monthly Jica 2007年9月号

特集 国際緊急援助隊(JDR)設立20周年 被災者に寄り添う緊急援助(1/6ページ)

2007年9月16日、国際緊急援助隊(Japan Disaster Relief Team、以下JDR)が設立されて20周年を迎える。JDRは、開発途上地域など海外で発生した大規模な災害に対し、被災国または国際機関からの要請に応じて、被災者の救助、救急医療などの緊急援助活動を行うことが目的だ。このJDRの派遣とともに緊急援助物資の供与を、外務省の指示のもとJICAが実施している。

日本が初めて国際的な緊急援助活動を行ったのは1979年、内戦によりタイに脱出した大量のカンボジア難民の救済のためだった。奇しくもこのとき日本政府が現地に派遣した視察団の団長を務めたのは、緒方貞子・現JICA理事長だ。

その後、82年に「国際救急医療チーム(JMTDR)」が設立され、自主的に登録した医療関係者を災害時に迅速に派遣するシステムがつくられた。そして87年に「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」(JDR法)が公布・施行され、救助チーム、医療チーム、専門家チームの派遣を含む総合的な国際緊急援助体制が確立された。

それから20年、JDRは、自然災害の多い日本が持つ災害対策の貴重な経験を生かし、数々の被災地で救援活動に尽力してきた。近年、世界各地で大規模災害が多発する中、その役割はますます重要になっている。20年の軌跡を振り返りつつ、JDRの“今”の姿を伝える。

ACTIVITIES in Indonesia(インドネシア)
ジャワの人々の心に残る国際緊急援助隊

【インドネシア地図】2006年5月27日、インドネシアのジャワ島中部で大地震が発生し、国際緊急援助隊(JDR)医療チームが最大の被害を受けたバントゥール県で被災者のケアに当たった。あれから1年余り、JDRの活動を振り返る。

古都が壊滅状態に

【写真】

超音波検査器で妊婦を診察する医師。イスラム教国家であることを考え、女性の医師もメンバーに入った

【写真】

ムハマディア病院脇に設営した十字テントの診療所。1日100人前後の患者を治療した

古き良き時代の面影を色濃く残すジャワ島中部・ジョクジャカルタ特別州。伝統芸能のガムラン音楽や影絵芝居、伝統産業のバティック(ろうけつ染め布地)が町を彩り、ジャワ建築の最高傑作とされ、世界遺産にもなっているボロブドゥールとプランバナンの寺院遺跡群が当時の繁栄を物語る。同国最古の国立ガジャマダ大学をはじめ、高等教育機関が多いこの地域の教育水準は高く、「平和の町」の意味通り、町には活気と誇りに満ちた穏やかな時が流れていた。2006年5月27日、あの惨事に見舞われるまでは…。

夜明け間近の午前5時53分(日本時間午前7時53分)、ジョクジャカルタの大地が揺れた。この地域に多いれんが積みの家が次々と倒壊し、死者5700人以上、負傷者13万人以上、家屋倒壊約13万戸(損壊を含むと約53万戸)、被害総額約31億ドル。マグニチュード6・3という強い地震は甚大な被害をもたらし、その知らせは瞬く間に世界中に広がった。

27日は土曜日。普段と変わらない休日を過ごしていたJICA国際緊急援助隊(JDR)事務局のスタッフはその知らせを受けて集まり、被災地の情報収集に追われた。その数時間後の午後5時(日本時間、以降同じ)には、被害状況や支援ニーズを探る調査チームの派遣準備を開始した。

「午後8時ごろ参加要請の電話があって、即答でした」と話すのは、以前から参加の機会をうかがっていた医師の田邉晴山さん。正式な派遣決定の連絡を受けるまでの2時間、職場や家族の了解を得るために奔走した。そして翌朝10時には成田空港に到着。出発を前に、背中に「JAPAN」と大きく書かれたJDRの証であるベストに袖を通したときは、鳥肌が立つような思いがしたという。

