望のもと、二国間関係のみならず、アジアの平和と繁栄のため、さらには地球規模の課題も視野に、パートナーシップの強化に努めている。2006年12月5日、シン首相訪日を控えて開催された第5回海外経済協力会議(議長:安倍晋三首相)では、インドを最重点国の一つとして位置付けた上で、円借款や技術協力を総合的に活用し、エネルギー問題や環境、社会開発などの課題にインドとともに取り組むこと、科学技術交流や民間の交流を積極的に推進していくことが確認された。

こうした背景を踏まえ、JICAも貧困対策、経済改革支援/インフラ整備、環境保全に重点を置いて協力を展開してきた。また、対インドODAの大部分を占める円借款との連携も拡充しているほか、06年には28年ぶりに青年海外協力隊の派遣も再開。協力の成果と最新の動向を伝える。

VOICES from South India(インド)
「日本の養蚕技術が暮らしを変えた」

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繭を作るまでに成長した二化性蚕を集める女性労働者。養蚕農家の成功は農村の雇用を生む

生糸の需要の高まりとともに中国からの輸入が増えているインド。品質の高い「二化性生糸」※の自給を目指す政府は二化性養蚕技術開発の協力を日本に求め、JICAは1991年から技術協力を実施してきた。その結果、二化性養蚕の導入に成功し、モデル農家の所得向上などの成果が見られたことから、繭の産地であるカルナタカ州、アーンドラ・プラデシュ州、タミルナドゥ州で技術を農家に広く普及し、二化性生糸の増産と農民の収入向上を目指す「養蚕普及強化計画」が2002年に始まった。協力を開始してから15年。日本の養蚕技術は、現地にどんな変化をもたらしたのか。

文・写真=谷本美加(写真家)
text and photos by Tanimoto Mika

※1年間に2回世代を繰り返すものを二化性蚕、2回以上のものを多化性蚕といい、二化性蚕の繭から取った生糸を二化性生糸、多化性蚕から取った生糸を多化性生糸と呼ぶ。現在は多化性蚕はすべて、多化性蚕と二化性蚕を掛け合わせたものになっている。

農民から農民へ 広がる二化性養蚕

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ニッティヤナンさんは、現在10万匹の二化性蚕を飼育。かつてはサトウキビやコメを作る農家で、ほとんど利益はなかった。最初はすべての作業に不安があったが、3年の経験を積んだ今では、技術も収入も安定したという

一歩足を踏み入れて耳を澄ますと、「サワサワ、サワサワ」、優しい音に包まれる。目の前では、7万5000匹の蚕(カイコ)がせわしなく桑の葉を食(は)んでいるのだ。部屋の奥まで続く4段式の蚕棚では、5〜6人の男女が、うごめく蚕を両手いっぱいに集め、つぶさないようにそっとざるに移し変える作業をしている。

ここは、インドIT産業の代名詞ともいわれるカルナタカ州都バンガロールから、車で2時間ほど離れた養蚕地帯、トレセティーハリという農村だ。蚕棚の陰から現れたのは、養蚕農家のナラヤナさん(24)。「多化性蚕を、父の代から20年以上飼育していました。でも飼育技術をもっと勉強して、友達のように収入を上げたいと思ったのです」と話す。

その友達ニッティヤナンさん(26)は、JICAの支援で二化性養蚕を導入した「JICAファーマー」の一人だ。3年前に新しい蚕室を作り大きな蚕棚を設置、新しい品種の桑の栽培も取り入れた。そして、二化性蚕の飼育の仕方、病気対策、桑の育て方など、これまで村にはなかった新しい技術を身に付け、養蚕で生計を立て始めた。そのおかげで、妹に立派な結婚式を挙げさせたり日本メーカーのバイクを購入したり、生活ぶりが大きく変わった。ナラヤナさんは「友達を見て、僕も去年初めて二化性蚕の飼育に挑戦しました。年収約6万6000ルピー(1ルピーは約2.6円)が約9万3000ルピーになりました。新しい蚕室を作るために銀行からお金を借りましたが、国と州から5万ルピーの補助金が出ます。技術指導も受けられます。銀行のローンは心配していませんよ。友達がやっているのだから僕にだってできる」と、内に秘める自信を静かに語った。

インドはもともと、世界第2位の生糸生産量を誇る。しかし、サリーなど絹織物の経糸(たていと)に使う、良質で強度のある二化性生糸は、もっぱら中国やブラジルからの輸入に頼っていた。そこでインド政府は二化性蚕の導入と二化性生糸の国内自給を目指し、日本に技術協力を要請、それを受けて、日本の二化性養蚕技術をインドへ移転する協力が1991年に始まった。

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清潔に保たれたナラヤナさんの蚕室。消毒や掃除の徹底も、二化性養蚕には大切な条件だ。ナラヤナさんは父親の代から過去20年間、自宅の中で蚕を飼育する伝統的な手法の養蚕農家だったが、JICAファーマーになって別棟の蚕室や大きな蚕棚を導入した

「当初、カルナタカ州政府は非協力的だったんですよ。『多化性蚕だけで十分だ!』なんて言われちゃって。この先どうなるかと思いました」

「養蚕普及強化計画」のチーフアドバイザーを務める柳川弘明さんはそう苦笑する。しかし、繭の生産量が上がり高値で売れれば、養蚕農家は二化性蚕に飛び付くに違いないと確信。97年までの6年間で、インドの気候や風土に適した桑や二化性蚕の品種改良、桑の栽培方法、蚕の飼育方法、繭の繰糸(そうし)方法などの研究開発を、インド繊維省中央蚕糸局を拠点に進めてきた。その研究成果をもとに二化性養蚕技術を142戸のモデル農家へ導入。いつからか、彼らは「JICAファーマー」と呼ばれるようになった。現在、柳川さんらは、二化性養蚕普及モデルの確立に力を注ぎながら、目標3600戸のJICAファーマー育成を目指している。

