monthly Jica 2007年8月号

特集 西バルカン地域 多民族社会の平和を目指して(1/4ページ)

かつて「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と称された旧ユーゴスラビア。民族、宗教、政治などが複雑に絡み合い、1990年代に独立をめぐって激しい紛争が繰り広げられたこの国は、現在、6つの独立国に分離した。国際社会の支援のもと、旧ユーゴを中心とする西バルカン諸国の復興は進展し、将来の欧州連合(EU)加盟を目標に、さまざまな制度改革や持続的な経済成長に努めているものの、失業率は依然として高く、民族紛争の傷跡を残す多民族社会は、セルビア南部コソボの独立問題など、構造的な不安定要因を抱えている。

JICAは、2004年に日本で開かれた「西バルカン平和の定着・経済発展閣僚会議」参照(PDF/577KB)を踏まえ、EU加盟に向けて、持続的な経済成長を支える「民間セクター開発」、開発事業を通じた民族融和・信頼醸成を促進する「平和の定着」、さらにこれまでの東欧への協力の経験も踏まえた環境汚染の対策に取り組む「環境保全」の3分野に焦点を当てて支援を行っている。

「ユーゴの悲劇」を乗り越えて、再び平和な社会を取り戻そうと尽力する人々の姿とJICAの支援を紹介する。

西バルカン地域と旧ユーゴの分離独立

【地図】西バルカン地域西バルカン地域は、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、セルビア、モンテネグロの6カ国。

旧ユーゴスラビアは、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニアと国境を接し、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア(コソボ自治州を含む)、モンテネグロの6つの共和国で構成されていた。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人の5つの民族(その後「ムスリム(ボスニアック)」が加わる)、セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語の4つの言語、カトリック、東方正教、イスラム教の3つの宗教、ラテン文字、キリル文字の2つの文字を持つ。

1991年にスロベニアとクロアチア、マケドニアが独立を宣言、旧ユーゴの解体が始まる。クロアチアではクロアチア人と独立に反対するセルビア人の間で内戦が発生、92年からボスニア・ヘルツェゴビナでも独立をめぐりセルビア人、クロアチア人、ムスリムが互いに争ったが、国際社会の介入により95年のデイトン和平合意を経て、紛争は収拾に向かった。また、セルビアとモンテネグロは92年にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)を樹立し、2003年にセルビア・モンテネグロに国名変更。その後モンテネグロが06年6月に独立した。

セルビアのコソボでは、人口の約9割を占めるアルバニア系住民が独立を求めて98年に武力衝突が激化。ユーゴ連邦軍の介入、北大西洋条約機構(NATO)によるユーゴ空爆を経て、99年から国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下にあり、07年6月現在、その最終地位をめぐる協議が国連安全保障理事会で行われている。

VOICES from Bosnia and Herzegovina(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
「子どもたちの将来のために生きる」

【地図】ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリムとクロアチア人が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が中心のスルプスカ共和国の2つのエンティティ(政治的主体)で構成され、高度に分権化されている

旧ユーゴからの独立をめぐり1992〜95年、ムスリム(ボスニアック)、セルビア人、クロアチア人の3民族間で激しい内戦が繰り広げられたボスニア・ヘルツェゴビナ。死者20万人以上、難民・国内避難民は200万人に及び、「民族浄化」という言葉で世界を慄(おのの)かせた争いから10年以上が過ぎた今も、崩壊したコミュニティーや民族間のつながりの“再生”に向けた努力が続けられている。同国の平和の定着、民族融和を目指すJICAによるスレブレニツァ、モスタルでの試みを伝える。

廃虚が残る山間の村

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4年前に帰還したムスリムのハルバシュ・ムーラさん(56)は2人の孫を育てる。NGOポドリニェ・イエダンの温室野菜生産事業の受益者の一人で、トマト、パプリカ、ホウレンソウなどを栽培。「温室栽培はあまり手間がかからない。もうすぐ収穫だけど、たくさん取れると思う」