JDR医療チーム出動

【写真】

被害を受けたジョクジャカルタの町。れんが積みの家が次々に崩壊した

29日早朝、7人の少数精鋭の調査チームはジョクジャカルタに到着した。「自分にすることがあるのだろうか」と田邉さんが目を疑うほど、町は平然としていた。しかし、最大の被災地となったバントゥール県に一歩足を踏み入れた途端、チームが目にしたのはばらばらに崩れ落ちた民家と、たくさんの患者が病院の廊下にあふれて苦しんでいる様子だった。保健局の案内で入ったこのムハマディア病院でニーズの高さを確認したチームは、後方支援として病棟前の道路に簡易診療所を開設、午後2時には診療を開始した。

「活動サイトの決定は重要なポイントです。簡単そうで、実はこれがすごく難しい」と話すのは、業務調整員として豊富な経験を持つJDR事務局の大友仁さん。「ニーズの高い場所であるのはもちろん、十字テントを張れるだけの十分なスペースや、治安、重体患者を搬送する病院とのアクセスなども考慮しなければならない。これまでの緊急援助で課題となっていた“到着の遅れ”を少しでも回避し、より緊急性の高い場所でいち早く活動したかった」。医療チームと違って被災国の要請がなくても派遣できる初の調査チームを迅速に送ったのはそうした理由からだ。

最初に診療所に運ばれてきたのは、足の指が切断された女の子だった。それからも、けが人が続々と訪れる。中には高齢者も多かった。「一人でもたくさんの人を助けたい」。災害医療の現場を初めて経験した田邉さんは、水を飲むことさえ忘れ、夢中で診療に当たった。

【写真】

搬送された救急患者を診る田邉医師

そのころ日本では、28日のインドネシア政府の要請を受けて、後続の医療チーム16人が日本を出発していた。「彼らが待ち遠しくてたまらなかった」と話す大友さんは、チームが到着した30日、JDRではベテランの冨岡譲二医師の顔を見た瞬間、安堵(あんど)でその場に座り込んでしまった。高温多湿の厳しい気候条件の中、脱水症状を起こしそうになりながらも、被災状況の把握からサイト選定、早期診療という重責をわずか7人でこなし、医療チーム到着までの3日間で合計睡眠時間がたったの8時間と聞けば、そのときの精神的・体力的疲労は想像に難くない。

医療チームはまず本格的な医療活動のため十字テントの設営に取り掛かった。常時なら数十分で設営できるものも、炎天下で休息を取りながらの作業となれば優に1時間半はかかる。大友さんは、「みんな勇んで来ていますから、『大丈夫、大丈夫』って張り切ってしまうんですよ。でもそれが危険」と話す。これから続く2週間の活動に備え、熱射病や疲労で倒れることがないよう、隊員自身の健康管理は何より重要だ。

医療活動の難しさ

【写真】

被災地の子どもたちと交流する冨岡医師。医療活動とともに被災者の心のケアも隊員の役割の一つ

日本の医療チームが来たと聞けば、けがの程度にかかわらず、日本の医療に期待して人々が殺到するもの。しかし、何時間も歩いてきた人を軽傷だからといって「また明日来てください」とは言えないし、持病が痛むと助けを求める人を地震と関係ないからといってむげに拒めない。JDRは、患者一人一人の症状と事情に合った判断を瞬時にしなければならない。「患者が元気になるまで診られるわけではない。2週間という限られた時間の中で何ができるのか、最初は不安を抱きつつ診療していた」と田邉さんは言う。

医療チーム活動3日目からは、巡回診療も開始した。医師、看護師など3、4人のチームで、中心部から車で30分〜1時間ほどの村々を回った。「畳の上じゃなきゃ死ねないではないが、あるおばあさんは『死ぬならわが家で』と家から出ようとせず、重症だったが簡単な処置しかできなかった。文化や慣習が診療の壁となる場合も多い」と副団長を務めた山田好一JDR事務局次長はそのときの様子を話す。巡回先の患者の多くは、被災後に一度近くの病院で応急手当てを受けていても、病院の混雑で再診してもらうことができず症状が悪化していた。鎖骨骨折で病院搬送が必要だった重症患者は、チームに搬送する車両がなかったことから国際移住機関(IOM)に協力を要請し、IOMが手配した救急車で無事搬送できたという。日本の病院に勤務するインドネシア人医師が帰国してチームを手伝ってくれたこと、そしてガジャマダ大学に留学中の日本人学生数人がボランティアで通訳を買って出てくれたことも大きな力となった。10日間の診療者数は1200人に上り、活躍の模様は日本と現地のメディアで連日伝えられた。