ナラヤナさんやニッティヤナンさんの話を聞きながら、「農家はとても意欲的でしょう。養蚕は1年に6〜10回繭を作り売ることができる。だからきちんと技術を身に付ければ、ほかの作物を作るよりずっと収入が安定するわけですよ」と柳川さんは言う。村で一人の成功者は、これから何人もの成功者を生み出すに違いない。

待望の国産二化性生糸

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「JICAファーマー」ブランドの白い繭のせりでは、常に高値がつく。最近では柳川さんら専門家の指導のもと、手の感触で値を決めるのではなく、「生糸1キロを紡ぐのに必要な繭の重量」を測定し、値を決めるシステムを導入し始めた

インド最大の繭市場が、トレセティーハリ村から車でわずか30分ほどの町、ラマナガラムにある。毎日1000人近い養蚕農家が繭を売りに来るという広い市場内は、男たちの汗と熱気と威勢のいい声、そして生きた繭のにおいで息が詰まりそうだ。大きなワゴンに積まれた黄色い繭を囲んで、せり人と何人もの製糸業者が目の前の繭を手に手に、感触を確かめながら値段を決めている。この黄色い繭が、インドで昔から飼育されていた多化性蚕の繭。かつてはこの繭しかなかった市場に、今では、傷や汚れがなく均一の形をした輝くばかりの白い繭が山と積まれているではないか。「繭市場で、JICAファーマーという言葉は有名ですよ。それは『良い繭』と同じ意味です」と繊維省中央製糸研究所のインド人研究者が言う。そして、「JICAファーマー」ブランドの繭は、製糸業者の間で常に高値で取引されるのだ。

この日、繭を売りに来た一人のJICAファーマーは、午後には10万7800ルピーの現金を手に、村へ戻っていった。

製糸業者が買い付けた繭は、ラマナガラム一帯に3000軒はあるという製糸工場へ運ばれる。

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インドの伝統的な製糸方法であるチャルカの工場は、人力のため効率が悪い上、繭をゆでる温度や生糸を乾かす温度が一定でないため、質が劣る。また、多化性蚕の繭からできた生糸は、繊維の長さが700〜800メートルと短く、絹織物の経糸には適さない

「ガチャガチャガチャガチャ…」

町中にこだまする機械音の中を歩き、一軒の民家のような小さな入り口をくぐると、鼻を突くにおいとムッとする湯気が体を覆い尽くした。ぐつぐつと煮立ったかまどに浮いているいくつもの黄色い繭から、ようやく目に見える程度の繊細な絹繊維を取り出し、話をする間もないほど素早く手を動かしながら、次から次へと男たちが汗だくで紡いでいる。強いにおいは、釜の傍らにちりばめられたゆだったさなぎのせいだった。

この「チャルカ」と呼ばれる木製の繰糸機が、インドの伝統的な製糸方法だ。しかし、チャルカではJICAファーマーが育て上げた二化性蚕の繭の質が台無しになってしまう。

一方、チャルカ式の工場からほど近い別の工場では、白い生糸が整然と繰られていた。目に見えないスピードで動く機械の前で、女性たちが時折糸の調子を確認している。「日本では、ベルトコンベア装置やコンピューター制御があるような、もっともっと大きな全自動の機械を使っているんですよ。でもここにそんなものは必要ない。インドの工場に合った小型の機械を開発し、豊富な労働力を生かして半自動にするなど、すべてインド流にアレンジしているんです」と柳川さんは言う。そして工場のオーナーが新しい機械を導入できるよう補助金制度を創設し、製糸技術普及員が技術的な指導をするという体制を整えて初めて、政府が望んだ絹織物の経糸、二化性生糸が生まれたのだ。

工場のオーナーが手にする白くつややかな生糸を、専門家の小嶋桂吾さんが手に取り「とてもいいものですね。これは、21デニールぐらいかな?」と尋ねると、すかさずインド人研究者が流ちょうな日本語で言う。「センセイ、これはねぇ、16〜18デニールですヨ」。すでに養蚕や製糸産業が衰退した日本では、まず作れない細い生糸だ。

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南部3州で、養蚕普及所、養蚕研修校、製糸技術研修所など64機関とともに、プロジェクトで作られた教材を使った研修・普及活動が続いている。教材は、ヒンディー語や英語のほかカンナダ語、タミル語、テルグー語など各地域の言語で作られている

このプロジェクトに携わる多くのインド人研究者が、日本で養蚕技術の研修を受け、インドで活動する日本人専門家とともに今日まで開発・普及に取り組んできた。今日の高い成果は、日印の専門家たちの努力の上に、設備投資をしてでも新しい技術を組み入れようとする養蚕農家や製糸業者のパワーと努力が積み重なったものといえよう。

今や日本で失われつつある養蚕技術がインドに広がりつつある中、日本人専門家たちは、口をそろえて言う。「世界に誇れる最高級のインド産二化性生糸を作り出す可能性は十分にある。そのためには、インドが独自で判断し、行動できる自主性がはぐくまれること、これが大事です」。

さなぎが成虫になるごとく、インドの養蚕が独り立ちする日は、そう遠くないかもしれない。