新緑が美しい山間に赤いレンガ造りの民家がぽつぽつと見える。ドナウ川の支流、ドリナ川が豊かな水をたたえ、穏やかに流れている。かつてここが激戦地だったとは信じられないほど、のどかな風景だ。しかし、その家々に目を凝らすと、人気(ひとけ)のない廃虚が多いことに気付く。「戦争前の人口の3割程度しかまだ回復していない」とJICA専門家の大泉泰雅さんが言う。

ボスニア・ヘルツェゴビナ東部、スレブレニツァ市には19地区があり、ほとんどが山深い農村地帯だ。戦前は、この地域の気候風土に適した有機農業や酪農が盛んで、セルビア人とムスリム合わせて約3万6000人が暮らしていたが、紛争中、両民族の対立が激化し、互いの村が焼き討ちに遭うなどして、多数の犠牲者を出した上、多くの人が住み慣れた土地を捨てて避難せざるを得なかった。凄惨(せいさん)な虐殺が行われた地域でもあり、特に1995年7月に約8000人のムスリム男性が殺害されたことは、第2次世界大戦以降ヨーロッパで最大の悲劇の一つといわれる。

紛争終結後、日本を含む国際社会の支援により、破壊されたインフラなどの復興が進んだが、スレブレニツァはほかの地域に遅れてようやく2002年から難民・国内避難民の帰還が始まった。しかし、多くの帰還した家族や、一家の働き手を失った母子家族、戦争傷痍(しょうい)家族は経済基盤が弱く、援助物資や年金などに頼る生活を強いられている。そこでJICAは、そうした人々を主な対象としてセルビア国境沿いのスケラニ地区をはじめ6地区で「スレブレニツァ地域における帰還民を含めた住民自立支援計画」を06年3月に開始。現地のNGO※1と協力し、農牧業の再興を通じて住民の経済的な自立を図るとともに、農作業や技術研修を共同で行うことで民族間の対話や交流を活性化し、民族和解、共存社会の再構築、さらに難民・国内避難民の帰還の促進を目指している。

プロジェクトではまず、住民のニーズに基づいた農業事業計画をNGOから募り、民族バランスが取れていて、帰還家族、母子家族、戦争傷痍家族を含む事業、グループによる共同事業、市場を見込んだ事業、地域特性を生かした事業を優先して選定。その結果、牧草(干し草)生産、果樹植え付け、イチゴ、ハーブ、キノコの生産、養蜂など9事業が始まった。約30年にわたり途上国の農業開発支援に携わった経験を持つ大泉さんが、事業の選定から実施促進、関係機関の調整、農業技術のアドバイスなどを行っている。

※1 「Dom(ドム)」(家の意)、「Drina(ドリナ)」(ドリナ川の意)、「Orhideja(オルヒデヤ)」(ランの意)、「Podrinje1(ボドリニェ イエダン)」(ドリナ川流域の地域の意)、「Zadrugar(ザドルガル)」(伝統的な家父長制の共同体「ザドルガ」のメンバーの意)の5団体。また、ルカ地区の自治体による農業機械共同利用事業への支援も開始した。

収入向上と民族融和につながる事業

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イチゴ生産事業の受益者はムスリム、セルビア人の母子家族。地元の篤農家の技術指導のもと、巨大なイチゴを収穫できた

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NGOドリナの養蜂事業では、50家族に養蜂箱が供与され、養蜂経験農家による巡回指導が行われている。代表のドラジッチ・グリシッチさんは「受益者には両民族が平等に含まれている。JICAは現地に専門家がいるのでとても有効な支援を受けられる」と話す

「去年の秋、ナシとリンゴの苗を植えた。育ち具合は順調だが、苗を食べに来るウサギがやっかいだ。暮らしは4年前に帰還したころよりずいぶんましになった。JICAが支援してくれるのは本当にありがたい。実の収穫が待ち遠しいよ」