さらに、6月2日から被災者の救助に当たっていた自衛隊医療援助隊も、約2500人を診察し、約1500人に破傷風や麻疹(ましん)の予防接種を行った。

緊急から復旧・復興支援へ

【写真】 【写真】

震災で寝たきりになった老人の床ずれを治療する青年海外協力隊の安達恵子さん(看護師)と京口美穂さん(栄養士)(上)と、竣工した村の診療所(下)

こうして医療チームが被災者の体と心のケアに当たっているそのころ、別の2人のJICA職員は被災地を駆け回っていた。彼らの役割は、緊急支援後に始まる復旧・復興支援の方向性を探ること。JDRの中にこのような調査班が加わったのは初めての試みだ。

その一人、インドネシア事業を担当するアジア第一部東南アジア第一チームの内藤智之さんは、地震発生の知らせを受け、28日から、被災状況の把握と支援ニーズ調査のため、被災地に飛ぶ準備をしていた。その3日後にJDRの一員として現地入りしてからは、昼は災害対策本部やバントゥール県の各局、被災現場などへ情報収集に、夜は隊員や他ドナーなどとの意見・情報交換に走り、支援の内容を徐々に具体化していった。その中で、被災者が体力を回復した後も、余震が続き、いつまた来るかもしれない災害への不安を抱く被災者を精神的に支えていくことが最大の課題として上がった。心のケアも含め、支援を途切れさせることなく復旧・復興期につなげる重要性は、03年12月のイラン・バム地震以降の緊急援助から得た教訓でもあった。

6月に入り、調査班の本隊であるニーズアセスメント調査団が到着すると、10数人体制で本格的なニーズ調査を開始、約3週間かけて、インドネシア側の復興計画策定、公共施設の復旧・整備、コミュニティー再建といった支援プログラムの骨格を作り上げた。そして被災約1カ月後の7月初旬からガジャマダ大学との連携による仮設住宅建設支援や被災者のリハビリ支援、8月からは2人の青年海外協力隊が短期緊急派遣で被災地に入り訪問看護や栄養指導を行った。さらに、11月には4人の協力隊員が中学校でバレーボールやサッカーを指導し、心のケアのために企画した学校対抗の大会では、子どもたちの明るい笑顔が見られたという。無償資金協力による中学校や地域保健所の改修工事も順調に全体竣工を迎えようとしており、人々は被災前の生活を取り戻しつつあった。

あれから1年

「日本の医療チームは親身になって助けてくれた。ありがとう」

震災から約1年後の今年6月末、JDR活動の事後評価でジョクジャカルタを訪れた佐藤仁JDR事務局研修チーム長は被災者からそんな声をたくさん聞いた。テントや医療器具など医療チームの携行機材を引き継いだムハマディア病院ではうれしいニュースに驚かされた。「これらの機材と後に日本から贈られた巡回診療車を使って災害救急の訓練をやっていたんですよ。しかもJDRに習った同じような組織までつくって。わずか1カ月半後のジャワ島南西海岸地震・津波災害や今年2月のジャカルタ大洪水など、すでにいくつかの活動実績もあります。日本の支援がこんな形で現地の人々にはぐくまれることほどうれしいものはない」と佐藤さん。

当時を振り返って田邉さんは「医師になって10年。初心を忘れていたころにJDRに参加し、心が洗われたような気がする。人を助けたいという医師としての純粋な気持ちを思い出しましたね。医療という仕事への思いがさらに強まった」と話す。

JDR医療チームは一刻も早く被災地に駆け付けて、被災者の痛みを和らげ、彼らを支えることが重要な任務。だが、同時に全国からボランティアで集まった日本人の隊員の心にも大きな果実を残しているようだ。