monthly Jica 2007年4月号

特集 観光振興 地域再生の“光”(1/4ページ)

観光は、外貨獲得や雇用・所得の増大、地域振興の手段として、多くの開発途上国が注目している産業だ。特に近年、「貧困削減」という国際的な開発目標を達成するための手段としても重視されつつある。また、経済的な効果だけでなく、国と国、人と人との相互理解の増進や、世界の文化的発展と平和、開発と環境保全との調和、自然資源の持続的な利用などの面でも重要な役割を果たすことから、より持続可能な観光開発に取り組む動きが加速している。

そうした背景から、途上国では観光協力に対するニーズが高まっており、JICAも観光開発・振興に関連する政策・制度づくりやインフラ整備、人材育成などに協力してきた。その取り組みは、観光産業の振興を支援する事業だけでなく、自然環境保全や地域振興、文化財保護など幅広い分野で行われている。

豊かな自然や多様な歴史文化遺産、地域住民の力を生かして、JICAが各地で展開している観光分野のさまざまな協力を紹介する。

VOICES from Mexico(メキシコ)
「子どもたちの将来のために、この環境を守りたい」

【地図】メキシコ遺跡やビーチリゾート、多様な自然に富むメキシコでは、観光産業が重要な外貨獲得源の一つ。中でも、ユカタン半島はマヤ遺跡や独特の湿地生態系を有するが、開発や観光客の増加、住民の過度な自然資源の利用などにより、環境が悪化しつつある。メキシコ政府とJICAは「ユカタン半島沿岸湿地保全計画」を実施し、ユカタン州とカンペチェ州にまたがるリア・セレストゥン生物圏保護区で、湿地帯の保全・修復と自然資源の持続的な利用促進に取り組んでいる。その活動の一つが、漁民によるエコツーリズム※1だ。

生態系を守りながら暮らしていくために導入されたエコツーリズムの試みは、地域や人々の意識にどんな変化をもたらしたのか。

※1 基本的な考え方は、自然・文化など地域固有の資源を生かしていること、観光によってそれらの資源が損なわれないよう適切に管理・保全すること、地域経済に貢献していること、など。

人間が引き起こす生態系の危機

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保護区はフラミンゴの繁殖地として有名だが、300種以上の鳥類が生息する鳥の楽園。中川さんは「ほとんどの観光客がフラミンゴを見るボートツアーに参加するが、セレストゥンの魅力はそれだけじゃない。エコツアーで自然との一体感を五感で楽しんでほしい」と言う

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枯死したマングローブ(奥)を修復するためにプロジェクトで植えられた苗木(手前)。日本人専門家の調査で枯死の直接的な原因が土中塩分濃度の上昇にあることが判明し、現在、土壌環境を改善しながら植林に取り組んでいる

まったく起伏のない大地に地平線まで伸びる一本の幹線道路。道の両側には緑のマングローブ林が続く。ここユカタン半島には川がない。世界の四大文明が大河沿いに発展したことを考えると、この地でマヤ文明が栄えたことが不思議に思えるかもしれないが、太古より豊かな生態系をはぐくみ、人々の命を支えてきたのが、セノーテと呼ばれる豊潤な地下水だ。中でも、半島北西部、8万1482ヘクタールの広さを持つリア・セレストゥン生物圏保護区は、沿岸部をマングローブ林が覆い、約600種の生物が生息するユニークな湿地生態系を形成している。多数の渡り鳥の避寒地としても重要な役割を果たし、2004年にはラムサール条約※2に基づく「国際的に重要な湿地」として登録された。

ユカタン州の州都メリダから保護区まで約98キロ。平坦な道路を車で走ること1時間半、入り江に架かる全長100メートルのコンクリート製の橋を渡ると左手に異様な光景が現れた。枯れ果てたマングローブ林の姿だ。「今も枯死により森は後退し続けています」とJICA専門家の中川圓(まどか)さんがつぶやく。枯死の原因は、道路・橋の建設に伴う地下水の分断やハリケーンによる高潮などとされる。枯死面積はユカタン州側で約135ヘクタール、カンペチェ州側で約3800ヘクタールに及び、これまでメキシコ政府は植林などによる修復に取り組んできたが、ほとんど成果は見られていない。

保護区の“危機”を引き起こしているもう一つの要因が住民の営みだ。保護区内には、ユカタン州側に人口約7000人のセレストゥン市と、カンペチェ州側に約700人のイスラアレナ村の2つのコミュニティーがある。住民は2000年に保護区が設定される以前からこの地で漁業を営んで暮らしてきたが、人口増加に伴い、廃棄物による環境汚染や、漁による水生生態系の破壊、漁業資源の減少が深刻化している。