NGOドリナとオルヒデヤによる果樹植え付け事業の受益者の一人、ムスリムのオスマノビッチ・ハメッドさんはそう話す。この事業では、5地区236家族に、果樹苗1万5000株を提供し、植え付けと栽培の技術研修を行った。果樹は安定した収入源が見込めるほか、荒廃した農地の復興と有効利用につながる。果実から酒やドライフルーツなど加工品もできると、受益者に喜ばれている。

この春、豊作に恵まれたのが、オルヒデヤによるイチゴ生産事業だ。地元の篤農家の協力を得て、両民族の母子家族が共に技術研修を受けながら栽培に取り組んだ。雨の被害を受けた苗もあったが、JICAの支援で温室を設置したところ、目を見張るほど大粒のイチゴを収穫。市場での売れ行きも良く、受益者の女性たちは「収入向上につながった。それをもとに苗を増やしたい」と意欲を見せる。オルヒデヤの代表、カタリーナ・ミロバノビッチさんも「彼女たちの成功を聞き、多くの住民がイチゴ栽培に関心を持っている」と話し、大泉さんに事業の拡大を提案している。

両民族が手を結んで生まれたNGOザドルガルは、牧草生産事業を行っている。広大な土地を耕し、牧草を育てる作業は大変な労力を要し、特に母子家族には難しい。ザドルガルはそうした家族に生産支援を行うとともに、7ヘクタールの土地で販売用の生産を開始。また、20へクタールの牧草地の再生を目指して100家族に種子を配布した。

ムスリムリーダーのメフィド・アリッチさんは「私たちの目的は、両民族間のつながりを深めて信頼関係を築き、協力して生活状況を改善し、共存していくこと。これまでの活動はとても順調で、もっと拡大していきたい。経済活動という共通の関心が両民族を結び付け、良い協力関係が友情をはぐくんでいる」と話す。

セルビア人リーダーのドラゴミル・ヤコブレビッチさんも「戦前は伝統的に酪農が盛んで、牧草を育て、家畜を飼い、牛乳を生産していた。私たちには十分な経験がある。JICAには酪農を再興する手助けをしてほしい。両民族が協力し、共に作業することは、人々の意識を変え、平和を築くのに貢献するだろう」と強調した。

キノコ生産事業を提案したNGOドムは、ムスリムのアルミール・ムミノビッチさんが、地元の復興のために立ち上げた。彼の集落では、戦争で夫を亡くした未亡人の7家族が助け合って暮らしている。人々が共同で有機キノコ栽培に従事し、収入を得ることが目的だ。

「村には働き口がないので、経済活動を活性化させたい。目標は農村観光を興すこと。この美しい自然を守りながら発展していけるように。私たちの国は異なる民族が共に暮らす特別な国だ。確かに私たちが経験したことはとても過酷なものだった。だが人生には大変なときもある。過去を振り返らず、家族のために、子どもたちの将来のために、生きていかなければ」

こうした事業を通じてNGOは人々の生活向上を支援すると同時に、草の根・人間の安全保障無償資金協力※2を得て、新たな産業を興す試みも開始した。ハーブ生産事業を行うポドリニェ・イエダンと、ドリナ、ドムの3NGOが連携して進めているのが、ハーブ・プラム・キノコ加工事業だ。各農産物を集荷し、ドライプラムや乾燥ハーブ・キノコなどに加工、販売する事業を計画している。

ポドリニェ・イエダンの代表ブランキツァ・ボスコビッチさんは「加工工場が完成したら地元の人を雇用する。この地域ではほとんどの人が失業しているので、雇用はとても重要。事業を拡大して、もっと仕事の機会をつくりたい。JICAのようにきめ細かい支援をしてくれるドナーは初めて。ただお金や物をくれて終わりではなく、事業を一緒に真剣に考えてくれる」と、完成間近の工場の前で話してくれた。

一方、オルヒデヤは家畜市場の開設と飼料加工事業に取り組んでいる。家畜市場は、地域の畜産事業の中核地となり、経済活動だけでなく地域・民族の交流の活性化につながることが期待される。しかし、「使われていない空き地を家畜市場の予定地にしていたが、その隣にムスリムの墓地があり、設置を反対する声がある。代替地も考えながら、できるだけ平和的に問題を解決しようとしている」(カタリーナさん)。