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「イスラ・パハロ」のエコツアーの目玉の一つとなる、高さ17メートル、6階建ての展望台を案内するメンバーと中川さん(右)。まだ建設途中だが「完成すればこの辺りを一望できる」とダミアンさん(右から2人目)は得意げだ。彼の息子もメンバーで、有望なガイドの一人

これらの問題に、保護区管理事務所と自治体や地元のNGO、住民などが共同で取り組み、適切な湿地保全と自然資源の持続的な利用を促進するため、国家自然保護区委員会(CONANP)とJICAが03年に開始したのが「ユカタン半島沿岸湿地保全計画」だ。現在、川上徹チーフアドバイザーと中川さんの2人の長期専門家と関連分野で随時派遣される短期専門家の指導の下、管理事務所のスタッフが関係機関や住民と、マングローブ林の修復、漁業の代替産業としてのエコツーリズムの促進、固形廃棄物の収集・処理システムの確立、環境教育の普及などの活動を展開している。

「保護区に暮らす人々が将来にわたり、自然を守りながら持続的に利用していく手段として期待しているのがエコツーリズムです」と川上さんが言うように、保護区では今、エコツーリズム振興の機運が高まっている。独特の生態系を有し、マヤ遺跡が点在する半島北西部には年間5万人以上の観光客が国内外から訪れる。漁業資源の減少や保護区域での漁の制限などで生活への危機感を募らせる漁民たちは漁業に替わる収入源として、管理事務所は住民や観光客の環境意識を向上させるツールとして、エコツーリズムに期待を寄せる。保護区では現在、3つの漁民グループが、プロジェクトの支援を受けてエコツーリズム導入に奮闘している。

※2 「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」。1971年にイランのラムサールで開かれた国際会議で作成され、75年に発効。

安全で安定した収入源を

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3つ目の漁民グループ「アラモ」のリーダー、ルシオさん(34)。アラモのエコツアーは、ペテンと呼ばれるわき水周辺に発達した豊かな植生を観察するもの。ジャガーやクモザルなどいろいろな動物が現れるという。「ボートツアーとは異なる方法で、セレストゥンの魅力を伝えるエコツアーにしたい」

木漏れ日が降り注ぐマングローブのトンネルを、ゆっくりとボートが進む。複雑に絡み合いながら根を広げ、幻想的な雰囲気を漂わせるマングローブの森の中で、幾種もの色鮮やかなカワセミやサギなどの野鳥が目を楽しませてくれる。聞こえてくる音は、かすかな水の流れと、軽やかな鳥のさえずり…そんな豊かな湿地生態系の世界を体感できるエコツアーを案内するのは、漁民グループの一つ「ラグーナ・デ・シニトゥン」のクラウディオさん(37)とホセさん(21)だ。ガイド役のホセさんが、マングローブの種類や機能、次々と現れる鳥の名前などを教えてくれる。

リーダーのクラウディオさんが漁師仲間10人でグループを立ち上げたのは2003年。

「人口が増えて年々、漁獲量が減り、沿岸よりも遠くに漁に出なければならなくなった。そうすると、ガソリン代がかかるし、天候が急変して戻れなくなるなど危険も増える。実際に帰ってこない漁師もいるんだ。漁は朝6時から夕方6時まで。その間、家族はずっと心配しながら待っている。収入も以前に比べ6〜7割は減ったよ。漁の稼ぎは1日300ペソ(約3300円)ぐらいだが、稼げない日もあるから、みんな不安を抱いている。それで、危険が少なく、安定して収入を得られるエコツーリズムをやろうと思ったんだ」

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環境天然資源省からの補助金で木道を建設するアラモのメンバー。午前中は漁に出て、午後に作業を進める。ルシオさんは「皆貧しくて、かやぶきの家に住んでいる家族もいるので、エコツアーで収入がたまったら、まずは生活環境を良くしたい」と話す

しかし、幼少よりずっと漁で生きてきた彼らは、セレストゥンの自然の価値やエコツーリズムのことをまったく知らず、最初にプロジェクトから話を聞いたときは、到底できると思わなかったという。

「俺たちは漁師だからよ、観光客と話すのだって無理だと思った(笑)。でもJICAと管理事務所が保護区の自然のことやガイドの方法、英語の研修をしてくれ、だんだん慣れてきて、今はだいぶ自信がついてきたよ。外国人観光客も多いから英語は必要だし、客の満足度を高めるには豊富な知識を身に付けなきゃいけないことも分かった。メンバー全員がいいガイドになれるよう頑張っている」

プロジェクトのおかげで環境に対する見方も変わったそうだ。「昔はマングローブを材木としてしか見ていなかったし、大切だと思っていなかった。でも今は、この豊かな自然が守られてこそ、子どもたちの将来があるんだと考えるようになった」。

小学校卒業後、漁師になったホセさんも「エコツーリズムは漁業と違って将来性がある」と目を輝かせる。管理事務所のフアンさん(26)は「彼は無口で恥ずかしがりやだったのに、今はメンバーの中で最も優秀なガイド。経験を積むことが一番いいことだと思う。ほかの漁民グループでも若手が意欲的で、メンバーを引っ張っている」と評価する。

人を育て意識を変えるJICAの支援

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ナイトツアーで野生のワニの生態を説明するセレストゥン一の名ガイド、アレックスさん(右)。独学で保護区の生物のことを勉強し、アメリカに留学してガイドの手法を学んだ彼はプロジェクトの研修の講師を務め、ガイドのマニュアル制作にも協力している。「プロジェクトは住民の環境意識を大きく向上させた。プロジェクト終了後も、研修を続けてグループを支援していきたい」。ホセさん(左)も「彼のような素晴らしいガイドになりたい」と言う

「ごみが落ちているのを許してください。エコツーリズムを始めて、ごみが散乱しないよう気を付けているのですが…」

漁民グループ「イスラ・パハロ」のダミアンさん(40)が、彼らのエコツアーサイトであるマングローブ木道の入り口で、ペットボトルのごみを見つけるやいなや詫びた。彼らのツアーは、マングローブ林に建設中の全長1キロの木道を散策し、自然観察を楽しむというもの。現在、約半分まで整備され、残りの建設を急ピッチで進めている。

彼らもまた、先細る漁業に不安を感じ、観光業を始めようと01年にグループを設立した。

「正直に言えば、環境のことなど考えたことがなかった。それは自分たちが無知だったから。プロジェクトが始まって、マングローブや自然の重要性を知り、守らなければいけないと思うようになった」

だが、エコツアーをやると決めたものの、グループをまとめるのは容易ではなかったという。

「グループとして活動するには、一人一人が責任を持って参加することが重要だが、皆、生活のために漁に出なければいけないし、なかなか作業が進まなかった。何とかここまでやってこられたのは、プロジェクトの支援があったから。今後も研修をしっかり受けて、特に若いメンバーのガイドの能力を高めたい。環境を守りながらエコツアーができれば、将来の仕事に困ることもないと思う」

中川さんの指導の下で、各グループの組織強化やエコツアーサイトの整備、研修などを支援してきたフアンさんは、「彼らが少しずつ成長し、自信を持つようになってきている様子を見るのがうれしい。今後の課題は、グループ間の連携を強化してエコツアーのプログラムを充実させること、ガイドをしながら観光客と一緒に環境をモニタリングできるようになること。中川さんたちと一緒に活動する中で多くのことを学んだが、皆が同じ目標に向かって情熱を持って取り組めば、どんな困難も乗り越えられると気付いた」と話す。

管理事務所のホセ所長も「目標達成のために強い使命感を持つ日本人専門家たちと行動を共にし、技術指導を日々受けることで、スタッフが意識や能力だけでなく、人間的にも目覚ましく成長している。そのことがすべての活動を支え、大きな成果につながっている」と強調した。

メリダから飛行機でメキシコ市に戻る途中、厚い雲に覆われていた空がセレストゥン上空で晴れ、海に迫り出した保護区一帯を眺望できた。雄大なマングローブ樹海を中心とした、無数の“命”をはぐくむ湿地生態系—その中で人間も養われていることを改めて実感する。それは地球の生態系そのものの縮図ともいえよう。「セレストゥンは神様がくれた大切な宝物」というフアンさんの言葉に大きくうなずいていた漁師たち。エコツーリズムが軌道に乗るまでまだ時間を要するだろう。それでも、自然を守りながら生きていく道を歩み始めた人々のエコツアーは、訪れる観光客に、「環境保全」のメッセージだけでなく、地球の“命”の一つとしてどう生きるべきなのか、考えるきっかけを与えるに違いない。