住民の中には両民族が共同作業や交流をすることを快く思わない人もおり、事業がスムーズに進まないこともあるという。大泉さんは「民族に絡むさまざまな問題が出てくるので、自分が中立的な立場で調整する必要がある。どちらの民族も戦争の被害者であり、事業の恩恵が不公平にならないよう、民族間のバランスに最も配慮している」と説明する。

この地域の人口の8割を占めるセルビア人は、対象がムスリムに偏るドナーの援助に反感を抱いていたが、大泉さんらのやり方を「ほかのドナーと違ってJICAは平等」と高く評価している。

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スレブレニツァの山村に残る廃虚。牧草地だったところも戦争で放置されて荒れてしまっている。大泉さんは「住民が戻ってきて、牧草地に整備したところは、きれいな若葉が生えているのが、よく見ると分かる。この荒地を少しでもよみがえらせたい」と言う

スレブレニツァ市のアブドゥラマン・マルキッチ市長も「JICAの活動はとても重要だ。特に経済的に孤立している地域で、農業振興による地域開発と、両民族の共同作業の実現に貢献している。今後はさらに支援地域を拡大してほしい。人々の収入向上が目的だが、民族間の信頼関係を構築し、民族同士が、また一人一人が協力し合うことの大切さを示してほしい。それが地域社会の発展に不可欠だからだ」と訴える。

プロジェクト開始から1年間で支援を受けた家族は、6地区の総世帯数の75%、612世帯に上る。NGOや受益者間の話し合い、共同作業などを通じて、民族間の不信感は徐々に小さくなってきた。また、個々の利益から地域全体の発展への意識が高まりつつあるという。

大泉さんは「今後は、これまでの事業を軌道に乗せつつ、支援の届いていない僻地(へきち)に事業を拡大していきたい。農牧地が再興されているのを目にすれば、帰還しようと思う家族も増えるだろう。しかし、今の世代が民族間の問題解決を避けて過ごせば、子どもや孫が同じ過ちを繰り返すことは皆が知っている。共存社会の再構築はまだ始まったばかりで、一歩一歩、進むしかない。プロジェクトがその一助になれば」と願いを込める。

※2 途上国のNGOなどからの要請による比較的小規模の案件に対する資金援助。日本の在外公館が担当する。

IT教育を通じて民族融和を

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ムミノビッチさん一家。アルミールさんは1995年にムスリム男性がセルビア人に強制連行され、虐殺が行われていたとき、山中の逃避行を経てツズラに逃げ延びた。ボスニア人母子家族の生計向上のためキノコ生産事業を開始。戦前に日本の援助で建設されたダムの試掘トンネルを活用して、キノコ栽培室を整備した

ムスリム、セルビア人、クロアチア人の三つ巴(どもえ)の戦いが繰り広げられたボスニア紛争で、ムスリムとクロアチア人の激戦地の一つだった町がモスタルだ。ネレトバ川をはさみ東西に分かれた両民族の町を結ぶ橋が壊されたが、04年に再建され世界遺産になったことで知られる。町の復興も進み、今や海外からも多数の観光客が訪れ、活況を呈しているが、民族間の“隔たり”は依然存在する。それは教育制度にも表れている。

モスタル市の普通科高校「モスタルギムナジウム」。紛争前は、両民族が通う旧ユーゴ屈指の名門校だったが、紛争で破壊され、戦後は一部修復した校舎にクロアチア人だけが通うようになっていた。国際社会の支援で校舎の修復が進み、教育統合のモデル校に指定され、04年にムスリムも通学を再開したものの、両民族は別々の教室で、別々のカリキュラムで授業を受けている※3

日本は教育を通じた民族融和の促進に貢献するため、両民族の生徒が合同で利用することを条件に、IT教育用機材を支援した。JICAも合同の課外授業の実施を支援したほか、日本の情報教育を参考に、共通の近代的な情報科カリキュラムを策定・導入するプロジェクト「モスタル高校IT教育近代化」を開始。06年9月に同校で試験的に1年生対象の新カリキュラムが導入され、戦後初めて両民族の子どもたちが机を並べる授業が実現した。

※3 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、ムスリム、セルビア、クロアチアの3民族がそれぞれの文化・歴史認識に基づく別々の教育カリキュラムを使用しており、国際社会は、民族間対立を助長する教育が行われることを懸念し、欧州安全保障教育機構(OSCE)が中心となって教育統合を推進している。なお同国にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦政府とスルプスカ共和国政府に教育省があり、さらに連邦側には各県(全10県)に教育省がある。

将来の平和を担う子どもたち

夏休みを間近に控えた6月初旬、モスタル高校のコンピューター教室では、今学期最後の授業が行われていた。

「自分のホームページを作っているの。これが私の自己紹介のページで、これが友達の紹介、そしてこれがITのクラスの紹介…」

アムラ・シャンティッチさん(15)が授業で作成したホームページを見せてくれた。「ITのクラスは面白くてとても楽しい」と無邪気に笑う。どの生徒も民族合同で授業を受けたり、グループワークをすることを気にする様子はまったくない。IT教員のブラドミール・シャロビッチさんは「生徒たちは『理論の後に実習の授業があるから分かりやすい。新しいことをたくさん学ぶことができた』と、とても満足している」と話す。

JICAの現地コンサルタントとしてプロジェクトを調整するデヤン・バリッチさんは、「従来のカリキュラムは15年前の古い、理論中心の内容で、インターネットもEメールも使えない旧式のコンピューターで行われていた。JICAの支援で近代的なITカリキュラムが作られ、日本の『情報A』の教科書をもとに、共通の内容の教科書が完成した。この1年間は、両民族の1年生193人がそれを使って合同で授業を受けた」と説明する。

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民族合同のITクラスの生徒たち。9月に入学する新1年生は新カリキュラムの合同授業を受けられるが、2年生は別々のカリキュラムに戻る。シャロビッチ先生は「情報B、Cの教科書を作り、2・3年生にも教えたい」と話す

だが現状では、9月に2年生に進級する彼らが再び共に学ぶことはない。2年目以降のカリキュラムが異なるからだ。共に学べるようになるには、カリキュラムの統合を図り、2年目のカリキュラムも近代的な内容に改善する必要がある。

6月中旬、バリッチさんやシャロビッチ先生は、ほかのクロアチア系、セルビア系の高校のIT教員らとともに日本に来ていた。新カリキュラムの今後の普及を念頭に、新カリキュラムの課題を検討すると同時に、日本の情報教育の制度を学ぶためだ。約2週間の研修を終えた彼らは、他校でも新カリキュラムを導入し、また2年目のカリキュラムの近代化を進める意欲を見せた。08年を目標に、日本の情報B、Cの教科書をもとに新しい教科書を作成したい考えだ。

バリッチさんは「モスタル高校を先駆けとして、この試みが民族間の教育統合を促進する力になれば」と期待する。力石寿郎JICA中東・欧州部長も「将来の紛争を防ぎ、平和な国をつくるためには、新しい世代である子どもたちの教育が重要。IT教育をきっかけにほかの教科でも統合が進むことを期待したい。時間はかかるかもしれないが、前進することをあきらめないでほしい」と伝えた。

戦後12年が経つ今なお人々の傷跡は生々しく、民族間の隔たりが“不安定な平和”を感じさせる。壊れた共存社会を取り戻すには、想像以上の時間と粘り強い努力を要するだろう。世界各地で紛争後の情勢悪化が懸念される中、戦後62年目を迎えた日本の平和を改めて尊く思う。

ボスニア・ヘルツェゴビナの荒地に美しい緑の牧草がよみがえり、廃虚に再び家族の“明かり”が灯される日が来ると信じ、ささやかな平和が一日一日積み重ねられていくことを、人類が二度と同じ過ちを犯さないことを、願わずにはいられない。